人形のいのち
「お帰りなさい」
私は息を切らしながら扉を開けた。千枝は何時も通り私を迎えてくれた。心底ほっとした。幸せはまだ続いている。
「どうしたのです? そんなに息急き切らして。お酒の後の運動はよくありませんことヨ」
千枝も幸せそうに笑っている。
私は安心に任せて千枝を自分の体に抱き寄せた。
「アラアラ、甘えん坊さん」
私たちはしばらくそのままだった。千枝は何も訊かずに私を宥めてくれていた。何とも情けない図である。友人には見せられない。
私が落ち着くと千枝は訊いた。
「どうかしたのですか? 何かありましたか?」
私は人形屋の人形の頭から聞いたことを話した。
「そうですか。その事実を知る人間は意外と少ないのです。人形がそれを口にしたところで、誰の益にもなりませんからね。だから知るとしたら家の外でしょう。アナタも知ったのですね。お可哀想に」
千枝は沈痛な面持ちで私の手に触れた。暖かい。彼女は人間ではないだろうか。もしかしたら血が通っているのではないか。そんな戯けたことを思う。
「しかし、ワタクシは不幸にはなりません。アナタとの思い出があれば、ワタクシは何時までも幸せなままです」
千枝は笑顔で言うが、これは精一杯の気遣いなのだと思う。思い出は重荷だ。それは千枝の不幸の種となる。幸福は何時だって不幸の種でしかなく、不幸の育った先には何もないのだ。
私は猛毒を吐くような気持ちでそれを口にした。自分の無慈悲な舌を鉄板で焼いてやりたい。しかし、言わずにはいられない。
「ごめんなさい。そうですね。ですけれど、ワタクシは今、確かに幸福なのです。これ以上ないくらいに。だから、後は落ちていくだけなのですヨ」
そんな悲しいことを言わないで欲しい。私だけが幸福に死んでいくなど耐えられぬ。どうか千枝にも幸福な死を。そう願ってやまない。
「大丈夫。大丈夫です。ワタクシはきっと笑って死ねます。それは確かです。アナタのことを思い出せば、不幸の中でも笑えます。アナタは何にも心配しなくでもいいのですヨ」
「心配だよ」
千枝は笑顔で大丈夫ですと繰り返した。
「あの腕があります。ワタクシがアナタに差し上げたあの腕が。アレはワタクシが切り離した幸福です。アレがこの世界にある限り、ワタクシは不幸でありながら幸福であることが出来るのです」
切り離した幸福。千枝が私にくれた小さな幸福。あれは私への気遣いだったのか。万が一、私が人形の真実を知ったときの為に残してくれた一つの安心。
私は腕の仕舞ってある棚に近付き、引き出しを開けた。
そこには確かに腕があった。これが彼女の幸福の結晶。触れればそこにはまだ体温らしき温もりが残っていた。千枝の命が、生命活動の名残りが、私への愛情が、私が注いだ千枝への愛情が、間違いなく残っていた。
私は涙を流して腕を抱きしめた。そして後ろから千枝が私の体を抱きしめた。
幸せだった。そこには一切の幸せしかなかった。
私は絶望的な気分になって、涙をもう一筋流した。