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しもやけ

 その後イザベルに好機は訪れず、日ごと森は深くなり、気温は下がっていった。

 陽が差す時間は短く、昼間でも薄暗い天気が続く。外套の上から毛布を体に巻きつけても、イザベルは一日中寒さに震えていた。馬上で蒸留酒を回し飲みし、白い息を吐きながら冗談を飛ばし合う男たちの耐寒性が信じられなかった。


 夜間はまた一段と冷え込む。天幕の中で火を焚くわけにもいかず、イザベルは外套やブーツを身に着けたまま寝具に包まって、歯の根も合わぬほど震えて過ごしていた。

 寒さがこんなに辛いなんて今まで知らなかった。凍え死んだ方がましだ、などと啖呵を切った数日前の自分を殴ってやりたい気分だった。


 六日目の野営地で、彼女が天幕の中で縮こまっていると、入口の布が突然跳ね上げられた。

 入ってきたのはディミトリだった。イザベルはひっと声を上げ、すぐに怯えて身を竦めた。


「手を見せてみろ」

「え……」


 返事を待たず、彼はイザベルの腕を取り、嵌めたままの手袋を取り払う。露わになった細い指は赤く腫れていた。

 続けて外套の裾を捲られたので、イザベルは座ったまま後ずさった。ディミトリはお構いなしに足首を掴む。


「や、やめてくださいっ……」

「じっとしてろ。足を見るだけだ」


 強引に脱がされたブーツと靴下の中の足は、やはり十指とも腫れ上がっている。痒さのあまり彼女自身が掻き毟った痕が血を滲ませていた。

 ディミトリは小さく溜息をついた。


「何でこんなになるまで黙っていた」

「だって、あの……」

「待ってろ」


 怖い顔で言い残して、ディミトリはいったん天幕の外に出ていった。

 しばしの後戻ってきた彼は、トリスを伴っていた。トリスは湯気の立つ手桶を抱え、表情を曇らせている。


「歩き方が変だとは思ってたけど、お頭に言われるまで気がつかなかったよ。ここ、座って」

「え、何……何するの?」

「妙なことはしねえよ。警戒しなくていいから」


 トリスは毛布を丸めた上にイザベルを座らせ、その両足を手桶に浸けた。手桶の中身は熱い湯――傷に染みて、足先がじんじんと疼き始めた。

 ディミトリは腕を組んでその治療行為を見守っている。


「南の生まれだと経験ねえよな。これは凍瘡……()()()()。冷えて血行が悪くなって、手や指が爛れる。この程度ならすぐに治るけど、凍傷に悪化させると指が腐って落ちるんだぜ」

「そっ、そうなの!? 怖い……」

「体の末端を締めつけるのがよくない。天幕の中ではなるべく靴は脱いでおいた方がいい。これは手に……俺の故郷の秘伝の薬」


 渡された軟膏はひどい臭いがしたが、手指に擦り込むと皮膚が温かくなった。後で足にも塗れと言いながら、トリスは手桶の中でイザベルの足を揉んだ。あかぎれた踵をさすり、指の一本一本を(しご)くように擦っていく。

 冷え切っていた足先に血が通い始めるにつれ、イザベルはどうにもいたたまれない気持ちになった。


「あの……もう後は自分でできるから……」

「こないだ、悪かったな」


 トリスは按摩を続けながら言った。その視線は自分の手先に向けたままだ。


「あんたに余計なことを言った。怖がらせるつもりはなかったんだけど」


 伏せられた睫毛は気まずそうで、それが演技とは思えず、イザベルはかける言葉に迷う。

 気にしてないというのは嘘になるし、こちらこそごめんと謝るのも変だ。結局、うんと相槌を打って肯くしかなかった。

 トリスはチラリとイザベルを窺い、少し安堵したように微笑んだ。


 渡された手拭いで足を拭いていると、ディミトリがイザベルの腕を掴んだ。


「今夜から俺の天幕で寝ろ」

「は……え、ええ!?」


 やや乱暴にイザベルを立たせ、再び天幕の入口を跳ね上げる。思わず助けを求めてトリスを見るも、彼は肩を竦めるばかりだった。

 ディミトリは裸足のイザベルの腰を抱え、片手で荷物のように抱き上げて外へ出た。分厚い上着越しに、その筋肉の感触が伝わってくる。


 数人で雑魚寝をする手下どもとは違い、首領だけは単独の天幕で寝泊まりをしている。イザベルはそこへ連れ込まれた。


(とうとう本性を現したわね、この熊男)


 絨毯の上に毛皮を敷いた寝床に転がされて、イザベルはぎゅっと目を閉じた。

 五体満足でいられるのはお頭のお情け――トリスの言葉が甦ってきて、抵抗しても立場が悪くなるだけと腹を括った。何をされても泣くもんか、とそれだけ心に誓った。


 しかし、体の上に覆い被さってきたのは欲情した熊ではなく、分厚い毛布だった。

 薄く瞼を開けると、ディミトリが入口に近い方にごろりと寝そべるところだった。


「この方が多少は暖かい」


 自らも毛布を被って、彼はイザベルに背を向けた。二人分の体温を孕んで床の中はすぐに暖かくなる。

 イザベルは毒気を抜かれた。同時に、ものすごく恥ずかしくなった。

 このところ寒くて眠れなかったのを見抜かれていたのかもしれない。警戒心は解けなかったが、その温もりは単純に心地よかった。


「あ、ありがとうございます」

「寝ろ」


 平素と同じく石のような声が、興味もなさげに答えた。




 もしかしたらこの男はそう悪い人間ではないのかもしれない、とイザベルは思い始めた。

 非合法の交易を取り仕切る黒幕には違いないのだろうが、彼女自身は無体な仕打ちは受けていない。体調のこと食事のこと休養のこと、むしろ丁重に扱われているような気がする。

 もちろん北の(ねぐら)に到着してからの処遇は分からないものの、今の時点で酷い男だとは判断できなかった。


(訊いてみようか――あたしをどうするつもりかって)


 休憩中、渡された蒸留酒に口をつけながら、イザベルはディミトリの様子を窺う。表情の分かりにくい髭面には話しかけ辛かったが、少なくとも激怒されて殴られることはないだろうと思えた。

 しかしそれでもし、楽しみは帰るまで取っておいているんだ、などと答えられたら正気を保つ自信がなかった。


 焦燥とわずかな希望は、その割合を変えずにイザベルの心に溜まり続けた。




 相反する感情がどちらも断ち切られたのは、彼らに同行して九日目のことである。

 馬に揺られながら、ディミトリに凭れてウトウトしていたイザベルは、凄まじい怒号で目を覚ました。


「な、何?」

「静かにしてろ」


 ディミトリの声は落ち着いていたが、彼らは異常な状況の中にいた。隊列が大勢の男たちに取り囲まれていたのである。

 木立の木陰から飛び出してきた彼らは、毛皮の衣服を身に着け、手に手に武器を携えていた。


 荷物と馬を置いていけ――訛りのきつい発音で怒鳴るのが聞こえた。それからそこの女もだ!


「……ケチな山賊どもめ」


 バティストが吐き捨てた。頭数は約二十――こちらよりだいぶ多い。


 剣呑な空気が辺りの気温をさらに下げてゆく。

 イザベルは血が凍ったが、ディミトリはまったく慌てなかった。その手下たちも同様である。荷を守るように隊形を組み直す動きには迷いがなく、イザベルの目にも場慣れしているのが分かった。


 わあっと(とき)の声を上げて盗賊たちが襲いかかってくる。冷え切った大気に火が着いたようだった。

 それでも手下たちは動じない。巧みに手綱を捌きながら、身に帯びた剣や槍を構えた。


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