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血と炎の記憶

残酷な描写があります。

 オルガが生まれ育ったのは海辺の村である。

 海沿いの平地に住む人々は自分たちをカラ族と呼び、オルガの村もその集落のひとつだった。

 色のない北の海からは年中冷たい潮風が吹きつけ、波は常に高かった。春先には村の面積よりも遙かに大きな氷が流れ着くこともある。

 決して優しいとは言えない海を相手に、人々は細々と漁をして暮らしていた。オルガも幼い頃から、両親を手伝って網を繕ったり魚を捌いたり、慎ましく幸せな生活を送っていた。

 

 もともとは自給自足の村で、時折他の部族と物々交換をする程度だったのが、オルガが生まれた頃から徐々に交易が盛んになってきた。彼らの獲る海獣の脂や骨が、遙か南に聳える連山の向こうに運ばれ、そこで重宝されているのだという。

 取り引きは主に山間部に住むクーシ族を経由して行われていた。収獲の一部と引き替えに、山向こうからは珍しい織物やよく効く薬や固い刃物が届けられ、カラの民の生活は潤った。

 

 それは、アルボレダの国境に抜け穴を作ったデュノールの功績だった。王軍と山岳の民との小競り合いをよそに、山に隔てられた二つの世界は繋がっていたのである。

 そうして、しばらくは平和裏に交易が続いていたのだが――。


 父は欲を掻きすぎたのだ、とオルガは思う。

 彼女の父親は腕の良い漁師だった。常に家族を養うのに十分な獲物を揚げていたが、余った分は村全体で分け合うのが昔からの決まり事だった。しかし、父はこの余剰をそっくり交易に回し始めた。

 当然、父の元には南からの商品がぞくぞくと集まり、そのうちにそういった物を求める他の村人と、かなり不平等な取り引きを行うようになった。

 貧富の差などなかった村の中で、オルガの家だけが抜きん出て豊かになっていった。周囲の妬みを買うには、それで十分だった。


 オルガが十四歳の時、彼女の家は突然夜討ちに遭った。


 表向きは、クーシとの間で価格の交渉が拗れたのが原因ということになっていた。

 だが、オルガははっきりと覚えている。寄って集って両親を殴りつけ、家屋に火を掛けた暴漢たちは、余所者などではなかった。幼い頃から見知った、同じ村の住人たちに他ならなかった。

 

 混乱の中で、オルガと弟妹たちはバラバラに連れ去られた。父を恨む人間によって売り飛ばされたのだと理解したのはだいぶ後になってからである。

 ずた袋を被せられてクーシ族の荷馬車に放り込まれる直前、オルガが見たのは、夜空に明々と燃え上がる炎と、白波を立てる夜の海だった。炎とはその後も何度も対面したが、海の方は今に至るまで再び目にすることはなかった。


 それから数週間をかけて、オルガは南へ連れて行かれた。

 山向こうとの交易品は、海や森の産物の他に人間も含まれるらしい。特に若い娘には高値がつくのだろう。オルガは拘束されて、荷馬車の中に閉じ込められた。

 飲まされた薬湯のせいか常に意識がぼんやりしていて、逃げる気力も湧かなかった。一日中止むことのない潮騒を聞いて育った彼女にとって、森と山の静けさは未知のものだった。

 

 平素通りに事が進めば、彼らは国境手前でアルボレダ側の密売人と落ち合い、持参した品々を取り引きするはずだった。

 利益の三割と引き替えに、場所の安全を確保するのはデュノールの役目だ。万一王軍兵に見つかっても、武力で、あるいは幾許かの袖の下で、双方の勢力を逃がす手筈になっていたのだが――。

 

 取引相手の到着が遅れたのが原因だったのかもしれない。クーシ族の道先案内人が不慣れだったのが悪かったのかもしれない。広範囲に立ちこめた濃い霧が判断力を鈍らせたのかもしれない。

 彼ら一行は、知らぬ間にアルボレダの国境を踏み越えていた。そして運悪く、警邏中の国境警備隊と鉢合わせしたのである。


 ひどい戦いだった。

 霧の中での邂逅に、敵も味方も恐慌を来していた。足場の悪い山道で、恐怖だけが彼らを操っていた。

 山岳の民はもちろんアルボレダ兵も統制の取れた動きが取れず、ただ目の前にいる人間をめちゃくちゃに斬りつけていた。

 大勢死んだようだった。荷馬車の御者の肩口に剣が振り下ろされ、血飛沫とともに首が大きく傾ぐのをオルガは見た。彼女は荷台の隅に縮こまって、目を瞑り耳を塞ぎ、この狂躁が終わるのを待った。

 怒号と悲鳴と金属のぶつかり合う音はかなり長いこと続いた。


 やがて荷馬車の覆いが外され、オルガの腕を乱暴に引っ張ったのは、アルボレダの軍服を着た男だった。クーシ族は半ば以上が殺され、生き残りは荷を捨てて逃亡してしまっていた。

 王軍の側にも相当数の犠牲者が出たらしく、オルガを馬車から引き擦り下ろした兵士たちは、恐怖と憎悪に目を血走らせていた。

 

 積み荷とともに国境の兵舎に連行されたオルガは、そこで凄惨な暴力を受けた。

 アルボレダ兵にとって、蛮族など獣も同然だったのだろう。戦いで多くの同胞を失った兵士たちは、まだ異様な興奮に支配されており、年端もゆかぬ捕虜の少女を拷問することに何らためらいは見せなかった。上官も見て見ぬ振りをする。

 仲間同士で煽り煽られ、行為はエスカレートしていった。オルガの体をさんざんに踏み躙っただけでは飽き足らず、最後には、背中に油をかけて火をつけたのである。

  



 オルガがイザベルに語ったのは、ごく簡素に纏めた事実だけだった。

 交易を巡る諍いに巻き込まれて(かどわ)かされた後、アルボレダの国境で王軍兵士に捕まり、火炙りにされかけた――ただそれだけを告げるに止めた。

 兵士たちが人相が分からなくなるまでオルガを殴ったことや、火をつけられて転げ回る彼女を見てゲラゲラ笑っていたことは、とてもイザベルに聞かせる気にはなれなかった。


 それでも、イザベルは多くを察したようだった。ベッドの中で身動きもせず、(はしばみ)色の瞳を潤ませてオルガを見詰めている。その怯えた様子に、オルガは少し後悔した。

 好奇心が強く、想像力も豊かな娘だ。オルガの傷痕からあらぬ物語を想像し、その疑いをディミトリに向けるかもしれない。オルガとしてはそれだけは避けたかった。

 事情を告げる際、アルボレダ兵の加害行為を伏せなかったのは、わずかな悪意がさせたことだ。アルボレダの倫理で育ったイザベルに対する、ほんの少しの意地悪。


「ディミトリが来てくれなかったら、私はきっと焼け死んでいた。取り引きが失敗したことを知って、積み荷と捕虜を奪い返しに来たの。正面から王軍兵とぶつかったのは初めてだったらしいわ」


 オルガは自分のうなじを撫でた。


 それまでデュノールと国境警備隊との間には、暴力沙汰を起こさない限り非合法の商行為は見逃すという不文律があった。王軍にとっては、目こぼしの謝礼が得られる他に、限られた兵力を鉱山の守備に集中できるという利点があってのことだ。特にアルボレダの国力が衰退し始めてからは、持ちつ持たれつの関係だったのである。

 偶発的な衝突とはいえ、デュノールの名を継いだばかりのディミトリはきっちりと対価を支払わせた。兵舎を急襲し、掠め取られた交易品を奪還したのである。荒くれ者の集団を率いるにあたり、確固たる方針を示したのだ。


 厚いマントで覆われて火を消されたことは覚えている。激しい戦闘の気配を感じることは、オルガにはできなかった。


 その先の記憶は、常に激痛とともにあった。後で振り返れば手厚い看護を受けていたのだと分かるが、絶え間ない痛みと熱さが彼女の正気を奪っていた。

 軟膏も薬湯も神経を鎮めることはできなかった。焼け爛れた少女は昼も夜もなく叫び続け、気を失ってもなお炎に焼かれる悪夢にうなされた。


 殺して、と何度も喚いた。

 いっそ殺して。父さんと母さんの所に行かせて。


 事実、オルガは生死の縁を行き来していた。重い感染症で高熱を発し、脱水状態で数日意識が戻らないこともしばしばだった。危機を脱して目を覚ませば、また壮絶な痛みが待っている。

 錯乱して死を請う度に、誰かの手がオルガの手を握った。彼女はその皮膚に爪を立て、時によっては噛みつきさえしたが、節くれ立った大きな手は決して離れなかった。


 壊れかけた心とは対照的に、彼女の生命力は強靱だった。

 熱はやがて下がり、背中には新しい皮膚が再生されて、痛みは痒みに変わっていった。


「一人で起き上がれるようになるまで一年以上かかったかしら。その頃には自分がどこにいて誰の世話になっているか理解してた。怪我はまだ完治には程遠かったけれど、死にたいとは思わなくなったわ」


 死ぬのならあのいちばん苦しかった時に死ぬべきだった。そこを潜り抜けて、今死ぬのは馬鹿馬鹿しい――正気が戻ってきたオルガは、そう考えた。だが、同じような目に遭わされるのは絶対に嫌だった。

 当時の心境を思い出し、オルガは自嘲的に笑った。


「それで私、何をしたと思う? ぼろぼろの体を引き擦って、ディミトリに夜這いをかけたのよ」

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