魔法が解けて
肉が潰れる鈍い音が、ホールの冷え切った空気を震わせた。
殴り飛ばされたトリスの体が床を転がり、重い音を立てて壁にぶつかる。応急手当を受けたイザベルの右脚が、その振動を拾って疼いた。
拳を振り下ろしたディミトリは、蹲ったトリスに大股で近づいていく。トリスは言い訳も、身を守る仕草さえせず、床に平服した。
「すみませんでしたっ! 俺の不注意です!」
口元に血が滲んでいるのは今の衝撃で唇を切ったのだろうが、頬が腫れているのは先にバティストに殴られたからだった。
氷結した湖を滑っていたトリスは、イザベルを庇って転倒した拍子に、靴の金具でイザベルの右脹脛を切りつけてしまった。
しかしその後の対応は実に冷静だった。すぐさま手拭いでイザベルの傷を押さえ、ベルトを使って強く巻きつけた。それから彼女を背負って湖畔まで戻ったのである。
バティストは、おまえがついていながら馬鹿野郎、とトリスをぶん殴った。その時のイザベルには彼を庇う余裕はなかった。手拭いを真っ赤に染めた出血と、鼓動に合わせてズキズキと痛む傷にすっかり動転していたのだ。
森での作業は他の者に任せて、バティストが負傷したイザベルを背負った。ナタリーとトリスが付き添い、砦に戻ってきた。
玄関ホールで迎えに出てきた下男たちに事情を説明しているうちに、騒ぎを聞きつけたディミトリがやって来て――この有様となった。
「旦那様! 悪いのはあたしです! トリスにひどいことしないで!」
イザベルはいたたまれずにそう叫んだが、ナタリーに押さえつけられた。
「静かにおし。あんたの出る幕じゃないよ」
「だって……あたしのせいで……!」
女どものやり取りなど意にも介さず、ディミトリはさらにトリスの胸倉を掴み上げる。その表情は凍結した湖以上に冷たかった。
トリスはしっかりと目を見開いていたが、イザベルは顔を背けた。だが、二度目の打擲音は聞こえてこなかった。
「ディミトリ」
ごく穏やかな声に視線を戻すと、いつの間にか姿を現したオルガが、その白い手をディミトリの腕に添えていた。彼女の傍らではバティストが膝をついている。
「お頭、俺の監督不行き届きです。あんたの財産に傷をつけちまった。お叱りなら俺が」
深々と頭を垂れるバティストを、ディミトリは苦々しげに見た。
ひとつ息をついてからトリスを突き放し、
「……しばらくそれを外に出すな」
イザベルの方を見もせずにそう言い捨てて、ディミトリは身を翻した。淡々とした振る舞いであったが、拳は握りしめたままだった。
「手当てをお願いね」
オルガはナタリーに念を押してから主人を追って行く。彼女にも、また託されたナタリーにも切迫感はない。男ばかりの荒っぽい共同体では、鉄拳制裁など日常茶飯事なのだ。
トリスは――ゆっくり立ち上がって鼻血を拭った。すんませんでした、とバティストに頭を下げ、項垂れたまま玄関を出て行く。
ほんの一時間前の、青い空と白い氷、弾む笑い声、そして繋いだ手の温かさが、イザベルには夢であったかのように思えた。魔法は唐突に、無慈悲に解けてしまう。
後を追おうとしたイザベルは、負傷した脚に力が入らずへたり込んだ。ナタリーが分厚い掌で彼女の肩を叩いた。
「今はほっといてやりな――ああ、血は止まったみたいだね。消毒をするからちょっと染みるよ」
口腔は鉄の味がした。唾を吐き出すと、それは雪の上に赤黒い染みを作った。
バティストとディミトリから強烈な拳を食らったトリスは、とぼとぼと居館の裏庭を歩いていた。
裏庭といっても、辛うじて通路が確保されているだけでほとんど雪に埋まっている。彼は雪を手に取って、熱を持った頬になすりつけた。
ヘマをやらかしてぶん殴られるのには慣れているが、今回のは堪えた。
特にディミトリの、あの目――一瞬、これは殺されるなと覚悟を決めたほどだった。
やはりイザベルはディミトリにとって特別な存在なのだ。単なる気紛れで毛色の変わった娘を連れ帰った訳ではない。
今までトリスはあまり深く考えていなかったが、改めて思い返すとおかしな点ばかりだった。
ディミトリはあのエカーヴの宿で偶然イザベルを見かけたのではない。そうだ、南から帰る途中、ずっと誰かを探していたじゃないか――と。
「馬鹿だなあ、おまえ」
呆れ切った声で思考が途切れた。
振り向くと、エンゾが腕組みをしていた。屋根の雪下ろしをやるから、と森での作業を断り、部屋で昼寝をしていた要領の良い悪友である。
「あの嬢ちゃん口説こうとして怪我させたんだって? だっさ」
「そんなんじゃねえよ。適当なこと言うな」
「あのな、お頭があの子をどう扱うにしろ、俺らのとこに回ってくるなんてことは万にひとつもねえよ。かっこつけたってお頭に睨まれるだけだぞ。やめとけやめとけ」
「だからそんなんじゃ……」
思わずムキになりかけて、切れた唇の痛みで我に返った。トリスはもう一度唾を吐いてから、
「かわいそうだろうが、あんな南のお嬢さんがこんな寒い場所でさ。腫れ物に触るような扱いじゃ、ますます不安になるだろ」
「だからそれがかっこつけだっつってんの」
エンゾはトリスの額を叩いた。ぺちんと間の抜けた音がする。
「自分もそうだったからあの子に同情してんのか? 余所者で心細かったから……」
「違ぇよ、馬鹿」
トリスはお返しとばかりにエンゾの肩を突き飛ばした。またやり返してくるかと思いきや、エンゾはにやりと笑った。
「お頭に復讐するなら手ぇ貸すぜ?」
灰色の目が不敵に輝いている。同い年で、何かとトリスをライバル視してくる男の挑発に、トリスは苦笑いをした。
「ぶっ飛ばされる度に復讐してたら身が保たねぇわ」
「はぐらかすなよ。そういう意味じゃねえ。養い親と家族を奪われた恨みが、おまえにはあるはずだ」
軽薄な口調が、奇妙な熱を帯びた。笑みは深くなり、対照的にトリスの目つきは鋭くなった。
「俺はさ、トリス、ここでいちばん偉くなるのが夢だ。お頭に認められて後釜を狙うつもりだけど、他にもっと手っ取り早い方法があるんならそれに乗ってもいい」
「エンゾ、言っていいことと悪いことがあるぞ」
トリスの声は別人のように低くなった。今腰に短剣があれば、即座に相手の喉を切り裂いている――そんな底知れぬ怒りを感じさせた。
殺意に近い感情を、エンゾは肩を竦めただけでいなした。友人の反応は想定済みだったのかもしれない。
「そんなおっかない顔すんなよ、真面目な奴だな。イザベルちゃんに嫌われるぜ」
「うるせえ、もうほっとけ。あっち行け!」
トリスは足元の雪を掬って、口の減らない悪友にぶつけた。
イザベルの右脹脛には十五センチほどの切創ができていたが、それほど深くはなく、縫合の必要はなかった。分厚い下穿きを着用していたおかげだ。
アルコール消毒の後、化膿止め効果のある草の汁を塗りたくられ、包帯を巻かれて手当は済んだ。ここじゃこの程度の傷は珍しくもないよ、とナタリーは豪快に笑い飛ばした。
その後、ディミトリの命令に従ってイザベルは寝室に放り込まれた。とはいえ、特に鍵を掛けられるでもなく、見張りをつけられるでもなく、放置状態だ。
(トリスに謝らなきゃ)
氷滑りに誘ったのはトリスだが、転倒したのははしゃぎすぎた自分の不注意だ。叱責された彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
しばらく外の様子を窺った後、イザベルは思い切って部屋の外へ出た。
右脚を踏み込むと傷に響く。よろよろしながらドアを閉めたはいいが、そういえばトリスはどこにいるんだろうと立ち止まった。
(外に出て行ってたけど、あれから時間が経っているし……)
そもそも、イザベルは彼の部屋すら知らない。
三階の廊下の突き当たりに、バルコニーへ出る扉があるので、とりあえず行ってみることにした。方向的に城郭の内側に面しており、村全体を見渡せるはずだ。
ディミトリやバティストの監視を警戒しつつ廊下を歩き、バルコニーへの扉に辿り着いた。開くと、冷たい外気が吹き込んでくる。昼頃まで晴れていた空は曇り、雪が降り始めていた。
吹き乱される栗色の髪を押さえ、石造りのバルコニーに出る。
「あ」
思わず声が出た。尋ね人は、すぐ上の屋根で雪を下ろしていたのである。




