無口な森の恵み
針葉樹の森は、刺すような冷気と、濃密な樹木の臭いに満ちていた。
ここでは空気の成分までもが違う、とイザベルは改めて感じた。
彼女の故郷、南部の温暖で乾いた地方では、季節ごとに方向と強さを変える風に、木々は揺れ、草はさざめき、鳥たちは囀る。人間の会話もその中のひとつだった。空気は休むことなく振動し、様々な情報を耳に運んできた。
だが、ここ、冬の森はひどく静かだ。冷たい空気は微動だにせず、ただ終わりのない沈黙だけを守っていた。
だから、そこにいる人間たちの気配は、いっそう強烈に感じられるのだ。静止した風景の中で、その声も息遣いも体温も、何にも遮られることなく伝わってくる。
女と子供ばかり十人ほどの集団に交ざり、イザベルは雪道を歩いていた。
この地に来てから初めての外出である。
お腹を冷やさないように、と出がけにオルガに腹巻きを捲かれた。さらに毛織物の下着を重ね着していているので、三十分も森の中を歩くうちにポカポカしてきた。
「その靴、慣れたかい?」
前を歩く女の一人が振り返って問う。ナタリーという名前で、バティストの女房である。
イザベルは肯いた。ブーツの下に円い板を括り付けている。こんなんで歩けるのかと思ったが、足が雪に埋もれずに進めるので驚いた。
ナタリーは大柄な体躯にふさわしく、がははと豪快に笑った。彼女は留守番のオルガに代わり、女たちの纏め役を務めている。
木々が少し開けて、遠くに白い広場が見えてきた。そこで、先発した男たち数名が地面に杭を打っている。重い金属音が規則正しく響いていた。
こんな所に広場があるのかと訝しく思ったイザベルだが、近づくにつれて分かった――それは凍結した湖だった。
向こう岸まで歩いて渡ると一時間はかかりそうな、広い湖だ。満々と水を湛えた湖面は見渡す限り白く凍りつき、その上で男たちが作業をしているのだった。
イザベルは目を丸くした。故郷でも、冬場に水たまりに薄い氷が張ることはあるが、これほど広範囲の、しかも人が乗れるほど分厚い氷を見たのは初めてだった。
「みんな何をしているの?」
「氷を切り出してるのさ。石室にしまっておけば夏まで保つからね――あんたあ!」
ナタリーは声を張り上げて夫を呼んだ。湖上でバティストが手を振り返す。
男たちは氷中に杭を打ち、巨大な氷の塊を切り出しては橇に乗せていた。みな防寒着を脱ぎ捨てて、逞しい背中から湯気を立てている。
氷を糸鋸で切っているトリスも見えた。短剣を振るうのとは勝手が違うのか、苦戦しているようだ。
「あはは、トリス坊はもっと食って肉をつけないとねえ。さ、あんたはこっち。子供たちに教えてもらいな」
と、ナタリーから手渡されたのは小刀と木桶だった。
火を起こし昼食の支度を始める女たちから離れて、イザベルに命じられた仕事は松脂の採集だった。松脂は松明の燃料や接着剤に使われる、便利な素材である。幹の傷から滲み出した樹液が瘡蓋のように固まっているのを探して、剥がし取っていくのだ。
子供たちは、まるで宝探しでもするように松の木の林を駆け回り、目聡くそれらを見つけた。
「ほら、姉ちゃん。そんなんじゃ日が暮れちゃうよ」
鼻を赤くした少年が、手際よく琥珀色の塊を桶に落としていく。彼らは実に手慣れていて、高い場所でも協力して幹を上り、次々と採集した。
最初は戸惑っていたイザベルも、活気に巻き込まれてつい夢中になった。子供たちもまた、よそから来た少女に興味津々のようで、何かと構ってくる。
「あっ、それあたしが先に見つけたのに!」
「仕方ねえなあ。じゃ、おいらその上のを採るから、姉ちゃん台になってくれよ」
「いいわよ。だったらその左の塊、半分よこしなさい」
手袋も外套も雪で湿り、泥で汚れたが、少しも気にならなかった。労働の熱気に包まれた森の中で、自分にも役目があること、その実感が胸を温めていた。
皆で集めた松脂で木桶が一杯になった頃、ナタリーが昼食だと呼びに来た。
湖畔に戻ると、焚き火を囲んで男たちが休憩を取っていた。
橇には氷塊がいくつも積まれている。馬で牽いて帰るらしいが、馬車で運ぶよりも、雪の上を滑らせた方が確かに早そうだ。
「お疲れさん」
麦粥を啜っていると、トリスがやって来た。イザベルの周りの子供たちを押しのけ、トリス兄ちゃん大人げねぇと罵られながら隣に腰を下ろす。前髪はまだ汗で湿っていた。
「びっくりしたわ。こんな分厚い氷初めて見た。夏まで保管しておくんですってね」
「そう。肉や野菜の保存に使える。酒を冷やすのにもいいんだせ」
「南では金貨を詰まないと買えない代物よ」
トリスはなぜか得意げな表情になって、持っていたカップを呷った。中身はハーブ入りの蒸留酒だ。イザベルも勧められたが、
「寒くないから今はやめとくわ。ねえ、あれは何?」
と、松林の中を指差す。
林の随所にはこんもりと土饅頭が作られ、そこだけ雪が解けて土が剥き出しになっていた。天辺からは黒い煙が立ち上り、焦げたような、それでいてどこか懐かしい臭いが漂っている。
「穴を掘って土と雪で蓋をして、中で松の枝を蒸し焼きにしてる。この辺の木は炭にするには今イチだけど、質のいいタールが取れるんだって。防腐剤とか薬にするんだ。ほら、こないだの軟膏みたいな」
「ああ、どこかで嗅いだ臭いだと思った。売り物にするの?」
「自分たちで使う分だけだよ。俺ら、必要な物は基本的に外から買ってるけど、当座に必要な物はこうやって作ったり採ったりしてるんだ」
「なー、イザベル姉ちゃーん、雪合戦しようよー」
纏わりついてくる子供たちをトリスがしっしと追い払う。イザベルの手を取って立たせると、
「ガキはほっといて大人の遊びをしようぜ」
と、誰よりも悪ガキめいた笑みを浮かべた。
トリスが持ってきたのは、やはりイザベルには用途の分からない道具だった。
「こうやって靴につける。ほら、足出して」
刃物のように削られた細長い金属の棒に、革のベルトがついている。トリスはそれをイザベルのブーツに括りつけた。
「歩きにくいわ」
「土の上ではね」
二人がいるのは、休憩場所からは少し離れた湖畔である。トリスが彼女を連れ出しているのにバティストが気づいたが、女房の目配せにより見逃された。
トリスはイザベルの手を引いて、凍結した湖面に繰り出した。靴につけた金属の刃が氷を削り、彼らを滑らかに押し出す。
「ままま待って、これ、す、滑る……!」
「大丈夫、俺が支えてるから。そう、体重を前に乗せて……片方ずつ……」
「無理むり! やっ……絶対手ぇ離さないでよ!」
ツルツルの氷の上で下半身だけ分離してしまったようで、イザベルはへっぴり腰で立っているのが精一杯だった。トリスは彼女に向き合って両手を支え、器用に後ろ向きに進んでいく。
「そうそう、右、左、右……足元見ちゃ駄目だ。ほら前見て」
「そんなこと言われたって……うわっ」
先へ進んでいく脚に追いつかず、イザベルは派手に尻餅をついた。巻き込まれてトリスもすっ転ぶ。
「いったぁ……何なのこれ?」
「面白ぇだろ。こっちじゃみんな滑れるんだぜ」
トリスは立ち上がってすいすいと滑って見せた。地面を走るよりずっと速く、滑らかで、優雅だ。
そんなの無理よと泣き言を言うかと思いきや、負けん気の強いイザベルは自力で立ち上がった。膝をガクガクさせながら前に進もうとする姿に、トリスは軽く口笛を吹いた。
その後何度も転んだが、二十分もするうちにイザベルは一人で滑れるようになっていた。
もともと活発で勘の良い娘である。ぎこちない足運びながら、トリスに追いつけるくらいには上達した。
「上手いじゃん! ほんとに初めて?」
「コツが分かったみたい。確かに楽しいわね、これ」
イザベルは笑ってトリスを追い抜いた。
目を上げると空は青く、対岸に『黒の山脈』の峰々がくっきりと見えた。南生まれの自分がこんな場所で氷上を滑っているとは、信じられなかった。
北の砦にやって来て、初めて感じる爽快感だった。
楽しさのあまり、トリスの警告に気づくのが遅れた。
「イザベルそっちは駄目だ、まだ氷が薄い!」
「え?」
止まろうとしたら、足元に亀裂が走った。
足を取られるのと、背後から抱えられるのは同時だった。
追いかけてきたトリスに庇われながら、派手に転倒した。
「だ、大丈夫か……?」
「うん、ありがとう……あ、あれ?」
イザベルはへたり込んだまま呆然と自分の脚を見た。
外套とスカートが捲れ、剥き出しになった下穿きの脹脛が濡れている――血だ。
縺れて転んだ拍子に、トリスの履いた金具が彼女の脚を切り裂いたのだった。




