↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/48

無口な森の恵み

 針葉樹の森は、刺すような冷気と、濃密な樹木の臭いに満ちていた。


 ここでは空気の成分までもが違う、とイザベルは改めて感じた。

 彼女の故郷、南部の温暖で乾いた地方では、季節ごとに方向と強さを変える風に、木々は揺れ、草はさざめき、鳥たちは囀(さえず)る。人間の会話もその中のひとつだった。空気は休むことなく振動し、様々な情報を耳に運んできた。

 だが、ここ、冬の森はひどく静かだ。冷たい空気は微動だにせず、ただ終わりのない沈黙だけを守っていた。

 だから、そこにいる人間たちの気配は、いっそう強烈に感じられるのだ。静止した風景の中で、その声も息遣いも体温も、何にも遮られることなく伝わってくる。

 女と子供ばかり十人ほどの集団に交ざり、イザベルは雪道を歩いていた。


 この地に来てから初めての外出である。

 お腹を冷やさないように、と出がけにオルガに腹巻きを捲かれた。さらに毛織物の下着を重ね着していているので、三十分も森の中を歩くうちにポカポカしてきた。


「その靴、慣れたかい?」


 前を歩く女の一人が振り返って問う。ナタリーという名前で、バティストの女房である。

 イザベルは肯いた。ブーツの下に円い板を括り付けている。こんなんで歩けるのかと思ったが、足が雪に埋もれずに進めるので驚いた。

 ナタリーは大柄な体躯にふさわしく、がははと豪快に笑った。彼女は留守番のオルガに代わり、女たちの纏め役を務めている。


 木々が少し開けて、遠くに白い広場が見えてきた。そこで、先発した男たち数名が地面に杭を打っている。重い金属音が規則正しく響いていた。

 こんな所に広場があるのかと訝しく思ったイザベルだが、近づくにつれて分かった――それは凍結した湖だった。

 向こう岸まで歩いて渡ると一時間はかかりそうな、広い湖だ。満々と水を湛えた湖面は見渡す限り白く凍りつき、その上で男たちが作業をしているのだった。

 イザベルは目を丸くした。故郷でも、冬場に水たまりに薄い氷が張ることはあるが、これほど広範囲の、しかも人が乗れるほど分厚い氷を見たのは初めてだった。


「みんな何をしているの?」

「氷を切り出してるのさ。石室にしまっておけば夏まで保つからね――あんたあ!」


 ナタリーは声を張り上げて夫を呼んだ。湖上でバティストが手を振り返す。

 男たちは氷中に杭を打ち、巨大な氷の塊を切り出しては橇(そり)に乗せていた。みな防寒着を脱ぎ捨てて、逞しい背中から湯気を立てている。

 氷を糸鋸(いとのこ)で切っているトリスも見えた。短剣を振るうのとは勝手が違うのか、苦戦しているようだ。


「あはは、トリス坊はもっと食って肉をつけないとねえ。さ、あんたはこっち。子供たちに教えてもらいな」


 と、ナタリーから手渡されたのは小刀と木桶だった。

 火を起こし昼食の支度を始める女たちから離れて、イザベルに命じられた仕事は松脂の採集だった。松脂は松明の燃料や接着剤に使われる、便利な素材である。幹の傷から滲み出した樹液が瘡蓋(かさぶた)のように固まっているのを探して、剥がし取っていくのだ。

 子供たちは、まるで宝探しでもするように松の木の林を駆け回り、目聡くそれらを見つけた。


「ほら、姉ちゃん。そんなんじゃ日が暮れちゃうよ」


 鼻を赤くした少年が、手際よく琥珀色の塊を桶に落としていく。彼らは実に手慣れていて、高い場所でも協力して幹を上り、次々と採集した。

 最初は戸惑っていたイザベルも、活気に巻き込まれてつい夢中になった。子供たちもまた、よそから来た少女に興味津々のようで、何かと構ってくる。


「あっ、それあたしが先に見つけたのに!」

「仕方ねえなあ。じゃ、おいらその上のを採るから、姉ちゃん台になってくれよ」

「いいわよ。だったらその左の塊、半分よこしなさい」 


 手袋も外套も雪で湿り、泥で汚れたが、少しも気にならなかった。労働の熱気に包まれた森の中で、自分にも役目があること、その実感が胸を温めていた。

 皆で集めた松脂で木桶が一杯になった頃、ナタリーが昼食だと呼びに来た。


 湖畔に戻ると、焚き火を囲んで男たちが休憩を取っていた。

 橇には氷塊がいくつも積まれている。馬で牽いて帰るらしいが、馬車で運ぶよりも、雪の上を滑らせた方が確かに早そうだ。


「お疲れさん」


 麦粥を啜っていると、トリスがやって来た。イザベルの周りの子供たちを押しのけ、トリス兄ちゃん大人げねぇと罵られながら隣に腰を下ろす。前髪はまだ汗で湿っていた。


「びっくりしたわ。こんな分厚い氷初めて見た。夏まで保管しておくんですってね」

「そう。肉や野菜の保存に使える。酒を冷やすのにもいいんだせ」

「南では金貨を詰まないと買えない代物よ」


 トリスはなぜか得意げな表情になって、持っていたカップを呷(あお)った。中身はハーブ入りの蒸留酒だ。イザベルも勧められたが、


「寒くないから今はやめとくわ。ねえ、あれは何?」


 と、松林の中を指差す。

 林の随所にはこんもりと土饅頭が作られ、そこだけ雪が解けて土が剥き出しになっていた。天辺からは黒い煙が立ち上り、焦げたような、それでいてどこか懐かしい臭いが漂っている。


「穴を掘って土と雪で蓋をして、中で松の枝を蒸し焼きにしてる。この辺の木は炭にするには今イチだけど、質のいいタールが取れるんだって。防腐剤とか薬にするんだ。ほら、こないだの軟膏みたいな」

「ああ、どこかで嗅いだ臭いだと思った。売り物にするの?」

「自分たちで使う分だけだよ。俺ら、必要な物は基本的に外から買ってるけど、当座に必要な物はこうやって作ったり採ったりしてるんだ」

「なー、イザベル姉ちゃーん、雪合戦しようよー」


 纏わりついてくる子供たちをトリスがしっしと追い払う。イザベルの手を取って立たせると、


「ガキはほっといて大人の遊びをしようぜ」


 と、誰よりも悪ガキめいた笑みを浮かべた。




 トリスが持ってきたのは、やはりイザベルには用途の分からない道具だった。


「こうやって靴につける。ほら、足出して」


 刃物のように削られた細長い金属の棒に、革のベルトがついている。トリスはそれをイザベルのブーツに括りつけた。


「歩きにくいわ」

「土の上ではね」


 二人がいるのは、休憩場所からは少し離れた湖畔である。トリスが彼女を連れ出しているのにバティストが気づいたが、女房の目配せにより見逃された。

 トリスはイザベルの手を引いて、凍結した湖面に繰り出した。靴につけた金属の刃が氷を削り、彼らを滑らかに押し出す。


「ままま待って、これ、す、滑る……!」

「大丈夫、俺が支えてるから。そう、体重を前に乗せて……片方ずつ……」

「無理むり! やっ……絶対手ぇ離さないでよ!」


 ツルツルの氷の上で下半身だけ分離してしまったようで、イザベルはへっぴり腰で立っているのが精一杯だった。トリスは彼女に向き合って両手を支え、器用に後ろ向きに進んでいく。


「そうそう、右、左、右……足元見ちゃ駄目だ。ほら前見て」

「そんなこと言われたって……うわっ」


 先へ進んでいく脚に追いつかず、イザベルは派手に尻餅をついた。巻き込まれてトリスもすっ転ぶ。


「いったぁ……何なのこれ?」

「面白ぇだろ。こっちじゃみんな滑れるんだぜ」


 トリスは立ち上がってすいすいと滑って見せた。地面を走るよりずっと速く、滑らかで、優雅だ。

 そんなの無理よと泣き言を言うかと思いきや、負けん気の強いイザベルは自力で立ち上がった。膝をガクガクさせながら前に進もうとする姿に、トリスは軽く口笛を吹いた。


 その後何度も転んだが、二十分もするうちにイザベルは一人で滑れるようになっていた。

 もともと活発で勘の良い娘である。ぎこちない足運びながら、トリスに追いつけるくらいには上達した。


「上手いじゃん! ほんとに初めて?」

「コツが分かったみたい。確かに楽しいわね、これ」


 イザベルは笑ってトリスを追い抜いた。

 目を上げると空は青く、対岸に『黒の山脈』の峰々がくっきりと見えた。南生まれの自分がこんな場所で氷上を滑っているとは、信じられなかった。


 北の砦にやって来て、初めて感じる爽快感だった。

 楽しさのあまり、トリスの警告に気づくのが遅れた。


「イザベルそっちは駄目だ、まだ氷が薄い!」

「え?」


 止まろうとしたら、足元に亀裂が走った。

 足を取られるのと、背後から抱えられるのは同時だった。

 追いかけてきたトリスに庇われながら、派手に転倒した。


「だ、大丈夫か……?」

「うん、ありがとう……あ、あれ?」


 イザベルはへたり込んだまま呆然と自分の脚を見た。

 外套とスカートが捲れ、剥き出しになった下穿きの脹脛(ふくらはぎ)が濡れている――血だ。

 縺れて転んだ拍子に、トリスの履いた金具が彼女の脚を切り裂いたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
一緒にスケート! そう来たか、と喜びました。そういえば雪国ですもんね。 氷が割れて落っこちるかと驚きましたが、ケガだけですんで……良くはないけど、二人の仲が進展しそう♪ でもディミトリに叱られるかも。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。