あかぎれ姫と熊
『黒の山脈』の北側に住む蛮族といえば、武力を以てアルボレダに侵入を繰り返す野蛮な民――イザベルはごく一般的なアルボレダ人としてそう理解していた。
徒党を組んで国境を越えては、北方の村々を荒らし回っていると聞く。絵物語では、勇ましいアルボレダの国境警備兵とは対照的に獣のような外見で描かれており、子供心に震え上がったものだ。
しかし、今しがた見かけた蛮族たちは、イザベルの心象図とは違っていた。出で立ちこそ奇妙だが、訪問者としてきちんと振る舞っていた。ディミトリと話す口調は穏やかだったし、イザベルに向けられた笑顔にも嫌な印象はなかった。
屋敷の下男たちにしたってそうだ。足手纏いのイザベルに、何かと手を貸してくれる。拙い言葉で、こんな寒い所に連れて来られて可哀想に、というような同情の言葉までかけてくれた。
そして何より――。
(オルガさんみたいに品があってきれいな人が、本当に蛮族なのかしら)
いやそれを言うなら、王軍の兵士だってイザベルの想像とは違っていた。北の国境警備隊は国王と国民のために命を賭して戦う英雄ばかりだと思っていたのに、実際はディミトリたちから賄賂を受け取って彼女を見捨てた。
これまでの自分の価値観が信用できなくなってきて、イザベルは廊下の床を束子で磨きながら上の空になっていた。
ふと、視界に革ブーツの爪先が入ってきた。
「覗き見は感心しない」
腰に手を当ててイザベルを見下ろしているのはディミトリであった。商談はもう終わったらしい。
やはり気づかれていた、とイザベルは身を竦めた。
「ご、ごめんなさい! 変わった格好のお客様だったから気になって……あの、旦那様」
イザベルは不本意ながらディミトリをそう呼んだ。自分を買い取ったのだから主人には違いない。
床に膝をついたまま見上げた先で、本人は渋い表情をしていた。『親分』の方がお気に召したかしら、とチラリと考える。
「あの人たちは、蛮族なんですか?」
「蛮族などという名前の民はいない。彼らは自分たちのことをサルヴィ族と呼んでいる」
イザベルがごくりと唾を飲み込むのが分かったのか、彼は口元を歪めた。笑ったのかもしれない。
「話など通じない連中だと思っていたか?」
「いえ……ええ、はい……恐ろしい侵略者たちだと昔から聞かされていましたから」
「半分は当たっている。だが何事にも様々な面がある。交易においては彼らは公正で堅実だよ。アルボレダ商人よりもずっとな」
ディミトリは灰色の頬髭を撫でた。
「金鉱が涸れて、武力衝突の理由は減った。王軍の国境警備兵も退屈しているだろう」
おかげで袖の下の要求が厚かましくなっている、と呟いた声を、イザベルは遠く聞いた。意外に饒舌なディミトリの様子に驚いてしまったのだ。
(あたしの処遇に関すること以外なら、案外話してくれそう)
「オルガさんが通訳してるのを見ました。彼女も蛮……じゃなくて、そのサルヴィ族なんですか?」
思い切って尋ねてみると、
「あれはまた別の部族の女だ」
と、あっさり返答された。
「山間部から北の海まで、彼らは三十以上の部族に別れて暮らしている。こちらに侵攻していたのは、そのうちのほんの一握りだ」
「お屋敷で働いている他の人……料理番のハンスさんや馬番のイヴァルさんもアルボレダ人じゃないですよね?」
「くだらんことに目聡い娘だな」
ディミトリはフンと鼻を鳴らしたが、イザベルを馬鹿にした様子はなかった。
「奴らは事情があって部族から零れた、いわば無宿人みたいなものだ。行く宛てがないと言うから使ってやっている。山賊にでもなられたら面倒だからな」
そう事もなげに言い捨てるが、言葉もろくに通じない人間を懐に入れるなんて並大抵の胆力ではない、とイザベルは感じた。彼女の父親は生前、よそから来た人間を雇い入れる時には細心の注意を払っていたし、身元の確かな者しか選ばなかった。
もちろん、いざとなればディミトリは暴力で解決できる。だからこその鷹揚さなのだろうが。
「オルガさんも同じような経緯で?」
そう訊いてはみたものの、あの若く美しい女が社会から弾かれて逃げ落ちてきたとは、イザベルには想像できなかった。通訳を務め、使用人ばかりか熊の部下まで取り仕切れるほど聡明なオルガは、木訥とした下男たちとは明らかに印象が違っていた。
ディミトリはニヤリと笑った。これまででいちばん人間臭い表情だった。
「オルガが気に入ったか?」
「とても親切な方です。感謝しています」
「あれはな、戦利品だ」
笑みの種類が変わった。十七歳の少女の背中を冷たい爪で削るような、そんな笑みだった。
その意味を問うべきか――握ったままの束子をさらに握り締め、イザベルは逡巡した。とんでもなく残酷な事実を突きつけられる予感がする。オルガの二の腕にあった傷痕を思い出して、心臓が激しく打ち始めた。
それはとりもなおさず、自分自身の未来であるかもしれないのだ。
言葉に詰まったイザベルを、ディミトリは不思議なものでも見るように眺めた。故意に怯えさせているわけではないのかもしれない。
ふと彼女の手に目を留め、
「またそんなあかぎれを作って」
と、身を屈めた。
ここは水が冷たい。ほんの数日間の下働きで、イザベルの指や手の甲はすっかりひび割れてしまっている。慌ててエプロンの下に隠そうとしたら、大きな手に手首を掴まれた。
「もう身に染みただろう。ここでの労働はおまえには勤まらん。大人しく部屋に引っ込んでろ」
ぶっきらぼうではあっても、乱暴な口調ではなかった。本気で心配しているのが伝わってくる。
(この人はケダモノなの? 人間なの?)
イザベルは目の前の男の本性を見定め兼ねた。手を払いのけたのは、乱れる心の内を覗かれまいとしたからだった。
「いっ、嫌です。こんな陰気なお屋敷でじっとしていたら病気になってしまうわ」
「ふん、だったら本当に仕事をさせてやろうか」
イザベルは小さい悲鳴を上げた。耳の後ろで二つに纏めた髪の毛を掴まれ、ぐいっと引き寄せられたからだ。
茶色い目が、生きたまま獲物の臓物を貪る大型獣の目が、至近距離で彼女を映していた。意識しているのか習慣づけられているのか、彼の人間味はたやすく明滅する。
「冬の間、手下どもは女旱りだ。奴らの大部屋にぶち込まれたら、休む暇もなく働けるぞ。そうされたいか?」
「何であたしに訊くんですか? どう扱おうとあなたの勝手なんでしょ?」
イザベルは負けずに言い返した。あの宿の主人に体を触られ、殴打された時の恐ろしさが吐き気とともに甦ってきたが、無理やり腹に押し込めた。
「大枚はたいて買ってきたのに子分に譲るなんて勿体ないわ。やるんなら自分でやんなさいよ!」
ディミトリの眉尻が動いた。
殴られる、とイザベルは目を瞑ったが、どんと突き放されただけだった。反動で尻餅をついた彼女の前で、彼は立ち上がった。
「……おまえのような小娘に誰が催すか」
余計なことに首を突っ込むな、と言い足して、この館の主人は歩み去っていく。
床にへたり込んだイザベルは、足の力が抜けてしばらく立ち上がれなかった。
客間の方に戻る途中で、オルガが待っていた。薄紅色の唇に呆れたような笑みが浮かんでいて、先ほどのやり取りを聞いていたのだとディミトリはすぐに察した。
「客人たちは?」
「部屋に案内したわ。鹿肉と茸をたくさん持ってきてくれたから、今日の晩餐は豪華になるわね」
商談相手は数日滞在していく予定だった。自分たちの食い扶持を持参するのは、彼らの流儀らしい。
「……あんな子供を脅しつけるなんて、趣味が悪いわよ」
「ああでも言わなければ大人しくしないだろう。とんだ跳ねっ返りだ。しかもあんなに好奇心が旺盛とは」
本心からの困惑が混ざった声音に、オルガは噴き出した。
ディミトリは横目で彼女を見て、歩き出す。
「余計なことは喋るなよ、おまえ」
「知らないことは喋れないわ。このままずっと閉じ込めておくつもりなの? あの子の言うとおり、病気になってしまうわよ――ここが」
並んで歩きながら、オルガは胸に手を当てた。
冬場はもちろん夏の間も、彼女は首元の詰まった衣服を身に着けている。無残な火傷の痕を隠すためだ。白く美しい肌が炙られた訳を、ディミトリは知っていた。そして、かつて彼女の心が崩壊の寸前にいたことも。
ディミトリは厳しい顔をさらに険しくして、唸るように言った。
「どうしろと?」
「そうねえ……とりあえず外に出してあげたらどうかしら。野外活動よ」
オルガは悪戯っぽく笑った。




