悲しみの子
昨日馬で通った道を逆に辿って、村の中を進んでゆく。雪掻き中の村人たちが気さくに声をかけてきた。
「ようトリス! えらく可愛い娘っ子連れてんじゃねえか。南で嫁さん見つけてきたのかい?」
「馬鹿だねあんた。ありゃ昨日お頭の馬に乗ってた子だよ。ご側室か何かだろ」
「そりゃねえだろうよ。だっておまえ、オルガさんがいるんだせ」
本人を前に不躾な詮索をする夫婦者へ、トリスは左掌を向けた。もうそれ以上やめてくれという仕草だ。右手はイザベルから離さない。
「今からロジェさん家に行くんだ。爺さん亡くなったってさ」
彼がそう告げると、野次馬たちはとたんに気の毒そうな表情になった。
「マルタが慌ててお屋敷の方に行くのを見かけたよ。そうかい……」
「後で俺らも手伝いに行くよ」
ロジェの家は村の東の端、城壁に近い場所にあった。今朝はそれどころではなかったのか、周囲の雪は片づけられておらず、玄関の前だけ辛うじて掻き分けられていた。
トリスはノックもなしに外扉を開き、内扉を強めに叩いた。返事も待たずに開けてしまうので、イザベルは少々驚いた。村全体が家族同然であり、遠慮も配慮も無縁なのだろう。
北国の民家の窓は小さく、室内は薄暗かった。
入ってすぐ食堂らしき場所になっていて、ロジェが待っていた。よく来てくれたな、と、この男にしては殊勝に頭を下げる。ちらりとイザベルを見たが、特に何も言わなかった。
「ロジェさん……残念だ。お悔やみを」
「夏頃からもうだいぶ弱ってたからな。正直、俺が戻るまで保たねえと思ってた。死に目に間に合ってよかったよ」
トリスは食堂を横切って、奥の個室に向かった。扉は開けっぱなしなっており、さらに暗い部屋に何人か集まっているのが見えた。
ベッドの上では枯れ木のような老人が目を閉じていた。
ロジェの妻マルタと、村の人間が何人か取り囲んでいる。そのうちの一人は、荷馬車の御者をしていたパスカルだった。
待ってて、とイザベルに告げ、トリスはベッドに近寄る。弔問客が場所を空けて、彼はそこに膝をついた。
静かな、しかしよく通る声で、祈りの言葉が唱えられる。それがトリスの口から発せられたものだと、イザベルはすぐには気づかなかった。
永遠の光の御方よ、星々の彼方より見守り給う御方よ。
今、汝の下僕ガストン・フォーレは影の門をくぐり、汝の輝く御座の前に立てり。
その魂を優しく抱き、涙の川を越えさせ、永遠の朝を迎えさせたまえ。
我らに汝の約束を思い出させ、闇の中にも希望の灯火を灯したまえ。
イザベルが故郷で聞いたものとは少し異なる言い回しであり、文句だった。だがその祈りは優しく温かく、心から悼んでいるのが分かって、イザベルはなぜか涙が出そうになる。父の葬儀を思い出してしまったせいもあった。
祈りの後、しばしの沈黙が流れた。トリスは立ち上がって、老人の手を胸の上で組み合わせる。これで臨終の儀式は終わったようだった。
「ありがとねえ、トリス……あんたがいてくれてよかったわ」
エプロンの裾で涙を拭うマルタを、トリスは優しく抱擁した。その脇で、パスカルもまた目尻を擦っている。
「古い仲間がまた逝っちまったか。寂しいねえ」
「パスカルとは先代の頃からの戦友だったよな」
「爺さん。若い頃はまあ酒癖が悪くてさ……」
思い出話が始まり、トリスはそっとその場を離れた。
戸口で立ち尽くすイザベルの所まで戻ってきて、彼女の複雑な表情に呼応して頬を掻いた。
「言っとくけど、俺は坊主じゃねえよ。祈祷ができるから重宝されてるだけ」
「前に、しもやけの薬をくれたわよね。故郷の秘伝だった言ってたけど……」
「俺の故郷は、山を下りてもっと西の方の、シランって町。そこの修道院で育ったんだ」
彼は、実に嫌そうに白状した。
ほどなくディミトリが弔問に訪れて、そのまま葬儀の打ち合わせになった。
ディミトリはその場にイザベルがいることに驚いたようで、すぐに帰れと命じた。隣にいたトリスを苦々しい視線で脅すことも忘れなかった。
随行してきたバティストが、
「忙しくなるからウロチョロすんな。トリス、その子を連れて帰れ」
と、言いつける。トリスはハイッと元気よく返事をした。
実際、こうなるとトリスに役目はないらしい。重鎮たちが老人を送る手順について話し合っている間、大人しく引き揚げるかと思いきや、トリスは納屋の方へ行った。勝手に扉を開け、雪篦を手に出てきた。
「早めに片づけとかないと、棺が引っかかっちまう」
忙しい家主に代わって家の周りの雪掻きを始めたトリスに、イザベルはおずおずと声をかけた。
「あたしも手伝う」
「すぐ終わるから大丈夫だよ。先に帰ってるかい?」
首を振ると、
「じゃこれ、持ってて」
と外套を投げられた。イザベルはそれを抱えて玄関ポーチに腰を下ろし、手際よく作業するトリスを眺めた。さっきの話の続きを催促すべきか迷ったが、好奇心には勝てなかった。
「……修道院で育ったって、トリスは孤児だったの?」
「似たようなもんだけど、ちょっと違う」
トリスは額に滲み始めた汗を拭った。新雪とはいえ、一人で片づけるには結構な量だ。
「俺は父親の分からない子でさ。お袋は修道院で働く洗濯女で、要するに、そこに不良坊主がいたんだと思う。産まれた子に『トリスタン』なんてふざけた名前をつけたんだ、事情は想像つくよ」
そう淡々と言い捨てて、再び道端の雪を掻き分け始める。
イザベルは言葉を挟むことができなかった。
「お袋は俺が五歳かそこらの時に死んじまったから、身寄りのない俺は修道院に放り込まれた。連中にとっちゃ、汚点の隠滅だったんだろ。あそこじゃ、メシを食うにもクソをするにも神様の許可がいる。分厚い教典の内容を全部暗記させられたよ。ま、おかげで字は読めるようになったけどな」
まるで歌うように唱えられた祈りの言葉が、彼にとっては暮らしを保証される代償だったのだ。聞き惚れてしまった自分が、イザベルは何だか不謹慎に感じられた。
そして『汚点の隠滅』という言葉――思いがけず胸に刺さって、外套を抱える手に汗が滲んだ。聖なる神の家で、彼の存在は汚点だったのだ。
逡巡の後、ようやく問いを絞り出す。
「修道院にいれば、そのまま聖職者になれたんじゃない?」
「その前に売り飛ばされた」
トリスは玄関前を仕上げて、家の脇に移った。イザベルとの距離が近くなり、その息遣いまで聞こえるようになった。
「あそこの連中、神様には祈るくせに、俺たち孤児のことは在庫としか思ってなくてね。十の時、俺は『黒の山脈』の金鉱に送られることになった――祭壇を新調する寄付金と引き換えにな。鉱山が涸れる直前くらいの話だ」
脇道は吹き溜まりになっているせいか、膝の高さほども積雪があり、彼はさっきよりも手こずっていた。ふんっ、と気合いを入れつつ、篦を突き刺していく。
「おまけに、口入屋の親父が俺の顔をえらく気に入ってね……出発の前夜、俺を自分の部屋に呼んで、妙な真似をしてきやがった。だから、そこにあった燭台でそいつの頭をぶっ叩いて、あとは逃げた」
さらりと言ってのけた内容に、イザベルは息を飲んだ。あの北の町で宿の主人にされたことを思い出し、無意識に両腕をさすっていた。
トリスは彼女の様子を窺い、口の端で笑う。その瞳に恨みはなく、明るく冷めた諦念を湛えていた。
「雪の中を走って、走って……そのうち脚が止まって、それでもじっとしてたら捕まる気がして、森の中を彷徨って……よく覚えてないけど、三日か四日くらい。寒くて腹が減って倒れてたところを、街道で野宿してた傭兵団に拾われた。運が良かったよ」




