クリオス炎上、撤退せよ
「……そんな……」カエルは、目の前の惨状にかすれ声で呟いた。
純白の氷に覆われていたはずの大地は、いまや炎に呑まれていた。彼らの誰も見たことのない規模のアッシュボーンの大軍が、フロスト・フェイの都クリオスの巨大城塞を激しく包囲している。カイラもアストラも瞠目し、口を開けたまま言葉を失う。ジャレクの顔にも深い衝撃が張りついていた。――ただ一人、モルガナだけが、一瞬きらめいた動揺をすぐに鎮め、いつもの冷ややかな面持ちを取り戻す。
「敵がアッシュボーンだってことは判明した。任務は達成よ。――引き上げるわ」モルガナは素っ気なく言い放ち、身を翻す。
カイラとアストラは呆然と彼女を見つめた。本当に、何もしないつもりなのか。確かに当初の目的は“どの種の魔”かを見極めることだった。だが現に、領域は蹂躙されている。いまからシカリへ引き返し、軍を募り、評議で決を採って戻る――そんな猶予はない。その頃には、フロストの領は灰と瓦礫になっているだろう。ジャレクもまた、彼女の氷の理屈を呑み込めないといった顔で目を見開いていた。
その時、カエルが縋るように叫ぶ。「戻れない! いま、クリオス城塞は攻められてるんだ、まさに“いま”! このまま見捨てたら、みんな死ぬ!」声は震え、青い大きな瞳が潤む。
モルガナは鋼の色のまなざしで、微動だにせず彼を見据える。「で、小さな王子さま。どうしろって言うの? あの軍勢に突っ込んで、命を捨てろと?」その低く強靭な声が稜線に反響する。「無理ね。引き返して軍を連れて来るわ。あなたの民がいくらか犠牲になるとしても、全戦力を揃えるためには、その危険を呑むしかない」
カエルは今にも張り裂けそうだった。「僕は――戻らない!」涙声で喉を裂くように吠える。「何もしなかったせいで、みんなが死ぬなんて――耐えられない!」
誰かが腕を伸ばすより早く、彼は稜線から身を躍らせた。長杖はすでに手にあり、険しい岩棚へと軽やかに着地すると、そのまま戦場めざして駆け出す。
「カエル!」アストラが叫ぶ。
「助けに行かなきゃ! あのままじゃ死んじゃう!」カイラも声を上げ、ためらいもなく岩棚へ跳び降り、フロストの王子の背を追う。
アストラも身を投じようとした瞬間、モルガナが彼の“レリックの手”――左腕を掴んだ。「あんたまで火の海に飛び込むつもり? 死にに行く気?」唸るように制する。
アストラは刃のような視線で睨み返す。「仲間を助ける」低く唸り、「戻りたいなら、あんた一人で戻れ」彼女の手を力任せに振りほどくと、他の二人の後を追って崖道へ身を躍らせた。
モルガナは一瞬、俯いて葛藤を噛みしめ――首を振るとジャレクへ向き直る。「全速で引き返して。シカリの全員に『至急集結』を要請しなさい。援軍が要る」命ずる声は鋭く、揺るぎない。
ジャレクは一片の逡巡も見せなかった。翼を低く唸らせ、稜線の反対側から身を躍らせると、遠いキサニの地平線めざして矢のように飛び去る。モルガナはふたたび視線を谷底へ落とした。炎の剣を喚び、水平に構える。奥歯を噛みしめ、眉間に皺を寄せ――
「……あとで後悔する予感しかしない」小さく呟き、次の瞬間、戦の坩堝へと雄叫びを上げて身を投じた。
モルガナ、カエル、カイラ、アストラ――四人は間髪入れず敵陣へ斬り込む。戦っているフロスト・フェイは、もはやわずかだった。アストラとカイラは互いの背を預け、攻勢というより“生き延びること”と“カエルを護ること”に徹する。幸い、思考なきアッシュボーンの大半は、氷のフェイが炎の魔の群れに囲まれているという致命的な相性を理解していないらしい。対照的に、モルガナは破壊の竜巻だった。炎の長剣は赤い軌跡と化し、次々と敵を屠る。――それでも群れは尽きない。やがてモルガナ自身にも疲労の色が差し始める。
四人は背を合わせ、狭い守りの輪を組んだ。煙の帳から湧くように、アッシュボーンが四方から押し寄せる。ひとり倒せば、四体が代わる代わる迫る。その刹那、ひときわ巨大な個体が大槌を振りかぶり、カエルを粉砕せんと迫る――が、動きが凍りついた。額の中央に、眩い銀の矢が深々と突き立っている。握っていた大槌をゆるめ、巨体は仰向けに崩れ落ちた。同時に全員が城壁へ目を向ける。城壁の天端に、一人のフェイの女が立っていた。長弓を引き絞り、すでに次の矢が番えてある。
彼女は澄んだ声で叫ぶ。「退却!」
号令と同時に、残存のフロスト・フェイたちは一斉に戦列を離れ、城壁の庇護へと退いた。
「こっちだ!」カエルが叫ぶ。モルガナはアストラの体を抱え上げ、アストラはカイラの手を掴む。二人をまとめて高い城壁の内側へと放り込む。突然の空中移送に、カイラもアストラも呆気にとられた。城上の弓手は退く仲間に雨のような矢を絶え間なく浴びせて援護する。矢の速さは驚異的で、アッシュボーンの群れが銀光に洗われていくようだった。
アストラとカイラは、モルガナとカエルに抱えられて城内へ着地する。弓の女は最後の方に飛び降り、すぐさま次の号令を発した。「閉城! 天蓋を下ろせ!」
その言葉に、フロスト・フェイたちは一目散に城塞外縁の巨大な壁面へ走り寄り、外側に取り付けられた太い綱に取りつく。――その時アストラは、その壁の異様さに気づいた。他の壁の倍の高さがあるだけでなく、“動いて”いるのだ。フェイたちが綱を引くと、壁は天端からぱっくり割れ、まるで蓋のように内側へ自由落下を始めた。
「やばい、潰される!」アストラは思わず叫ぶ。巨塊が中庭へ倒れ込む――
だが、轟音とともにぴたりと止まる。倒れた“壁”の縁が他の壁面に正確に噛み合い、城塞全体を覆う巨大で堅牢な“天蓋”が出来上がった。次の瞬間、闇が落ちる。
闇の中、モルガナの身体が炎を帯びて輝き、周囲に広い光輪を作る。壁に等間隔で据えられた松明を見つけると、掌の火で次々に点していく。間もなく、閉ざされた城の内部はパイロ・フェイ特有の不思議な光に満ちた。カエルは羽音を響かせ頭上を飛び、先ほどの弓手の女のもとへ向かう。アストラとカイラは群衆の間を縫って地上を進み、モルガナがその背に続いた。
ちょうどモルガナとカエルが弓手の傍らに降り立つ頃、アストラとカイラも駆け寄る。その女は息を呑むほどの美しさだった。長い銀髪は後ろへ緩やかに束ねられ、顔は淡い青磁色に白みを帯びている。灰のズボンに薄青のチュニック、背には矢筒。額には三条の銀線を編んだ繊細な冠――中央に大粒のダイヤが据えられている。彼女は新参の顔ぶれをひと目見て柔らかく目を細め、そしてカエルをぐっと抱きしめた。カエルは羞恥に抗いながらも、されるがままだ。
「……カエル、よく無事で……」女は目を閉じ、小さく囁く。すぐに感情を抑え込み、姿勢を正し、目元に皺を寄せて言い直した。「でも、来るべきじゃなかった。なにより一人で来るなんて。――危険すぎるわ」
カエルは顔を上げる。「一人じゃないよ、母上! パイロ・フェイのモルガナ王女、それにキサニのカイラとアストラを連れてきた。それから……」視線が中庭を彷徨うが、ジャレクの姿はない。「ジャレクは? どこ?」慌てて辺りを探す。
「ジャレク王子? ストーム・フェイの?」女――カエルの母は驚いて訊き返す。
モルガナが一歩進み出る。「軍を呼び戻すため、ジャレク王子は私が向かわせたわ。ここへ連れてくる」豊かで確かな声。
カエルの母はモルガナを見やり、「モルガナ王女……つまり――あなた方パイロ・フェイは、我らを助けてくださるの?」半ば震えた希望が、その声に宿る。
モルガナは静かに首を振った。「いいえ。私が“決めた”。夜までには、わたしたちの兵がここに着く」
カエルの母の顔が、ぱっと明るくなる。彼女は深く一礼した。「感謝します、王女……」
「それと、ストーム・フェイの軍も期待していい」モルガナは続ける。
カエルの母は大きく微笑んだ。そこへアストラが一歩出る。「キサニも軍を送ります」
すかさずカイラが並び、「任せて!」と力強く笑った。
カエルの母は小さく息をつき、指先を唇に当てると、「申し訳ないわ、自己紹介がまだだったわね」と姿勢を正した。「私はフロスト・フェイの王妃、クレッサ。――皆さんに会えて、心から嬉しく思います」




