第12話 翔太という少年
田中翔太。クラスで最も目立たない少年。いつも窓際の席で、静かに本を読んでいる。休み時間も、昼休みも、放課後も。友達は少ないが、成績は優秀。特に歴史と国語が得意。眼鏡の奥の瞳が、知的な光を宿している。
彼もまた、その人生を一つの宿命に縛られていた。
物心ついた頃から、祖父の源三郎に聞かされて育った話がある。五十年前に行方不明になった大叔父、亮介の話だ。
「亮介はな、太陽のような男だった」
源三郎は、古いアルバムをめくりながら、何度も同じ話をした。顔に刻まれた深い皺、遠くを見つめる瞳。その姿は、五十年という歳月の重みを物語っていた。
「野球がうまくて、誰にでも優しくて、そして、たった一人の女を命がけで愛した」
幼い翔太にとって、それは英雄譚のように聞こえた。
ある日、源三郎は翔太の顔をじっと見つめて言った。
「翔太、お前は亮介によく似ている。目元が、特に。もしかしたら、お前は亮介の生まれ変わりなのかもしれんな」
その言葉は、翔太の心に深く刻まれた。自分は、会ったこともない大叔父の生まれ変わり。その日から、翔太は亮介の影を追い求めるようになった。歴史や民俗学への興味も、すべては自分のルーツ、そして亮介が消えた謎へと繋がっていた。
香織を初めて見た時、翔太は宿命的な引力を感じた。
入学式の桜の下、一人で本を読んでいた彼女の姿に、なぜか目を奪われたのだ。物静かで、どこか儚げで、そして深い孤独の影をまとっている。彼女の周りだけ、空気が違うように感じた。まるで、薄い水の膜に覆われているような。
話しかけたい。でも、勇気が出ない。そんな日々が一年以上続いた。
しかし今日、民俗学のコーナーに向かう彼女の姿を見て、翔太は突き動かされるように後を追った。そして、彼女が手に取った本を見て、確信した。
これが、運命なのだと。
「ごめん、驚かせた?」 翔太が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、大丈夫です」 香織は、本を胸に抱いた。隠そうとしたわけではない。でも、無意識にそうしていた。この本に書かれている秘密を、誰にも見られたくなかった。
「民俗学に興味があるの?」 翔太が、本の背表紙を見て言う。
「ちょっと…」
「実は、僕もなんだ。特に、この地方の伝承に」
翔太は、隣の椅子を指差した。
「座ってもいい?」
香織は頷いた。
翔太が座ると、微かに石鹸の香りがした。清潔で、爽やかな香り。それに混じって、かすかにインクの匂い。本を愛する者特有の匂い。そのあまりに普通な日常の香りが、香織の張り詰めた心を少しだけ和らげた。
「実は、その本、前から読みたかったんだ。でも、いつも貸し出し中で」
「貸し出し中?」
香織は、本の裏表紙を見た。貸し出しカードが入っている。最後に借りたのは…
『田辺真紀 平成二十八年五月』
六年前。姉が、十八歳になる直前。
「知ってる人?」
翔太が、カードを覗き込む。彼の顔が、少し近い。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐ香織を見ている。茶色い、優しい瞳。亮介さんの写真で見た瞳と、どこか似ている。
「姉です」
「へえ、お姉さんも民俗学に興味があったんだ」 翔太の顔が、少し近い。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐ香織を見ている。 「それ、読み終わったら、貸してもらえる?」
「今、一緒に読みませんか?」
香織は、自分でも驚くようなことを言った。普段の自分なら、絶対に言わない。でも、なぜか翔太となら、この本を共有してもいいと思った。この重すぎる秘密を、一人で抱えるのが限界だったのかもしれない。
二人は、本を机の上に広げた。肩が触れ合うくらいの距離。翔太の体温が、微かに伝わってくる。温かい。真紀とは違う、人間の温もり。
「この絵、すごいね」 翔太が、水時計の挿絵を指差す。 「江戸時代の水時計。でも、普通の水時計とは違う」 「どこが?」 「ほら、ここ」 翔太の指が、絵の一部を指す。 「水が下から上に流れてる」
確かに、よく見ると水の流れが逆だった。重力に逆らって、上へ上へと昇っていく。 「物理的にあり得ない」 「でも、美しい」 香織が呟く。 「美しい?」 「ええ。とても」 水時計の絵に、香織は魅入られていた。まるで、実物を見たことがあるような既視感。いや、見たことがある。夢の中で。何度も、何度も。
ページをめくっていくと、新聞の切り抜きが挟まっていた。 古い新聞。昭和四十七年の日付。 『地元高校生失踪 野球部エース田中亮介君(18)行方不明に』
香織の心臓が、どくんと跳ねた。 田中亮介。 その名前を、知っている。祖母が時々、寝言で呟く名前。そして、田中という姓は…
「あの…翔太君?」 「なに?」 「田中亮介って…」
翔太の顔が、急に曇った。 「知ってるの?」 「いえ、ただ、田中という名字が同じだから」
翔太は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「僕の大叔父なんだ。祖父の弟。五十年前に、行方不明になった」
翔太の声が、沈んでいく。
「十八歳の誕生日の直後に、忽然と消えた」
香織の血の気が引いた。十八歳。それは、偶然ではない。 「最後に目撃されたのは、女子生徒と一緒に、山に向かう姿」 「女子生徒?」 「名前は分からない。でも、この町の旧家の娘だったらしい」
香織の手が、震え始めた。旧家の娘。それは、間違いなく祖母のことだ。和子と亮介。五十年前の、悲劇の恋人たち。




