第13話 藤田先生の悪夢
その時、貸出カウンターで眠っていた司書の藤田先生が、うなされるように呻いた。 「また…始まるのか…」 寝言にしては、はっきりとした言葉。
「あの悲劇が…水時計が、動き出す…」
翔太と香織は、顔を見合わせた。
藤田先生の額には、びっしょりと汗が浮かんでいる。その汗もまた、普通の汗ではなかった。青みがかった、粘性のある液体。まるで、体の中から水が滲み出ているような。
「せんせい…?」 香織が声をかけようとした時、藤田先生が突然目を開いた。 その瞳は、正気を失っていた。焦点が合わず、二人の背後にある何か恐ろしいものを見ている。
「逃げろ!」 藤田先生が叫んだ。
「水が来る!時計が鳴る!皆、沈んでしまう!」
そして、また深い眠りに落ちた。まるで、何も起きていないかのように。
図書室に、再び静寂が戻る。 しかし、それは以前の静寂とはまったく違う、重く冷たい沈黙だった。
窓の外を見ると、また雨が降り始めていた。 この町は、いつも雨が降っている。 まるで、天が泣いているように。 あるいは、誰かが水の中から見上げているように。
「君の家って…」
翔太が、慎重に言葉を選びながら聞いた。
「田辺家、ですよね」
香織は黙って頷いた。
「旧家の、あの」
「呪われた家系の、です」
香織は自嘲的に言った。
「みんな、噂してます。十八歳の娘が、愛する男を水に捧げるって」
「信じてるの?」
「信じたくない」
香織の声が震える。
「でも、体が変わっていくんです。水を求めて、水を恐れて。お姉ちゃんみたいに」
「お姉さん?」
「六年前、十八歳で儀式を」
香織は言葉を切った。これ以上は、言えない。
翔太は、香織の手をそっと握った。 氷のように冷たい手。でも、震えている。恐怖で、不安で。 「一人じゃない」 翔太が言った。 「僕も、きっと関係してる。大叔父の亮介が、君の祖母と」 「知ってたの?」 「推測だけど。でも、この本を見て確信した」
翔太は、懐から分厚いノートを取り出した。
『亮介の足跡 - 五十年の記録』
祖父が集めた、膨大な資料の写し。
「一緒に、真実を見つけよう」
翔太の眼差しは、真剣だった。
「もう逃げられないなら、せめて理解したい。なぜこんなことが起きるのか」
香織は、翔太の手を握り返した。 初めて、恐怖の中に小さな希望を見出した。 一人じゃない。 この呪われた運命に、共に立ち向かう者がいる。
その夜、香織の家で異変が起きた。 深夜二時。 家中の時計が、一斉に逆回転を始めたのだ。カチ、カチ、カチ…と、普段とは逆のリズムで秒針が、分針が、時針が、猛烈な速さで過去へと遡っていく。
そして、どこからともなく水音が響き始めた。 ぽたん…ぽたん…ぽたん… 三十秒に一滴。 規則正しく、単調に、執拗に。 それは地下から、床下から、壁の奥から。家全体が、巨大な水時計と化したかのように。
香織は布団の中で震えていた。枕元に置いた携帯電話が光る。翔太からのメッセージ。
『今、変な音が聞こえない?水の音みたいな』
香織は震える指で返信した。
『聞こえる。家中から』
『僕の家でも。きっと、始まったんだ』
始まった。 何が? 分からない。 でも、確実に何かが動き出している。五十年間眠っていた呪いが、再び目を覚ましようとしている。
窓の外では、雨が激しさを増していた。まるで、天が割れて、すべての水が地上に降り注ぐかのように。その雨音の中に、かすかに聞こえる。無数の声が。
『おいで』 『こちらへ』 『待っている』
香織は耳を塞いだ。でも、声は頭の中に直接響いてくる。これが、水の呼び声。
あと六十五日。 儀式まで、あと六十五日。
香織は日記帳に震える字で書いた。
『始まってしまった。もう、後戻りはできない』




