『最高気温』
夜が好き。口癖だった。
何があっても、夜はいつでも自分を見守っている。
嫌なことがあっても、嬉しいことがあっても、いつでも平等に。
だからこそ、困ったときには空を見上げた。
「――」
――なんて綺麗な夜空なのだろうか。
静かで、物言わず、ただただ見守ってくれる『夜』が、好きだった。
「……夜は静かだなあ」
そうして、また。また――
「――はい! また私の勝ちっ! まだまだちっこいんだから私には勝てないよーだ!」
白線を超える一歩は、勝利を確定させる。それを踏んだ瞬間に、可愛らしい声が青空に響き渡った。
高い建物等も無い分、都会とかよりも良く声が響くのだろう。
「あーもう! 年上だからってずるいぞ! 3年経ったらおれも12だからな!」
「その頃には私は15です〜」
見下すように、腰に手を当ててこちらを見てくる少女は黒の短パンに茶色のノースリーブと、涼しそうな風通しの良い服を着ており、布で隠れてない腕や脚は日焼けして少し色濃くなっている。
「流石に暑いし、家に帰ろっか。スイカ食べよ!」
「食う食う! おれ種プッてやるの大好き!」
先程までの悔しさは何処へやら、元気な返答を少年は返す。
中々独特な楽しみ方を提言する少年は少女に比べて肌は白く、この強い日照りをあまり経験していないのだと推測のできる肌である。
此方の少年もノースリーブを着ており、動きやすい格好をしている。
「遊真、行くよ?」
「あ、ごめん」
強い日差しを受けて思考停止状態に陥り、少々ぼーっとしていた少年――安田遊真は従姉妹の少女に向かって小走りを始めた。
暑い暑い、毎年最高気温を更新していく昨今の夏。その暑さでうなじに汗が垂れ、朦朧とまではいかないものの、軽い目眩のようなものを覚えなくもない体調だ。
「はやくー!」
前から、自分を呼ぶ声がする。早く追いつこうと、小走りから走りへと脚の回転数を上げる――が、追いつかない。
おかしい。
「――」
何かが、おかしい。たった十数歩、たったそれだけの距離のはずなのに。
走っても、走っても、縮まるどころかのその距離はどんどん離れていってしまう。
「ハァ……ハァ、待――っ!」
世界が急速に回転する。地面が高速で迫って――否、自分が自ら迫っているのだ。
全速力を出して走っていれば、普段気を使える場所にも気を使えなくなる。結果、転倒というみっともない結末を招くのだ。
灰色一色だった地面が、近づくほどに解像度をあげてゆく。石、小石、砂、細かい違いにも気付ける距離にまで顔が接近して――、
「遊真!」
何か声――否、音? 判別が、つかない。
地球へぶつかる寸前、何か、何かの音が耳朶を打つ。
「……! ――ま!」
これは――、
「――うま!」
――蝉の、声――?
「ゆうま!!」
■■■
「遊真!!」
暑さと轟音が木霊する。
「――蝉っ!!」
自分の大声で意識が水面に浮上した。
黒い髪に黒瞳と、日本人らしい姿をしている青年である。髪を整えてシャワーを浴びさせれば中々光りそうな逸材だが、その目元には何徹もしたせいでついたのであろう隈が濃くついている。
意識を覚醒させた遊真は、間髪入れずに今の状況がまずいと瞬時に脳が理解した。
「誰が蝉だ。職務中に居眠りとは偉くなったもんだな、えぇ? 今のお前は俺より序列が高いのか?」
脂肪の詰まった腹を上下させ、髪が無くなりかけの頭に汗を浮かべて説教を垂れる眼の前の中年は、千葉という名字を持つ人間である。――下の名前など紹介されたその日に忘れてしまった気がする。
「はい、申し訳、ございません……」
完全に覚醒した脳が記憶を呼び起こし、何故こんなことになっているかを思い出す。
就活に失敗し続けて、最後の最後に藁にも縋るような思いで受けた面接で会社に入ることができたが、正味今となっては面接なんていらなかったのではと疑問に思い始めている。
何故なら、誰が入ってきても馬車馬のように働かせることに変わりはないからだ。
毎日毎日終わりの見えない作業をさせられ、休みはなんと月に5日あればいい程度。イかれていると思った頃にはもう遅いのだ。
ミスをすれば過剰に罵られ、先に聞けば自分で考えろと投げ出され、そして特に理由もなく上司の機嫌でお叱りを受ける日々。
そんな些細なことでも血管が爆発してしまう上司の前で居眠りのような行動なんて取ったら怒られるに決まっている。
だが、クーラーのない密室で、泊まり込み6連勤もさせられれば意識が遠のくに決まっているだろう。いい加減にしてほしいものである。
「遊真みたいな給料泥棒にはなるなよ〜お前ら! ……そしてお前は今の失態でクビにされなかったことを感謝しろよ?」
自身の首を親指で掻っ切るジェスチャーをしながら「見たのが俺じゃなかったら今頃こうだぞ」とどこまでも人を見下す嗤い方をする上司。口だけの謝罪を繰り返しながら、頭に浮かぶのはその言動行動への対処も慣れたものだという自分への称賛だった。
こんなときにストレス発散のために愚痴をする友達でもいればよかったのだが、生憎遊真には一人も友達がいないのだ。高校時代に、クラスの一軍に嫌と言うほどコミュ力の差を見せつけられてしまった。
「それじゃ、社会のカス。しっかり働いて役に立てよ」
言いたいことを言いたいだけ言えて満足したのか、千葉は不快な嗤い声を発しながら、ドスドスと足音を立てて部屋を出ていった。クーラーのついた別室で涼み、飽きたらいびりに来る姿はまさに害悪。――とっとと消えてほしいものである。
「……蝉の鳴き声、やっぱすげぇな」
窓際なのだから当然といえば当然だろうか。
――今は夏。最高気温が42℃を超えた8月15日。暑い都会の建物の一角に、遊真は座っている。




