帰ってきた爆笑姉妹
第121話「帰ってきた爆笑姉妹」
その朝、小倉家は、いつもよりずっと早く目を覚ましていた。
まだカーテンの隙間から、やわらかな朝日が差し込み始めたばかりだというのに、台所では美鈴が何度も冷蔵庫を開け、閉め、また開けていた。
「お母さん、それ三回目やけど」
テーブルの上に皿を並べながら、美香が苦笑する。
「分かっとる。でも、なんか忘れとる気がするとよ」
「退院祝いのケーキ、果物、飲み物、柔らかいご飯。全部あるよ」
「薬を置く場所も決めたし、リビングの床も片づけたし、階段の前には柵まで置いた」
優馬が、やけに誇らしげな顔で言った。
美香は玄関の方を見た。
そこには、昨日までなかった大きな紙が貼られている。
太い黒文字で、こう書かれていた。
『光子・優子 帰宅後の絶対禁止事項』
一、階段を勝手に上らない。
二、走らない。
三、重い荷物を持たない。
四、無理に笑いすぎない。
五、元気だからといって調子に乗らない。
美香は、最後の一文を指さした。
「これ、一番守れんやろ」
優馬は静かにうなずいた。
「俺もそう思う」
美鈴は腕を組み、険しい表情になる。
「だけん、家族全員で監視すると」
「監視って言い方」
「見守りや。愛情たっぷりの見守り」
「圧がすごいって」
三人のやり取りが続く。
けれど、その声の奥には、消しきれない緊張があった。
光子と優子が事故に遭ってから、小倉家の時間は止まっていた。
学校からの帰り道。
赤いサイレン。
病院の白い廊下。
長い手術。
意識が戻るまでの時間。
そして、痛みに耐えながら続けたリハビリ。
笑顔を見せるたびに安心し、苦しそうな顔をするたびに胸を締めつけられた。
今日、ようやく二人が帰ってくる。
まだ完全に元通りではない。
これからも通院とリハビリは続く。
それでも。
家族そろって、同じ家で朝を迎えられる日々が戻ってくる。
それだけで十分だった。
午前十時を過ぎた頃。
家の前に、一台の車がゆっくりと止まった。
「来た!」
美香が窓辺から叫ぶ。
美鈴と優馬が、ほとんど同時に玄関へ駆けた。
ドアが開く。
最初に降りてきたのは、病院のスタッフだった。
その後ろから、光子が慎重に足を下ろす。
続いて、優子。
二人とも、まだ身体をかばうような歩き方だった。
けれど、その顔には、病院では見せなかったほど大きな笑みが浮かんでいた。
「ただいまー!」
「帰ってきたばーい!」
その声を聞いた瞬間。
美鈴の表情が崩れた。
「……おかえり」
震える声だった。
光子と優子は顔を見合わせたあと、ゆっくりと母の胸へ飛び込もうとした。
「待った!」
美鈴が両手を前へ出す。
二人の動きが止まった。
「飛び込まん! 勢いつけん! ゆっくり!」
「退院一発目から注意された!」
「感動の再会、強制減速!」
優馬が二人の荷物を受け取りながら笑う。
「お前たちらしかな」
「お父さん!」
「ただいま!」
今度は慎重に、二人は優馬に抱きついた。
優馬は何も言わず、二人の頭をそっと撫でた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ほんとに、帰ってきたな」
「うん」
「もう病院のご飯、しばらくよか」
「優子、最初に言うことそれなん」
「だって薄味やったもん」
「退院早々、食欲だけは完全復活しとる」
美香が笑いながら、二人の前へ立った。
「おかえり、光子、優子」
「美香お姉ちゃん!」
「会いたかった!」
「昨日も病院に来たやん」
「昨日と今日は別!」
「どう違うん」
「今日は家におる!」
美香は笑いながら、二人の肩をそっと抱いた。
「そうやね。家に帰ってきたね」
玄関をくぐると、光子と優子は同時に立ち止まった。
見慣れた靴箱。
いつもの壁。
家族写真。
廊下の先に見えるリビング。
何も変わっていないはずなのに、すべてが懐かしく見えた。
「家の匂いや」
光子がつぶやく。
「病院と全然違う」
「当たり前やろ」
美鈴が笑う。
光子は一歩、また一歩と進んだ。
優子も、その横を歩く。
リビングに入った瞬間、二人の目に大きな横断幕が飛び込んできた。
『光子・優子 退院おめでとう!』
文字の周りには、家族や幼稚園の園児、学校の友達、フェニックスの仲間たちから寄せられたメッセージが貼られていた。
「なにこれ!」
「すごか!」
二人は横断幕に近づこうとした。
しかし、その途中で階段が目に入った。
「そういえば、部屋に荷物置いて――」
「階段は禁止!」
美鈴の声が飛ぶ。
「えぇぇぇ!?」
「自分の部屋に行ったらいかんと!?」
「いかんとは言っとらん。勝手に上がったらいかん」
優馬も加わる。
「走るのも禁止」
美香が追い打ちをかけた。
「荷物持つのも禁止」
光子は両手を広げた。
「うちら何したらよかと!?」
美鈴は真顔で答える。
「安静」
「それだけ!?」
「笑うのは許可する」
優子の顔がぱっと明るくなった。
「それなら得意ばい!」
「いや、笑いすぎも禁止事項に入っとるけんね」
美香が玄関の紙を指さす。
「笑うのまで制限される人生!」
「うちらの個性が消える!」
「消えんでよか!」
小倉家に、久しぶりの大きな笑い声が響いた。
その声に、美鈴は一瞬だけ目を閉じた。
この音を、ずっと待っていた。
病室では、周囲に気を遣って小さく笑っていた。
痛みが強い日は、笑うことすらできなかった。
今は、同じ家の中で、家族に囲まれて笑っている。
それだけのことが、奇跡のように思えた。
昼食は、二人の好物が並んだ。
卵焼き。
柔らかく煮込んだハンバーグ。
ポテトサラダ。
野菜スープ。
そして、小さなちらし寿司。
「うわぁ」
「夢の食卓や」
「食べすぎたらいかんよ」
「お母さん、さっきから禁止ばっかり」
「退院初日やけん」
「明日は?」
「明日も」
「明後日は?」
「様子見」
「一生禁止されそう」
優子が肩を落とす。
だが、箸を持つと、すぐに元気を取り戻した。
「いただきまーす!」
一口食べた瞬間、優子の目が丸くなる。
「味が濃い!」
「普通の味や」
「病院生活で舌が健康になりすぎた!」
光子も卵焼きを口に入れ、ゆっくりと味わった。
「お母さんの味や」
その何気ない一言に、美鈴の手が止まった。
「どうしたと?」
「なんでもない」
「泣きよる?」
「玉ねぎ」
「卵焼きに玉ねぎ入っとらんよ」
「心の玉ねぎ」
「なんそれ」
また笑いが起きる。
美鈴は涙を拭きながら、二人の皿へ追加の卵焼きを載せた。
「ゆっくり食べり」
「はーい」
食後、二人はソファに座り、横断幕のメッセージを一枚ずつ読んだ。
『光子ちゃん、優子ちゃん、また一緒に遊ぼうね』
『元気になってくれてありがとう』
『フェニックスで待っとるよ』
『また笑わせてください』
優子は、途中で声を詰まらせた。
「みんな、待っとってくれたんやね」
「当たり前やろ」
美香が隣に座る。
「二人がおらん間、ずっと心配しとったよ」
「うちら、もう忘れられたかと思った」
光子が小さく言った。
「そんなわけない」
「でも、ずっと休んどったし」
「休むしかなかったやろ。二人が悪いんやない」
美香の声は優しかった。
「待ってくれる人がおるって、すごいことやよ。焦らんでよか。前と同じに戻らんでもよか。これからの光子と優子で、また始めればいい」
二人は、黙ってうなずいた。
事故に遭う前と、まったく同じには戻れない。
身体にはまだ痛みが残っている。
怖い夢を見る夜もある。
外を歩けば、あの日の車の音を思い出すこともある。
それでも、戻る場所はある。
待っている人もいる。
そして、自分たちは生きている。
午後。
美鈴は、久しぶりに博多南幼稚園へ顔を出した。
本格的な復職ではない。
光子と優子が退院したことを報告し、しばらく休ませてもらったことへの挨拶をするためだった。
園門をくぐった瞬間、園児たちが美鈴に気づいた。
「みすず先生!」
「みすず先生が来た!」
次々に子どもたちが駆け寄ってくる。
美鈴はしゃがみ込み、一人ひとりの顔を見た。
「みんな、元気やった?」
「元気!」
「光子ちゃんたち、どうなったと?」
「もうおうち帰った?」
その質問に、美鈴は笑顔でうなずいた。
「うん。今日、退院して、おうちに帰ってきたよ」
園児たちの顔が、一斉に輝いた。
「よかった!」
「また遊べる?」
「また来てくれる?」
「うん。もう少し元気になったら、きっと来てくれるよ」
その瞬間。
張りつめていたものが、一気にほどけた。
美鈴の目から、涙があふれた。
「みすず先生、泣きよる」
「悲しいと?」
美鈴は首を横に振る。
「違うよ。うれしいと」
「光子ちゃんたち、元気になったけん?」
「うん」
美鈴は口元を押さえた。
「ほんとによかったぁ……」
泣きながら笑う美鈴を、園児たちが囲んだ。
「みすず先生、泣かんで」
「よしよししてあげる」
「先生なのに泣き虫やね」
「今日は許して」
その場にいた先生たちも、目を赤くしていた。
園長が静かに声をかける。
「美鈴先生、おかえりなさい」
「……ただいま戻りました」
「無理はしないでくださいね」
「はい」
「ここはいつでも待っていますから」
美鈴は、深く頭を下げた。
母として過ごした時間。
先生として戻ってきた場所。
どちらも、自分にとって大切な人生の一部だった。
その頃、小倉家では――
「お母さん遅いね」
「幼稚園で泣いとるんやない?」
「絶対泣いとる」
「園児に慰められとるかも」
光子と優子が、ソファで笑っていた。
その時、玄関のチャイムが鳴る。
優馬がドアを開けると、フェニックスの関係者が立っていた。
「退院祝いの準備ができました」
「準備?」
光子と優子が顔を見合わせる。
その数時間後。
二人は、美香と優馬に付き添われてフェニックスへ向かった。
もちろん医師から許された短時間の外出であり、無理はしないことが条件だった。
会場の前まで来ると、中は妙に静かだった。
「ほんとに歓迎会すると?」
「静かすぎん?」
「誰もおらんのやない?」
光子が扉を開けた瞬間。
パン、パン、パンッ!
大量のクラッカーが鳴り響いた。
「おかえりー!」
「光子ー!」
「優子ー!」
紙吹雪が舞う。
音楽が鳴る。
人が飛び出す。
横断幕が下りてくる。
『双子復活歓迎会』
「うわぁぁぁ!」
「びっくりしたぁ!」
二人は同時に胸を押さえた。
美香が慌てる。
「驚かせすぎ! 安静中やって!」
司会役がマイクを握る。
「本日は、静かで穏やかな歓迎会を――」
その背後で、誰かが派手に転んだ。
太鼓が鳴った。
紙吹雪の機械がもう一度作動した。
さらに誰かがマイクを落とした。
光子が叫ぶ。
「ちょっと待って!」
優子も続ける。
「静かに祝うって概念ないん!?」
会場は開始一分で大爆笑に包まれた。
「静かにやっとるつもりです!」
「どこが!?」
「通常より三割静かです!」
「普段どんだけうるさいん!」
歓迎会は、歌あり、漫才あり、思い出映像ありの大騒ぎになった。
事故前の光子と優子が、ステージで元気いっぱいに笑っている映像。
フェニックスの仲間と練習していた姿。
舞台裏でふざける二人。
カメラへ向かって手を振る場面。
それを見つめる二人の表情から、少しずつ笑顔が消えていった。
懐かしい。
けれど、遠い。
自分たちは、本当にもう一度あそこへ戻れるのだろうか。
光子が膝の上で手を握る。
優子が、その手に自分の手を重ねた。
美香は、二人の様子に気づいた。
「無理せんでいいよ」
「でも」
「今日は見るだけでもいい。帰りたかったら帰っていい」
光子はスクリーンを見たまま、静かに答えた。
「立ってみたい」
「え?」
「ステージに」
優子もうなずく。
「うちら、ずっと戻りたかった」
美香はしばらく二人を見つめ、それから微笑んだ。
「じゃあ、ゆっくりね」
ステージ上の照明が、いったん落とされた。
会場が静まり返る。
司会者が、少し声を震わせながら告げる。
「皆さん。ここで、今日の主役に登場していただきます」
舞台袖から、光子と優子が姿を見せた。
一歩。
また一歩。
以前のように駆け出すことはできない。
大きく跳びはねることもできない。
それでも二人は、並んで歩いた。
会場の誰も、声を上げなかった。
ただ、静かに見守っていた。
光子がマイクを握る。
手が少し震えていた。
優子が横から、その手を支えた。
二人は客席を見渡す。
家族。
仲間。
スタッフ。
ずっと待ってくれた人たち。
光子が息を吸う。
優子と目を合わせる。
そして二人は、声をそろえた。
「ただいま!!」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
大きな拍手と歓声が、会場を揺らした。
「おかえり!」
「待っとったよ!」
「光子ー!」
「優子ー!」
立ち上がる人。
泣きながら拍手する人。
笑顔で何度もうなずく人。
光子の目から涙がこぼれた。
優子も泣いていた。
「泣かんって決めとったのに」
「うちも」
「優子が先に泣くけん」
「光子の方が先やろ」
「同時や!」
涙のまま言い合う二人に、会場から笑いが起きる。
光子はマイクを握り直した。
「うちら、事故に遭って、いっぱい怖い思いをしました」
優子も続ける。
「痛くて、苦しくて、もう前みたいに笑えんかもしれんって思ったこともありました」
「でも」
「みんなが待っとってくれたけん」
「家族がずっとそばにおってくれたけん」
「今日、ここに立てました」
光子は客席へ向かって頭を下げた。
「ありがとうございます」
優子も深く頭を下げる。
「これからも、急がず、ゆっくり戻ります」
「でも、笑いだけは」
「たぶん、前よりうるさくなります!」
会場がどっと沸いた。
美香は舞台袖で、涙を拭きながら笑っていた。
優馬は客席の後方で、腕を組んだまま何度もうなずいている。
そこへ、幼稚園から戻ってきた美鈴が到着した。
ステージ上の二人を見つけた瞬間、足を止めた。
光子と優子が、再び人前に立っている。
同じ場所で。
同じように並び。
同じように笑っている。
けれど、以前とは違う。
痛みを知った。
怖さを知った。
待ってくれる人のありがたさを知った。
以前より少しだけ、強くなった笑顔だった。
「お母さん!」
光子がステージから美鈴に気づいた。
「遅い!」
優子が笑う。
「うちらの復活に間に合わんところやったよ!」
美鈴は涙を拭き、客席から声を返した。
「誰のせいで幼稚園で号泣したと思っとると!」
「やっぱり泣いとった!」
「予想どおり!」
会場が、また笑いに包まれる。
美鈴は笑いながら、二人へ手を振った。
止まりかけていた時間が、再び動き始める。
事故の前と同じではない。
失ったものもある。
これから向き合わなければならないものもある。
けれど。
笑って。
泣いて。
支え合って。
また一歩ずつ前へ進んでいく。
光子と優子は、ステージの中央で手をつないだ。
客席から届く拍手を、全身で受け止めながら。
「ただいま」
今度は小さく、二人だけでつぶやいた。
その言葉は、家族へ。
仲間へ。
そして、止まりかけた自分たちの人生へ向けたものだった。
小倉家の笑顔が、帰ってきた。
爆笑姉妹の物語が、もう一度始まる。
第121話 終
次回予告
退院した光子と優子が、
少しずつ日常へ戻り始めた頃。
今度は、美鈴たち母親世代に新たな動きが訪れる。
「私たちも、もう一回やってみらん?」
家事。
仕事。
子育て。
家族を支える毎日の中で、
いつの間にか遠ざかっていた青春。
かつて体育館を駆け、
ボールを追いかけた記憶が、
再び胸の奥で動き始める。
しかし――
「身体が全然動かん!」
「気持ちだけは高校生!」
「膝は正直やね!」
久しぶりの練習は、
筋肉痛と爆笑の連続。
美鈴を中心に、
母たちはもう一度コートへ立つ。
失った時間を取り戻すためではない。
これからの自分たちの人生を、
もう一度、自分の手で始めるために。
次回、
第122話「母たちの青春リスタート」
家族を支えてきた母たちが、
今度は自分の夢へ向かって走り出す。




