20.5話 先生
窓の外では、春を告げる若葉が風に揺れ、青臭くも爽やかな香りがわずかに教室へ流れ込んでいる。
昨日、食堂であれだけの騒ぎがあったのが嘘のようだ。
降り注ぐ陽光は穏やかで、まるで世界全体が「何もなかったこと」にしようと口を拭っているようだった。
「──以上が、二・三日目以降の授業構成になる」
教壇に立つサティの声は、春の凪のように落ち着いている。
デジタルの大画面に直接板書するチョーク代わりのペンの音が、規律正しく教室に響く。
誰も騒がず、誰も逸れない。
その整然とした空気こそが、俺には酷く歪な違和感として肌に触れた。
俺は豪華な木製椅子に深く腰掛け、頬杖をついたまま、窓の向こうで踊る小鳥を眺めていた。
昨日の今日で、これか。蓋をするのが上手い連中だ。
「レイドくん、話聞いてるの?」
ふわりと、陽だまりのような温かい体温が近づく。
フレアが隣から覗き込んできた。
宣言通りの「番犬」ぶりは健在らしく、その距離は昨日よりも心なしか近い。
「聞いてるって。大人しいでしょ」
「嘘だぁ。なんか態度、王様みたいにでかいもん」
「元からだよ。──────っていうか、暇だしオレもあの小鳥たちと一緒に踊っててもいいかな?」
軽くあしらうと、フレアは「むー」と頬を膨らませた。その無邪気な反応だけが、この張り詰めた教室の中で唯一、正しく「生きた」温度を持っていた。
「……合同授業の際は、寮ごとの力量差を正しく理解し、適切な行動を心がけるように」
サティの視線が、鋭いナイフのように俺を射抜いた。
明確な釘刺し。俺は「はいはい」と、窓の外の風を払うように適当に手を振った。
「レイドくん……ちゃんとしようよ。睨まれてるよ?」
「いいでしょ別に。S寮生なんて俺たちくらいしかいないんだ。他の連中は賢くサボりだよ」
「それは…………そうかも。じゃあ、私も力抜いちゃおっかな」
フレアが小さく笑った、その時だった。
ギィ、と。
使い込まれた教室の扉が、重々しく、けれど静かに開いた。
一瞬にして、教室から「春ののどかさ」が消し飛んだ。
入り込んできたのは、冬の名残のような、肌を刺す冷たい空気──。
「──────遅れてすみません」
淡々とした、聞き覚えのある声。
今朝、朝露に濡れた中庭で、鋭い剣を交えた相手。
アローネ・リタだった。
中庭(訓練場)では黒のボディスーツに身を包み、死神のような圧を纏っていた女。
だが、今の彼女は違う。
「……は?」
思わず、細めた目の奥で眉が動いた。
彼女が纏っていたのは、重苦しい軍服でも戦闘服でもなかった。
歩くたびにふわりと広がる、柔らかな花柄のドレススカート。
上質な布地が春の光を吸い込み、彼女が動くたびに、まるで春の野原が揺れるような錯覚を抱かせる。
似合わない、はずだった。
あんな鉄のような女が選ぶ服じゃない。
なのに──認めざるを得ないほどに、彼女の美しさを引き立てていた。
「……花柄が似合ってるね?」
「レイドくーん」
小さく零れた本音は、誰にも届かない。
教壇へ歩むアローネが、ちらりと後方の俺に視線を向けた。
彼女の瞳が愉快そうに細められ、俺は糸目の片方をわずかに開いて、その視線を迎え撃つ。
視線だけで互いの喉元を突き合うような、数秒の沈黙。
やがて、アローネがわずかに口角を上げた気がした。
「……まぁ、いい。今は」
彼女が呟いた言葉は、風に乗って消えた。
教壇に立った彼女からは、先ほどの殺気が霧散している。
代わりにそこにあるのは、獲物を観察するような、底知れない静けさだった。
「では、紹介しましょう」
サティがペンを置き、持ち直したタブレットを叩く。
「本日より、実地訓練の安全補完を含め一部の合同授業を担当する、
──────“S寮の担任教師”です」
教室が、ざわめきを通り越して「震え」に包まれた。
A寮の生徒たちが、彼女から放たれる隠しきれない強者の気配に、本能的な恐怖を感じているのがわかる。
アローネが一歩前へ出た。
「アローネ・リタだ。……以上。私の授業で死にたくない者は、精々よく鍛錬をしておくことだ」
感情の欠落した声。だが、その言葉に冗談の色はない。
教室の温度が、一気に数度下がった。
「……なるほどね」
パチリと指を鳴らし、俺はゆっくりと立ち上がった。
周囲のA寮生たちが、まるで爆弾でも見るような目で俺を仰ぎ見る。
サティが訝しげに眼鏡の奥の目を光らせた。
「アローネ先生への質問か? レイド・クラウン」
「ええ。せっかくの“初対面”ですからね」
俺はアローネの凝視を真っ向から受け止めた。
彼女は腕を組み、不敵な笑みを浮かべて俺を見下ろしている。
その顔は、今朝の続きを楽しもうとする「戦士」のそれだった。
「いいだろう。聞いてやろう。何を知りたい?」
静まり返った教室。
フレアがごくりと唾を飲み、全員が俺の言葉を待つ。
俺はわざとらしく首を傾げ、最大級の皮肉を込めて、その爆弾を投げつけた。
「──────先生。
先生は、年下が好みなんですか?」
「…………は?」
アローネの動きが止まり、
そして、氷のように白く冷え固まっていく教室をよそに、彼女の頬だけが、怒りと混乱で、ドレスの花柄よりも鮮やかな赤に染まっていく。
「どうやら死にたいようだなレイド・クラウン!」




