人には見えて、自分には見えないもの。
その日、三回目となる定期検診を終えたエニは、白く長い廊下を歩いていた。
足元を見つめながら、ぽつりと息を漏らす。
(定期検診の後に、定例面談があるの、すっかり忘れてたな……。予定になかった検診も受けちゃってるし、俺のせいでティモンさんに手間かけてないと、いいんだけど……)
「………ちゃんとできるかな、俺」
──三日後。
エニは人事管理室のドアをしっかりと3度ノックし、静かに開けた。
デスクの奥に座る、エニ担当のティモンを確認すると、彼はぎこちなく会釈をする。
ティモンは手元の端末から視線を僅かに上げ、平坦な声を向けた。
「定例面談を始めます。エニさん、そちらへ着席してください」
「失礼します……」
エニは奥へと足を進める前に、扉に手をかけ、閉じようとする。
その時、ティモンの口をついて「と、扉は──」と声が出た。
その言葉を聞いて、エニが熱い鉄に触れたかのように、扉から手を離した。
「す、すみません……!触らない方が良かったでしょうか……」
ティモンはスッと顔をそらし、続きの言葉を紡ぐ。
「……いえ。ただ、……っ。……換気のため、開けておいてください」
「……あぁ、えっと……はい」
エニは先ほど促された椅子へ、静かに腰を下ろした。
彼は足を揃え、手を膝に置く。
ティモンは何事もなかったかのように端末を操作し、二人の間にデータを展開する。
「前回の検診結果です」
画面の特定の項目を指し示した。
「薬が効きにくいようですが、先天的な体質のせいだけではなく、薬そのものに耐性ができている可能性が高いと書かれていますね」
声のトーンに高低はなかった。
ただ並んでいる事実をそのままなぞるような響きだ。
エニは膝の上で手を重ね、わずかに視線を落とした。
「えっと、はい……昔から、少しそういうところがあって。……でも……異常ではないですから、また、調整をしてもらえれば、問題ないと……思うんですが……」
その声は語尾に向かうごとに迷いを含む。
しかし、ティモンはそれを気に留める様子もなく、端末の画面を切り替えた。
「ええ。その調整も含めた、今後の管理の策定です。初回なので説明しておきますが、面談の目的は、あなたの日々のストレスを軽減させ、エラー発症を未然に抑制するための具体的な相談になります」
彼女は一呼吸を置いてから、最後に聞く。
「質問は」
ティモンの言葉に、エニは一瞬だけ視線を泳がせた。
「……いえ、特には……」
「そうですか」
ティモンは短く返し、端末へ何かを入力する。
静かな打鍵音だけが部屋に残り、その間、エニは部屋の隅に視線を避難させた。
やがて彼は画面を確認したまま、淡々と続ける。
「では、こちらから確認を行います。業務中、精神的負荷を感じやすい状況について、いくつか回答してください」
「せ、精神的負荷……ですか」
エニは僅かに肩をすくめた。
「はい。発症誘因の傾向を把握するためのものです」
ティモンは視線を上げないまま説明する。
「現在、業務制限を行う予定はありません。ただし、配置調整や勤務計画の参考資料として記録されます」
エニは膝の上で、自身の指先を握り直した。
「……あの、俺、そんなに問題があるわけじゃ……」
「問題の有無ではなく、予防管理です」
ティモンは即座に訂正した。
「エラー発症は、本人の自覚がないまま蓄積した負荷によって誘発される例も少なくありません」
その言葉に、エニは小さく口を閉ざす。
ティモンは画面を操作しながら続けた。
「長時間の対人業務、不規則な予定変更、閉鎖空間での作業。これらに対し、強い疲労感や不快感を覚えることは」
「えっ、と……」
エニは困ったように眉を下げた。
「……正直、自分では、よく……」
言葉を探すように視線が落ちる。
「でも……急に予定が変わると、少し焦ることは、あるかもしれません」
ティモンの画面を叩く指が止まった。
「……記録しました。現場部隊の人間が多数出入りする時間帯の食堂は、それに該当する可能性が高いですね」
ティモンはそこで初めて、エニの顔へ視線を向けた。
「その時間帯のシフトを削り、裏方での仕込み、または在庫管理の業務へ比重を移すよう、配置調整の候補に入れます」
エニはわずかに目を見開いて、顔を上げた。
「いえ、そこまでしてもらわなくても……自分は、大丈夫ですから」
「あなたが大丈夫かどうかは、データと僕が判断します」
ティモンは平坦な声で言い放ち、再び視線を端末に戻した。
「過信は、エラー管理において最も不確定で危険な要素です。……人事の事務処理をこれ以上複雑にしないためにも、必要な調整は行います」
エニは小さく息を吐いた。
「……はい。わかりました」
ティモンとの面談を終えたエニは、人事管理室を静かに後にした。
扉が閉まる音を背中で聞きながら、小さく息を吐く。
(……なんか、緊張した……)
怒られたわけではない。
責められたわけでもない。
それでも、胸の奥にじわりとした疲労感が残っていた。
白い廊下を歩きながら、エニはぼんやりと先ほどの言葉を思い返す。
『本人の自覚がないまま蓄積した負荷』
(……そんなに、疲れてなんて、ないはずだけど……)
考え込んでいるうちに、いつの間にか食堂の裏口へ辿り着いていた。
エニは食堂のバックヤードへ足を踏み入れる。
壁に掛けられたエプロンを手に取り、少し長めの息を吐いた。
「お疲れさま、エニくん」
声がして振り返ると、カウンターの奥でニールが布巾でグラスを拭いていた。
「……あ、戻りました」
「面談だよね。ティモンさんは、相変わらず隙がない感じだった?」
「はい……。でも、色々と考えてくれているみたいで……」
エニは「あはは」と曖昧に笑いながら、エプロンの紐に手をかけた。
ニールはグラスを拭く手を止めないまま、エニをちらりと見た。
「……でも、なにか引っかかってる?」
「えっ」
「いや。そんな顔してる。面談って、話すだけでも結構疲れるし」
エニは思わず視線を逸らした。
「……すみません」
「いやいや、謝ることじゃないよ」
ニールは軽く笑う。
「エニくんがよければ、聞きたいな。仕事のことでも、なんでも」
ニールはそう言ってから、軽く肩の力を抜く。
「話すと、少し楽になることもあるし」
エニはエプロンの紐を指先で弄りながら、「……えと、それじゃあ……少しだけ」と言って話し始めた。
「大したことではなくて……ただその、少し……。俺は、周りの人に比べて、気にしすぎというか……我慢が足りないのかと、思ったというか……」
ニールはわずかに首を傾けた。
「どうして?」
「人が多い時間帯に疲れていないか聞かれて……確かに、そうかもしれないと答えたら、裏方のシフトに回すと言われたんです」
エニは視線を落とす。
「でも……他の皆さんは普通にこなしているのに、自分だけ『疲れる』って言うのは……ちょっと、おかしいんじゃないかと……」
ニールは拭き終わったグラスを棚に置き、新しいグラスを手に取った。
「んー……。周りの人が普通にこなしてるかどうかは、一回置いとこっか」
エニは顔を上げた。
「……え?」
「みんなが平気そうだから、自分も疲れちゃいけない、なんてルールはないでしょ?」
ニールはゆっくりとした手つきで、グラスを布巾で包む。
「自分が『疲れた』とか『息が詰まる』って思ったなら、それは本当に疲れてるんだよ。他の人がどうとかじゃなくてさ」
エニは、エプロンの紐からゆっくりと手を離した。
「自分が、感じたままでいいんだよ」
ニールはエニの方を見て少しだけ口角を上げた。
「……感じたまま、ですか」
エニはぽつりと呟いた。
「そう。だから、ティモンさんが裏方に回すって言うなら、そのまま素直に甘えてもいいと思うよ」
エニは何度か瞬きをし、自分の肩にそっと手を当てた。
「……そう、ですね。……なんか、少しだけ……疲れていたような気がします」
「うん。じゃあ、今日はもう裏方の仕込みだけお願いしよっかな」
言いながら、ニールはカウンターの布巾を畳む。
エニは小さく頷き、エプロンの紐をしっかりと結び直した。




