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21.修行の始まり

 鐘の音だ。目を覚ますと体の上にニアがうつぶせに寝ている。



 声をかけて優しく揺り起こすとゆっくりと目が開く。眠たげな顔がこちらに近づき、ついばむように唇を重ねてきた。



「ん…」



 相棒が激しく自己主張をするが、双方に対して努めて冷静に諭す。サーシャが来る。



「そうだ…!あれ?なんで上に、ごっ、ごめんなさい!すぐにどきます」



 体から離れ行くぬくもりをひどく惜しく感じる。しかし、やむを得ないのだ、わかってくれ。

 ニアの足が離れ際に相棒に当たり、切なげに左右に揺れた。



 二人で身支度を整えて朝食をとる。あっという間に週初である。



 ニアが焦ったようにパタパタと窓を開け放つ。換気か、そういえばサーシャがやっていたなとぼんやりと考えながら昨日を振り返る。



 安息日は非常に爛れたものとなってしまった。



 俺はニアに完全に酔いしれてしまい、事あるごとにニアを求め、彼女はそれを受け入れてくれた。俺の甘ったれ根性も甚だしい。



 例えば、買ってきた干し杏子をニアが手に持ち「あーん」というので、それはどういう意味かと問うと、仲の良い男女がすることで、あーんと言われた方は口を開けて待つことと教わった。



 試しにと俺が口を開けて待つと、ニアが咀嚼した杏子を口移しで食べさせてくれた。世の中の男女はこんな破廉恥なことをしているのかと驚いたが、俺はあーんだけでは済まなかった。



 我慢をしようとしたのだ、これでも。



 俺は自らの惰弱さを棚に上げ、ニアの纏うあの部屋着は精神干渉系の魔道具ではなかろうかと疑ったほどだ。



 精神系への抵抗力は後衛ほどではないが、それなりのものを持っていると自負している。



 探索中、一度たりとも完全に屈したことはない。そんな俺に発動すら悟らせず、かつ抵抗を完璧に抜けるようなものがあるとは考えにくい。



 しかも、ニアには内緒で自分への魔法干渉があった時に自動起動で防ぐ指輪をつけてみたのだ。効果はもちろんなかった。そもそも発動すらしていない。効果があったとしたら昨日はあんなことにはなっていないだろうが…ただただ自分の不明を恥じるばかりである。



 俺の性根の問題なのか、相棒はいつでもニアを支持するためか、ニアが魅力的すぎるのか…原因はいくつもあるだろう。俺が積極的に取り組めるのは己の問題のみである。頑張ろう。



 しかし、探索者生活を終えてもまだ頑張らなくてはいけないことができるとは、人生とはままならぬものである。



「旦那様、お嬢様。おはようございます、ただいま参りました」



 今日もパリッとした雰囲気を纏い、サーシャがやってきた。換気のおかげか顔をしかめられることもない。洗い物も外に出しておいたしな。本日からニアの修業が始まる。



 進め方については基本的にサーシャに一任するが、勉強についても教えてやって欲しいことを付け加えた。



「家事については万事お任せください。勉強についてですか?お嬢様に授けて差し上げるような深い教養や、芸術分野は手に余ります。家庭教師をお探しならばご紹介いたします。え?基礎でよいのであれば問題ありませんが…」



 本人が望むのであれば詩でも楽器でも学べばよいと思うが、勉強面はとりあえず酒場で働ける程度を目指す。そのためには家事を覚えてサーシャの余った時間を作り、徐々に勉強にシフトしていけるようなマイルストーンを伝えた。



 最初からすべてをこなすことなどはできない。徐々に深く潜っていくダンジョンアタックのようなものだ。



「酒場で働くレベル?…お嬢様は吟遊詩人でも目指しているのですか?」



 それも良いかもしれない、きっと評判の歌姫になるのではないだろうか。



「冗談はさておき、了解しました。本日は家事をメインにして、どの程度の教育をすればよいかを確認いたします。私の手に負える程度であれば次回に教材を準備いたしますので、後でご報告いたします」



 後はよろしく頼むとニアのことをサーシャに任せて庭に出る。



 さて、久々に剣でも振るか。



 無心で愛剣を振るう。剣の高みのどうこうなんて高尚なモノではない。ただ健全に体を動かしたい気分であっただけだ。



 柄は手に良く馴染み、刀身は空を切り裂き、ひゅんひゅんと心地よい音を奏でる。強く横に薙げば剣の軌跡がうっすらと光った。



「旦那様、まだ探索を続けるおつもりで?」



 声をかけられた方を振り向くと、がっちりとした体格の初老の男が薪用の丸太を持ち、こちらに投げてよこす。



 空中でくるくると回る円柱状の木を見定め、剣を走らせた。

 愛剣は俺の意に沿って回転する中心を正確に捉え、容易く縦に両断する。



 目標も無くダンジョンに潜るつもりはない。剣の素振りとは違うのだ。

 しかし、今のは気持ちが良かったのでもう一回投げてくれと男を見つめる。



「お見事、しかし儂の仕事を取られては困りますでな。これで最後にしてくだされ」



 そう笑いかけてくるのは我が家の庭を整備してくれているサムであった。

 これが最後と投げられた木を惜しみつつも空中で切る、やはり気持ちがいい。



 苦もなく木を両断した愛剣を見つめる。魔剣にしてはあまり飾り気のないものであるが「折れず、曲がらず、よく切れる」を突き詰めたような剣であった。



 刀身は無風の水面を思わせるような滑らかさであり、刃も今研いだばかりのような状態だ。木を切ったくらいで刃こぼれなど起こさない。まあ少しの刃こぼれ程度なら対の魔道具でもある鞘に入れておけば勝手に治るが。



「それはそうと、おめでとうございます。サーシャから聞きましたぞ。目標達成して、パートナーも捕まえたとか。儂も安心しました。またダンジョンに潜ると言われたらどう止めようかと心配しておったのです」



 サムに返礼をして、もう一度と考えなかったわけでもないが、やはりこれまでのメンバー以外で挑む気にはなれないと笑う。



「そうでしょうな。間違いなく旦那様のご友人方は一流です。儂の時代にもここまでのパーティは思いつきませんな」



 サムは両断された木を拾い集め、庭の片隅で薪割りを始める。

 パカンパカンと薪を割る軽妙な音を聞きながら、俺は再び剣を振り始めた。



§



 井戸で水を汲み、頭からかぶる。火照った体から汗と熱を洗い流すと風が吹き抜け、やや肌寒いくらいだ。秋風の中に混じりつつある冬を感じて家の中に入る。



 リビングに入ると美味しそうな匂いが漂っているのに気づく。この匂いはきっとパイを焼いているのだろう。昨日は調理できなかったからだ。



「旦那様、かけてお待ちください。そろそろ出来上がりますのでお持ちいたします。簡単ではありますがスープもお作りいたしました」



 そう言われ大人しくテーブルで待つことにする。家で調理されたものを食べるのも随分と久しぶりだ。これまで我が家のキッチンは探索の合間にサーシャの来訪日が重なるか、きまぐれに仲間たちが使う時しか使用されていないためである。



 さほど間を置かずにニアがパイをこちらに運んできてくれる。後ろからはサーシャがスープ鍋を持ち、二人で配膳を進めていく。初日ではあるが二人はうまくやっているようだ。



「どうぞ召し上がれ」とニアがパイを切り分けてくれる。軽く礼を言いパイを見れば、ホカホカと湯気を出してひときわ美味しそうに見えた。



「パイはお嬢様が焼き上げました。さあ、お嬢様もおかけください。スープをお注ぎいたします」



 そう促されたニアは俺の隣へと着席する。うん、定位置だな。

 一瞬サーシャが停止したが、何事もなかったようにスープを注いでくれた。

 

 パイは十分にあるだろうから、サーシャもサムも味わって欲しい。ニアの初料理でもある。



「感謝いたします。ではお言葉に甘えまして、後で頂きます。パイは戦乙女のものでしょうか、どこか雰囲気が違うような気がしましたので。ああ、ノワールさんの。楽しみです」



 彼女もこの戦乙女パイのファンなのは把握している。前回何やら心情値が大きくマイナスになっていたので点数稼ぎだ。



 さっそくパイを一口。さすがに焼きたてなだけあり、触感からして違う。温かいため一層甘みを強く感じ、鼻に抜ける芳醇なベリーの香りが素晴らしい。ニアを見れば逆にこちらが観察されていたようで目が合った。



 初めての料理でこんなにも上手にできるとは天才ではなかろうか。ぜひ自分でも食べて欲しいと促す。



「えへへ、サーシャさんに教わったままに焼いただけなんですけど、喜んでもらえてよかったです。わあ…!本当に美味しい…温かいとこんなに違うんですね!はぁ…これは贅沢すぎるかも…」



 ニアがパイの甘さに溶けていく様子を観察しながら昼食の時間は穏やかに流れていった。



§



「本日はこんなところでしょう。明後日には教材をお持ちしますので、掃除や洗濯はお教えした範囲をお願いいたします。料理に関しましても食材をお持ちしますので、準備は必要ありませんよ」



「はい。サーシャさんありがとうございました」



「お嬢様、先ほども申し上げましたが敬称は不要です。呼び捨てになさってください」



「ごめんなさい。逆に難しくて…教えてもらう人ですし」



「謝ることでもありません。では、お嬢様のお好きなように」



 苦笑しながらサーシャはこちらを見る。まあ矯正するほどのことでもないだろう。好きにしたら良いとサーシャに同意する。



「旦那様、お嬢様の教材についてご相談がありますので、奥の部屋にお願いいたします」



 奥の部屋でサーシャと二人になると、空気がピリリと張り詰める。こんなにも和やかだったのに何故だろう。



「旦那様、あの服と下着は何ですか?私はお嬢様の服装を整えるべきとは進言いたしましたが、カバーストーリーを補強するようないかがわしい物を購入しろとは一言も言っていません。人前で着用できそうな服が二着程しかないのですが?まさかとは思いますが、着用を強制したりはしていませんよね?あと読み書きが全くできないとはどういうことですか?まさか他国から攫って、いえ、失礼しました。とにかく…」



 俺はサーシャの気が済むまで黙って説教を受け入れた

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