5月11日――フォーリンラブ9
蹴り飛ばしたロッカーやら掃除用具やらが、廊下の彼方へと吹っ飛んでいくのを尻目に階段を一気に駆け上る。
「ハッ」
いや、これはもう跳び上がるというべきか。
氣で強化した脚力で踊り場まで一蹴りで移動し、続いて壁を足場にして二階の廊下へと跳躍する。
それだけで物たちは、段差や天井にひっかかり一階に置き去りにされる。
「……よし。何もない」
そして二階へ来てしまえば、飛んで――いや落ちてくるものは何もなかった。
二階は二年生の教室が並んでいるからよく知っている。
掃除用具やロッカーの類は全て室内にある。図書室の前は色々とものが多いけれど、ここからはコの字型の奥まった場所にあるから壁にひっかかってものは落ちてこない。
「――さて」
だから僕はゆっくりと、一階の天井で何かがゴトゴトいってるのは無視して、近くにあった放送室の前へと足を進めた。
軽く氣で探ってみたけれど、間違いなく叶先輩はまだこの中に居る。
逆に言えば、追い詰められる可能性を知りながら立て籠もっているのだから当然何か罠があるはずだ。
「とはいえここで逃げるとあとがないんだよね」
周りに物がないのは今だけだ。
どこかの教室に入ったり一階か三階に移動すれば、またしても様々なものが落ちて来て身動きがとれなくなるだろう。
最悪なのはそれらが校舎の外に出てしまった場合だ。危なくて逆に僕が外に出られなくなってしまう。
そう考えると、今こうやって叶先輩を放送室に追い詰めているのもあちらの計算尽くの可能性も高い。
いや、何も考えてない可能性も叶先輩の性格的にありそうだけれど。
そもそも彼女の殺意がどこまで本気なのかが分かりづらいのも問題だ。
初日の包丁は間違いなく本気で刺しに来ていた。
あり得なかった過去の狙撃も間違いなく殺しにかかった結果だろう。
でも今日の無差別落下はそれらに比べたらぬるい。
多分生徒会室の時点で抵抗しなくても、せいぜい打ち身か骨折程度で済んだだろう。
まあそこから直接とどめをさしに来る可能性もあるけれど。
どうにも殺意が鈍っているというか、手加減されている気がする。
それは僕が輪人迦夜に似ているからかのか、それとも他に理由があるのか、あるいは罠か。
「……まあ僕がやることは変わらないか」
手加減されているなら、されている内に勝つべきだ。
罠なら罠で食いやぶる。
そう決意して、僕は放送室の引き戸を一気に開けて踏み込んだ。
「うふふ。いらっしゃい」
真正面に叶先輩はいた。
相変わらず蛇を思わせるようなねっとりとした笑み。
その両手には針のように細い刃物。指の間に挟んだそれを、一息に投げつけてくる。
なるほど。これは厄介だ。
彼女の異能を考えれば、この投擲は無駄にも思える
しかしこの近距離では投げつけられたそれを全て受け止めるのは難しい。
ならば後は弾くか避けるかなのだけれど、そうすると弾かれ外れたナイフは僕に引かれて落ちてくる。
湯呑やボールペンならまだしもナイフだ。
切れ味によっては自由落下の勢いだけで体に刺さるだろう。
そしてこの数の落ちてくるナイフ全てに対処しようと思ったら当然隙だらけになる。
しかしまあ、叶先輩の異能が飛ばすのではなく落とすものならば、この状況への対処法は十分ある。
「ハァッ!」
氣を練って右手で遠当てを正面に放つ。
大した威力のないそれだけれど、それなりに範囲は広くナイフを反らすくらいはできる。
そうなれば僕と叶先輩の間に障害物はない、一気に距離を詰める。
「あらあら。でもそこからどうするのかしら?」
のんびりと、少しも危機感を覚えていない様子で叶先輩が言う。
それはそうだろう。僕の力では叶先輩を沈めるのには時間がかかる。そうなればナイフが落ちて来て背中を強襲するわけだ。
「叶先輩」
「あら。何かしら」
しかしまあ、叶先輩を攻撃しつつそれに対処する、実に簡単な方法があったりする。
「ごめんなさい」
「……あら?」
一応謝っておいて、叶先輩を殴ると見せかけてその背後に回った。
「え? あら?」
そしてそのまま背後から首に腕をかけ拘束したところで、叶先輩も事態に気付いたらしく悲鳴をあげた。
僕目がけて落ちてくるナイフ。
大量だ。流石に止めるのは無理だから何かを盾にするしかない。
そして今この場で盾になるのは叶先輩だけである。
「ヒッ! ひきゃあああっ!?」
次々と僕目がけて落ちて来て、間に居る叶先輩にぶつかり弾かれるナイフたち。
しばらくはボールが跳ねるみたいに叶先輩にぶつかり続けていたけれど、ようやく勢いを失ったのか叶先輩の体に、一部はそれを乗り越えて僕の体に張り付くように引き寄せられて制止する。
「あ……ああ。素敵」
「何が!?」
盾にしたことを非難されるかと思ったら、拘束した叶先輩は腕の中で震えて恍惚としていた。
今の一連の攻防のどこに素敵な要素があったの。
「それで、降参してくれませんか? 叶先輩の異能はこうやって密着されるとほぼ使えないって分かったでしょう」
気を取り直し、無駄だろうなと思いつつ降伏勧告をする。
この間みたいに背中がガラ空きならともかく、今は壁を背にしているので、何かを僕目がけて落下させれば間違いなく叶先輩も巻き添えを食らう。
普通に考えればつみだ。
「あら。それがどうかしたのかしら?」
けれどそれでは叶先輩は止まらないだろうと、予想していた通りに彼女は横顔を見せて笑った。
「うふふ。そうね。これじゃあ私も巻き込まれるわね。でもそれって素敵じゃないかしら」
この人の素敵の基準が分からない。
「青葉志龍くん。貴方は私と死んでくれる? 死んでくれるわよね。だってこんなに私をとらえて離さないんだもの!」
そう叶先輩が叫びをあげるとそれは動いた。
入口のすぐそばにあった、今は丁度正面にある様々な機材が入っているのであろう、金庫みたいに頑丈で重そうな棚。
僕の身長よりも遥かに高く分厚いそれが、ミシリと軋むような音を立てこちら目がけて落下してきた。
「ぐっ!?」
衝撃に備えて氣を巡らせたけれど、その威力は予想以上だった。
踏ん張ろうとした足はあっさり地面から引きはがされ、叶先輩ごと壁に押し付けられる。
右足が何かに挟まった。叶先輩の背中越しに内臓が圧迫され骨が軋む音がする。
このままでは圧死すると、本能的に悟るほどの重量に意識がとびそうになる。
「落ぢろ……落ぢろ落ぢろ落ぢろ落ぢろ落ぢろ落ぢろォッ!」
にもかかわらず、叶先輩はまだ足りないとばかりに異能を発動させ続けている。
いくら硬功が得意とはいえ、表面を硬くしただけではこの重量には耐えきれないはずだ。
現に口から漏れる声はかすれ痛ましさすら感じさせるし、体が軋んでいるのが密着した背中から伝わってくる。
だというのに、ここで死ぬならそれも素敵だといわんばかりに、叶先輩は異能をゆるめようとしない。
「グ……ぎぃっ!」
「か……」
首に回していた左手に力をこめる。
棚に挟まれた衝撃で外れなかったのは幸いだ。
僕が潰れるのが先か、叶先輩が締め落とされるのが先か。
派手さのかけらもない我慢比べへと勝負は移行した。
「ぐうぅ……」
「あ……あぁ」
肺が圧迫されて息ができない。
しかしそれで腕の力を緩めたら負けは確定だ。
――落ちろ。早く落ちろ。
奇しくもお互いに同じことを思いながら、無言で力をこめ続ける。
「ぐ……かはっ! はあ……」
そして数分、それとも一分も経っていなかったのだろうか。
不意に叶先輩の体から力が抜け、それに同期するように僕へと迫っていた棚が本来の重力の力に引かれてズシリと地面に落着し、大量のナイフが高い音を立てて地面に落下する。
「……死ぬかと思った」
棚と壁と僕に挟まれたまま、ぐったりと力が抜けて身を預けてくる叶先輩。
その体は先ほどまでとは違い女性らしいやわらかさだけれど少しも嬉しくない。
盛大な自殺未遂に巻き込んできた女性に恐怖以外の何を感じろというのか。
「というかこの人勝負に負けたからって今後自重してくれるのかな」
棚と壁の間から叶先輩を引きずり出しつつそんなことを思う。
「とりあえず……氷雨さんに連絡かな」
とにかく体が痛い。
もう何も考えずに意識を失いたい。
なので後片付けやらなんやらは氷雨さんに丸投げすることにしよう。
こうして僕と叶先輩の戦いは、一応は僕の勝利で幕を閉じた。




