最終章 まだ見たことのない景色
『この町しか知らないまま、大人になりたくなかった』、いよいよ最終章です。
書店に並ぶ色とりどりの大学ガイド。
それは、今まで「見てもいい」とさえ思えなかった、遠い世界への扉でした。
自分の気持ちに嘘をつかずに、「ちゃんと答える」こと。
つむぎが見つけた、新しい景色の行方を最後まで見届けていただければ幸いです。
八月に入って、店長が中央平台の入れ替えをした。
「大学・専門学校ガイドフェア。見本並べるの手伝って」
私は段ボールから冊子を出して、都道府県ごとに積んでいった。
東京。神奈川。静岡。愛知。京都。
知らない駅名。
知らない校舎。
知らない食堂。
知らない町。
ページをめくるだけで、そこに別の空気が流れている気がした。
「こういうの、見る人多いんですか」
私が聞くと、店長は即答した。
「多いわよ。本人も親も」
「へえ」
「神谷さんだって、見たければ見ればいいのよ」
私は思わず手を止めた。
見てもいい。
そんな当たり前のことを、誰かにちゃんと言われたのは初めてだった気がした。
休憩中、私は平台の前にひとりで立って、一冊の大学ガイドを開いた。
キャンパスの写真。学生たちの顔。駅からの道順。学食のメニュー。
それは“遠い世界”じゃなくて、もしかしたら自分も行ける場所として見えた。
知らない駅の改札を出る自分。
名前も知らない町のコンビニでおにぎりを選ぶ自分。
昼休みに見慣れない校舎の階段を上る自分。
そんな姿が、ほんの少しだけ想像できてしまった。
「気になるのある?」
横から高瀬さんがのぞきこんできて、私はあわてて本を閉じた。
「いや、別に」
「別にって顔じゃない」
「見てみただけです」
「それで十分じゃない」
高瀬さんは笑わずに言った。
「迷ってるなら、見に行ったほうが早いよ。パンフレットだけじゃ分かんないし」
「オープンキャンパスとかですか」
「そう」
私は何も言えなかった。
行ってみたい、と思った。
思った瞬間、その気持ちが、自分の中で思っていたよりずっと大きいことに気づいた。
見ていいのだと誰かに言われて、はじめて「行きたい」は本当の気持ちになった。
*
その日の夕方、小さなことがあった。
児童書コーナーから小さい男の子が走ってきて、私の足にぶつかりそうになったのだ。
私はとっさにしゃがんで、その子の肩を支えた。
転ばずにすんだ男の子は、私のエプロンを見て、いきなり聞いた。
「おねえさん、本すき?」
私は一瞬、答えに詰まった。
本は好きだ。
でも、本そのものより、本の向こうにある、まだ知らないものが好きなのかもしれない。
「うん。好きだよ」
そう言うと、男の子は安心したみたいに笑った。
その母親が何度も頭を下げながら、その子の手を引いていく。
私はその後ろ姿を見ながら、ふいに思った。
ここには、家でも学校でもない時間がちゃんと流れていて、私はその中に立っている。
たったそれだけのことが、少し泣きたいくらい嬉しかった。
そのあと、高瀬さんが児童書コーナーの横で平台を直しながら言った。
「似合ってたよ」
「何がですか」
「本好きって答えるとこ」
私はちょっと笑ってしまった。
「別に、かっこいいこと言ったつもりないです」
「でも、ちゃんと答えた」
そう言われて、私は少しだけ黙った。
ちゃんと答えた。
その言い方が、思ったより胸に残った。
私は、いつもちゃんとしているつもりでいた。
でも、ちゃんとしていることと、自分の気持ちにちゃんと答えることは、たぶん少し違う。
*
その夜、母は流し台の前で皿を洗っていた。
「バイト、楽しい?」
「うん」
「疲れるでしょう」
「疲れるけど」
ここで黙ったら、また言えなくなる気がした。
「お母さん」
「なに?」
「オープンキャンパス、行ってみたい」
母の手が止まった。
蛇口の水の音だけが細く続く。
「どこの?」
「まだ決めてないけど……県外も見たい」
「県外?」
母が振り向く。
驚きが、そのまま顔に出ていた。
「急にどうしたの」
「急じゃない。前から、ちょっと思ってた」
「でも、まだ二年生でしょ」
「だから今のうちに見たいの」
母はエプロンで手を拭きながら、しばらく黙っていた。
反対されると思った。
心配されて、結局うまく言い返せなくなると思っていた。
でも母は、思っていたより静かな声で聞いた。
「そんなに行きたいの?」
私は答えに詰まった。
きれいな理由はまだない。
将来何がしたいかも、はっきりしない。
ただ、この町しか知らないまま決めたくない。それだけだ。
「うまく言えないけど」
私は自分の指先を見ながら言った。
「ちゃんと見てから決めたい。この辺で十分って、ずっと思おうとしてたけど……ほんとは、まだ分かんないから」
母はしばらく何も言わなかった。
簡単に分かってくれる顔ではなかった。
でも、子どものわがままとして流す顔でもなかった。
「すぐに、いいよとは言えない」
「うん」
「でも、調べるくらいならしてもいいかもしれないね」
私は顔を上げた。
胸の奥で、何かが小さくほどける。
「ほんと?」
「調べるだけよ」
「うん。それでいい」
母は苦笑した。
「つむぎ、最近ちょっと強くなったんじゃない?」
「そうかな」
「バイトのせいかもね」
私は笑った。
たぶん、それだけじゃない。
でも書店で過ごした時間が、自分の中の何かを少しずつ動かしていたのは確かだった。
*
そのあと、自分の部屋でノートパソコンを開いた。
机の上に大学ガイドを置く。
検索窓に学校名を入れて、少しだけ指が止まる。
怖くないわけじゃない。
本当に自分が見に行っていいのか、まだ半分くらい信じられない。
でも、信じきれないままでも、次のことはできる気がした。
オープンキャンパスの申込ページを開く。
名前、住所、学年。
打ちこんでいくたびに、自分の未来に薄く輪郭がついていく。
最後の送信ボタンの前で、ほんの少しだけ迷った。
失敗するのは怖い。でも、何も決めないまま大人になるほうが、たぶんもっと怖かった。
深呼吸して、クリックする。
送信完了の文字が画面に出た。
私はしばらくそれを見つめて、それから、ふっと笑った。
大げさなことは何も起きていない。
ただ申しこんだだけだ。
なのに、昨日まで閉じて見えた道の先に、ちゃんと続きがある気がした。
*
翌朝、駅へ向かう道はいつも通りだった。
商店街の八百屋が店先にスイカを並べ、ビルの影にはまだ夜の涼しさが少し残っている。
蝉の声は容赦なく大きく、空は朝から明るすぎるほど明るい。
私は鞄の中に、昨日書店で買った小さな町歩きの本を入れていた。
今すぐ行くわけでもない、まだ見たことのない土地の本。
その重さが、今日は少しだけ頼もしい。
信号が青に変わる。
私は少しだけ足を速めた。
この先に、まだ見たことのない景色がある気がしたから。
― 完 ―
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
「失敗するのは怖い。でも、何も決めないまま大人になるほうが、たぶんもっと怖かった」
つむぎが最後に押した送信ボタンは、彼女が自分の人生を自分の足で歩き始めた、確かな証です。
この物語が、読んでくださった皆様の心に、夏の終わりの爽やかな風のように残ってくれたら嬉しいです。
完結にあたり、もしよろしければ「評価(★★★★★)」や「ブックマーク」、一言感想などをいただけると、作者としてこれ以上の喜びはありません。
つむぎの夏を一緒に歩いてくださって、本当にありがとうございました!




