表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この町しか知らないまま、大人になりたくなかった  作者: ちょこまろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/3

第1章 アルバイト募集 高校生歓迎

はじめまして、神谷つむぎ、高校2年生です。


親の言う通り「ちゃんとしている子」でいることに、少しずつ息苦しさを感じていた夏休み。

駅の書店で見つけた一枚の張り紙が、私の世界を少しだけ広げてくれました。


16歳の夏、初めて自分で選んだ場所での物語。

ゆっくりお付き合いいただけたら嬉しいです。

 うちの母は、私が転ぶ前に「気をつけて」と言う人だ。


 玄関でスニーカーを履いていると、

「今日も暑いから水筒ちゃんと持った?」

と聞かれる。

 持ったよ、と答える前に、

「駅まで走らないの。階段、急がないの。お昼、冷たいものばっかり食べないの」

と続く。


 たぶんそれは愛情で、だから少しだけ息苦しい。


 神谷つむぎ、十六歳。

 高校二年生。


 成績は普通より少しいい。友達もいる。先生に心配されるようなこともない。

 たぶん、いわゆる「ちゃんとしてる子」だと思う。

 でも最近、ちゃんとしているだけで褒められるたび、私は少しずつ小さくたたまれていく気がしていた。


 七月の朝の玄関は、もうむっと暑い。

 ドアを開けた瞬間、外の空気が肌にまとわりつく。

 駅までの道を歩きながら、私は駅ビル三階の書店の前を見上げる。

 入口の横に、小さな張り紙が出ていた。


 アルバイト募集 高校生歓迎


 その文字を見た瞬間、胸の奥で、何かがぱちんと鳴った。


     *


 その日の夜、母に言った。


「ねえ、夏休み、バイトしたい」


 箸を止めた母が、少しだけ目を丸くする。


「バイト?」


「駅ビルの本屋さん」


「どうして急に?」


 どうして。

 そう聞かれると、うまく答えられなかった。


 お金がすごく欲しいわけじゃない。

 将来、本屋で働きたいわけでもない。

 でも、家と学校の往復だけで夏が終わるのが、たまらなく嫌だった。


「……なんか、やってみたいから」


 母はすぐには返事をしなかった。

 味噌汁の湯気が、私たちのあいだをゆっくり上がっていく。


「書店なら、まあ……まだ安心だけど」


「まだって何」


「変なお店じゃないって意味」


 私は少し笑った。


「変なお店じゃないよ。本屋だよ」


「でも接客でしょ。続くの?」


「分かんない。でも、やってみたい」


 母は私を見た。

 たぶんそのとき初めて、私は“やらされる何か”じゃなくて、“自分でやりたいこと”を言ったのだと思う。


 母は小さく息をついて、

「夏休みの間だけよ」

と言った。


「ほんと?」


「ほんと。遅くならないこと。帰る前にちゃんと連絡すること。あと、嫌だったら無理しないこと」


「うん」


「返事だけはいいんだから」


 私は笑った。母も、少しだけ笑った。


 その夜、布団に入ってからも胸の奥が変に明るかった。

 まだ何も始まっていないのに、もう少しだけ、自分の人生に手が届いた気がした。


     *


 駅ビル三階の書店は、思っていたよりずっと静かで、ずっと忙しかった。


 自動ドアが開くたび、冷房の空気と紙の匂いが肌に触れる。

 雑誌、文庫、児童書、新刊、参考書。整然としているのに、棚ごとに空気が違う。

 通学のたびに前を通っていたのに、中に入ってエプロンをつけた瞬間、そこはもう“知っている場所”じゃなくなった。


「神谷さんね。よろしく」


 店長は四十代くらいの女性で、声がきびきびしていた。髪は短く、シャツの襟まできちんとしている。


「最初は返本と品出しから。分からないことは聞いて。勝手に判断しないこと」


「はい」


「静かだから楽そうに見えるけど、意外と頭も使うし体力もいるのよ」


「はい」


 その「はい」が、一時間後には心もとなくなった。


 返本は難しかった。

 本の背表紙は、見ているだけならきれいなのに、戻すとなると迷路だった。

 作者名を見間違える。シリーズの順番を飛ばす。棚の途中で、自分が今どこにいるか分からなくなる。


「ごめん、それ、一段上」


 横から声をかけてきたのは、先輩バイトの高瀬さんだった。

 大学生で、グレーのシャツをいつも少しだけ袖まくりしている。


「あっ、すみません」


「いや、最初はみんな迷うから」


 笑われなかったのがありがたかった。

 慰められすぎないのも、ありがたかった。


 そのあとも私は何度も棚の前で立ち止まった。

 文庫の「あ」行から「か」行に行くまでだけで、頭の中がいっぱいになる。

 学校のテストなら、答えが合っているかどうかはっきりしている。

 でもここでは、少しの見間違いで本が迷子になる。

 自分が思っていたよりずっと不器用だったことに、少しだけむっとした。


 初日の帰り、私は駅のホームで自分の足がじんじんするのを感じた。

 たった三時間立っていただけなのに、部活のあとみたいに疲れている。


 家に帰ると、母がすぐに聞いた。


「どうだった?」


「全然だめだった」


「ほら」


「でも」


 私は自分でも意外なくらい、ちょっと笑っていた。


「なんか、面白かった」


 学校では、私は“そこそこできる側”にいる。

 でも書店では、何もできない。

 知らないことばかりで、ちゃんと失敗できる。

 その感じが、少し悔しくて、少しだけ気持ちよかった。

第1話をお読みいただき、ありがとうございました。


「ちゃんとした子」でいることが、いつの間にか自分を縛る檻になってしまう。

つむぎが書店の棚の前で感じた「ちゃんと失敗できる」ことへの高揚感は、彼女にとっての小さな革命だったのかもしれません。


不器用ながらも歩き出した彼女の夏を、一緒に見守っていただければ幸いです。

次回、第2章「棚の向こうにある生活」です。


お気軽に、感想やブックマークをいただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ