第1章 アルバイト募集 高校生歓迎
はじめまして、神谷つむぎ、高校2年生です。
親の言う通り「ちゃんとしている子」でいることに、少しずつ息苦しさを感じていた夏休み。
駅の書店で見つけた一枚の張り紙が、私の世界を少しだけ広げてくれました。
16歳の夏、初めて自分で選んだ場所での物語。
ゆっくりお付き合いいただけたら嬉しいです。
うちの母は、私が転ぶ前に「気をつけて」と言う人だ。
玄関でスニーカーを履いていると、
「今日も暑いから水筒ちゃんと持った?」
と聞かれる。
持ったよ、と答える前に、
「駅まで走らないの。階段、急がないの。お昼、冷たいものばっかり食べないの」
と続く。
たぶんそれは愛情で、だから少しだけ息苦しい。
神谷つむぎ、十六歳。
高校二年生。
成績は普通より少しいい。友達もいる。先生に心配されるようなこともない。
たぶん、いわゆる「ちゃんとしてる子」だと思う。
でも最近、ちゃんとしているだけで褒められるたび、私は少しずつ小さくたたまれていく気がしていた。
七月の朝の玄関は、もうむっと暑い。
ドアを開けた瞬間、外の空気が肌にまとわりつく。
駅までの道を歩きながら、私は駅ビル三階の書店の前を見上げる。
入口の横に、小さな張り紙が出ていた。
アルバイト募集 高校生歓迎
その文字を見た瞬間、胸の奥で、何かがぱちんと鳴った。
*
その日の夜、母に言った。
「ねえ、夏休み、バイトしたい」
箸を止めた母が、少しだけ目を丸くする。
「バイト?」
「駅ビルの本屋さん」
「どうして急に?」
どうして。
そう聞かれると、うまく答えられなかった。
お金がすごく欲しいわけじゃない。
将来、本屋で働きたいわけでもない。
でも、家と学校の往復だけで夏が終わるのが、たまらなく嫌だった。
「……なんか、やってみたいから」
母はすぐには返事をしなかった。
味噌汁の湯気が、私たちのあいだをゆっくり上がっていく。
「書店なら、まあ……まだ安心だけど」
「まだって何」
「変なお店じゃないって意味」
私は少し笑った。
「変なお店じゃないよ。本屋だよ」
「でも接客でしょ。続くの?」
「分かんない。でも、やってみたい」
母は私を見た。
たぶんそのとき初めて、私は“やらされる何か”じゃなくて、“自分でやりたいこと”を言ったのだと思う。
母は小さく息をついて、
「夏休みの間だけよ」
と言った。
「ほんと?」
「ほんと。遅くならないこと。帰る前にちゃんと連絡すること。あと、嫌だったら無理しないこと」
「うん」
「返事だけはいいんだから」
私は笑った。母も、少しだけ笑った。
その夜、布団に入ってからも胸の奥が変に明るかった。
まだ何も始まっていないのに、もう少しだけ、自分の人生に手が届いた気がした。
*
駅ビル三階の書店は、思っていたよりずっと静かで、ずっと忙しかった。
自動ドアが開くたび、冷房の空気と紙の匂いが肌に触れる。
雑誌、文庫、児童書、新刊、参考書。整然としているのに、棚ごとに空気が違う。
通学のたびに前を通っていたのに、中に入ってエプロンをつけた瞬間、そこはもう“知っている場所”じゃなくなった。
「神谷さんね。よろしく」
店長は四十代くらいの女性で、声がきびきびしていた。髪は短く、シャツの襟まできちんとしている。
「最初は返本と品出しから。分からないことは聞いて。勝手に判断しないこと」
「はい」
「静かだから楽そうに見えるけど、意外と頭も使うし体力もいるのよ」
「はい」
その「はい」が、一時間後には心もとなくなった。
返本は難しかった。
本の背表紙は、見ているだけならきれいなのに、戻すとなると迷路だった。
作者名を見間違える。シリーズの順番を飛ばす。棚の途中で、自分が今どこにいるか分からなくなる。
「ごめん、それ、一段上」
横から声をかけてきたのは、先輩バイトの高瀬さんだった。
大学生で、グレーのシャツをいつも少しだけ袖まくりしている。
「あっ、すみません」
「いや、最初はみんな迷うから」
笑われなかったのがありがたかった。
慰められすぎないのも、ありがたかった。
そのあとも私は何度も棚の前で立ち止まった。
文庫の「あ」行から「か」行に行くまでだけで、頭の中がいっぱいになる。
学校のテストなら、答えが合っているかどうかはっきりしている。
でもここでは、少しの見間違いで本が迷子になる。
自分が思っていたよりずっと不器用だったことに、少しだけむっとした。
初日の帰り、私は駅のホームで自分の足がじんじんするのを感じた。
たった三時間立っていただけなのに、部活のあとみたいに疲れている。
家に帰ると、母がすぐに聞いた。
「どうだった?」
「全然だめだった」
「ほら」
「でも」
私は自分でも意外なくらい、ちょっと笑っていた。
「なんか、面白かった」
学校では、私は“そこそこできる側”にいる。
でも書店では、何もできない。
知らないことばかりで、ちゃんと失敗できる。
その感じが、少し悔しくて、少しだけ気持ちよかった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました。
「ちゃんとした子」でいることが、いつの間にか自分を縛る檻になってしまう。
つむぎが書店の棚の前で感じた「ちゃんと失敗できる」ことへの高揚感は、彼女にとっての小さな革命だったのかもしれません。
不器用ながらも歩き出した彼女の夏を、一緒に見守っていただければ幸いです。
次回、第2章「棚の向こうにある生活」です。
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