第3話
「大丈夫か?」
「……」
碧はその顔を見上げて瞬いたあと、口元を袖で拭った。警戒した顔のまま、左手をそろそろと差し出す。水面の手がさらに伸びてそれを掴み、強引に引っ張り上げた。
立ち上がった碧は、体中に痛みと違和感を覚えて一度よろけた。中でも感覚が麻痺して動かない左肩へ、右手を添える。それから碧はその目を細め、目の前の人物をまじまじと見つめた。不可解だ、という表情を浮かべる顔を、風が撫でていった。
「……なんで助けた?」
「はあ?」
碧の問いに、即座に意味が分からないというような声が返って来た。
「襲われている奴を助けるのに、理由がいるか?」
水面は眉を八の字に寄せ、当たり前だとばかりにそう言った。碧はその純朴な顔に毒気を抜かれ、視線を逸らした。猜疑心と警戒心を、一旦飲み込む。
「……そうだな。言うべき言葉を間違えた」
碧は再度、真っ直ぐと水面の顔を見つめた。
「助けてくれて、ありがとう」
笑みのない顔。しかしその言葉尻は柔らかい。心からの言葉だろうと察した水面は、嬉しそうに頷いた。
「とりあえず、場所を変えよう」
伸びている三人の少女達を順番に見下ろして、水面はそう提案した。水面の言葉に、碧は怪訝な顔をした。
「……場所?」
「お前にはいろいろとききたいことがある」
水面は顔をあげて、碧を探るように見つめた。
「ききたいこと? もしかして、喧嘩を売った件を言ってる?」
「そうだ。……なんかおかしいと思って、学校を出たところからお前をつけてたんだよ。こいつらの言う事がきこえてきてたから大体察しはついたけど、お前の口から直接ききたい」
水面は親指を立て、くいと後ろへ振った。
「面。……貸してくれるよな?」
結局、この世には横暴な奴しかいない。碧は短くため息を漏らした。助けてもらった手前、断れるはずもない。肩を竦めたかったが、負傷した身体では上手く出来なかった。水面は碧の返事を待たずに背を向け、さっさと歩き出した。碧がついてくると信じて疑っていないようだ。碧は投げ出された鞄を持ち上げ、紺色のセミロングの毛先が揺れる後を追った。レザージャケットを着た少女達を地面に残し、その場を後にする。鮮やかな夕焼けが、歩く二人の後ろに長い影を作っていた。
河川敷を見渡しながら、土手を歩いて行く。辺りには人影はなく、二人の長い影だけが広い道を贅沢に占領していた。川は静かに流れ、夕日によって橙色に染まっていた。遠い空で飛ぶ烏を見上げながら、碧は心地よい風が吹くのに身を任せ、目を細めた。前を歩く水面が道から逸れ、なだらかな坂になっている芝生へと足を踏み入れていった。碧もそれに黙ってついていく。緩い傾斜を少し下ったところで、水面は徐に腰を下ろした。碧もそれに倣い、横に座り込む。明るい色合いの芝生は柔らかく、土と草の匂いが鼻を擽った。
「さっきの奴ら、お前の知り合いなのか?」
水面は長い脚を投げ出し、矢庭に問いかけた。ここで話をしようということなのだろう。てっきりどこかの茶店か、もしくは倉庫裏なんかに連れて行かれるのだと思っていた。碧は先程蹴られた場所を摩ってから、口を開いた。
「……知り合いだよ。割と付き合いは長い」
「……マジか。もしかして、不味いことした?」
水面は決まり悪そうな顔をした。碧は肩を竦めようとして、しかしまだ感覚が戻らない肩はやはり言う事をきかなかった。
「確かに不味いことにはなったけど、すげースカッとしたから、結果オーライ」
碧は口角を上げて見せた。水面も釣られて愉快そうに笑った。水面の豪快な笑い声が、広い河川敷に木霊した。一頻り笑声をきいたあと、碧は顔付きを戻し真面目な表情で話を切り出した。
「あいつら、『角玄組』の一員なんだ。……『角玄組』って知ってる? 最近だと『角玄会』って名乗ってる方が多いかな」
「『角玄会』……ここより少し東の一帯を縄張りにしている組織だな。知ってるよ」
どうやら水面はその辺りの話に割と詳しいらしい。話が早くて助かるとばかりに、碧は頷きを返して話を続けた。
「うち、母さんがいてさ。母さんは生まれつき足が悪くて、自分の足を思う様に動かせないんだ。だから抗争なんてもってのほかで、どこの組織からも入るのを断られてたんだ」
今の世の中、大体の人間は組織に属している。会社時代と違い、今は勤めるような会社は存在せず、仕事は全てロボットや機械がこなしている。そのため人々は組織に入って組織の活動に貢献し、物資や食糧を得て生きていく。昔の会社よろしく、基本的に組織に入らないと生活がままならないのだ。
この国に存在する組織は、規模も目的も多種多様だ。数人の組織もあれば、数千人の大規模組織もある。そのほとんどがこの国を掌握するために活動しているが、中には医療行為を目的としたり、動物を救うことを目的としたり、ロボットに頼らない部品の製造を目的としたりと、組織の数だけ目的もピンからキリまである。そんな我が強い集団達が折り合いが良いはずもなく、ほとんどの組織は排他的思考を持っている。時に潰し合い、時に囲い込み、時に奪い合い、時に殺し合う。抗争は常に行われ、日々銃声や爆撃の音が鳴り止むことはない。
そんな中身体が思うように動かないとなると、抗争現場でいい働きが期待出来ないと判断されることがほとんどだった。もし足手纏いがいれば、仲間が危険に晒されるリスクにもなる。組織側も仲間の引き入れには慎重になるのだろう。結果、碧の母親はどの組織からも断られ続けた。碧の母親自身も、自分が戦場で命の奪い合いをするような動きは出来ないと自覚していた。将来が安泰な大規模組織に断られ続け、中規模組織に変えても断られ続け、受け入れてくれるところを探し求め、最終的には小規模組織を尋ねてまわった。
「結局、なんとか小規模組織に入れてもらって細々と暮らしてたんだけど……ある時、『角玄会』がその小規模組織を乗っ取ったんだ」
この抗争社会では、よくあることだ。小規模組織は長生きする運命にはない。より強い者に喰われるだけだ。
「『角玄会』はその小規模組織を潰すことはしなかったんだけど、暴力を振るわないことを条件に、定期的に莫大な金を献上するように要求してきた。母さんのいる組織は、その要求を飲まざるを得なかった。そうして『角玄会』の傘下になりつつも、その小規模組織はある程度日常を取り戻していったんだ。ただ、その条件が有効なのは小規模組織に所属している人間に対してだけだ。母さんの娘である私は、条件に守られる人間からは外れている。『角玄会』の奴らは私に目をつけて……それ以来、憂さ晴らしに殴られたり、金をせびられたりするようになったんだ」
水面は黙って耳を傾け続けていた。その間も、その真っ直ぐな瞳はじっと碧を見つめたままだった。
「あんまり反抗して母さんや母さんのいる組織に手を出されたら困るから、いつも適当にやり過ごしているんだ。適度に言うこときいて、適度に殴られて。……実はあんたに喧嘩を申し込んだのも、あいつらに言われたからだったんだ。『お前の学校にいる縹水面って奴を殺せたら、もうお金を払わなくていい』って言われて。……悪かった」
碧は頭を下げた。ウルフカットの先、メッシュの入った細い束が後ろで尻尾のように揺れた。
「……なるほどな」
水面は合点がいったというように言って、少し呆れたような顔をした。
「だからやる気なかったんだな」
「……やる気はあったよ。あんたを殺せたらこんな日々とはおさらばだったんだから」
どうせなら洗いざらい吐いてやろうと、碧は正直に吐露した。しかし水面は静かに首を横に振った。
「あたしの最初の殴りの避け方、蹴りへの対処の仕方。……見ればわかるよ。お前は本気ならもっといい勝負が出来る奴だ」
確信を持っているような口調だった。どうやら水面はそう思ったからこそ、その後の碧の戦い方に違和感を覚えていたようだった。水面は始終真っ直ぐ碧へと向けていた視線を、川の方へと逸らした。声色が少し落ちる。
「……だからあの時は、お前が陽動役なんじゃないかって疑ってたんだ」
「陽動?」
「あたしをあそこに呼び寄せるのが目的で、本当に狙いたい相手は別にいるんじゃないかって……だから、急いで教室に帰ったんだよ」
確かに言われてみれば、水面は去り際に走って校舎へ向かっていた。碧がその姿を脳裏に蘇らせている横で、水面は伸ばしていた脚を曲げて抱え、その上へ顔を埋めた。
「……教室で友達の無事を確認して、心から安堵した」
ぽつりと漏らされた言葉に、碧は横へと顔を向けた。水面は遠くを見つめていて、川に反射した橙色がその瞳を染め上げていた。
「安心したのと同時に、益々お前のことがよくわからなくなった。どんな狙いがあったら、喧嘩を売っておいてわざと負けるような真似をするんだろうって。だから、放課後にお前をつけてやろうって決めたんだ。……結果的にそれでお前を助けることが出来たから、良かったんだけどさ」