第4話
水面は埋めていた顔をあげ、碧へと振り向いた。目が合う。
「なんで本気を出さなかったか、きいてもいいか?」
「何度も言ってるけど、本気だったよ」
「あたしの目は誤魔化せないぞ」
水面は身を乗り出し、碧へと顔を近づけた。逃がさないとばかりに、目の前の双眸がじっと碧を捉える。碧は一度苦い顔をして、身体を反対側へと引いた。
「あたしを殺せたら、もうお金を払わなくて済んだんだろ? チャンスだったんじゃないのか?」
「……殴りと蹴りの動きを見て、私には勝てないって悟ったから、諦めたんだ。あんたは全く隙がないし、身体の軸があまりにもぶれていなくて、怖いくらいだった。無敗は伊達じゃないんだって身に染みてわかったから、夢を見るのをやめたんだよ」
煙たがるように、碧は片手を振ってみせた。水面は寄せていた身体を戻し、同時にその整った顔も遠ざかっていった。水面は訝しむように「ふ~ん」と言って唇を尖らせたが、それだけだった。碧も遠ざけていた上体を戻す。横目で水面を見やりながら、一度閉じた口を再度開いた。
「あんた、今まで無敗なんだろ? どこでそんな動きを習ったんだ?」
「完全自己流だよ。毎日鍛えた賜物ってだけ」
水面はそこで何かに思い至ったらしく、突然ぱあ、と期待に顔を晴らした。そして勢い良く碧へと顔を向けた。
「もしかして、お前も興味あるのか!? 一緒に鍛える?」
「冗談。……あんたのメニューについていける気がしない」
碧は苦い顔を貼り付けた。碧と水面の実力には、大きな差がある。それは碧自身、戦って身をもって感じたことだ。
「そっか、残念。……でも、お前も身体、鍛えてるよね?」
水面は小さく首を傾げた。髪がサラサラと肩から零れる。
「……軽くだよ。それに、喧嘩のためじゃない」
がっつりと目に見える形で鍛えていないからこそ、今まで悟られたことは一度もなかった。しかし水面はそれすらも見抜いていたらしい。バケモンだな、と碧が僅かに眉を顰めた横で、水面は「そうなんだ」と言って素直に頷いた。会話が途切れ、風が水面のストレートヘアーと碧のウルフカットされた長い襟足を攫って行った。川は完全に橙色に染まり、水流によってキラキラと輝いている。
「……なあ」
小さく声をかけられ、碧は緩慢に横へと顔を向けた。
「あたしが……『角玄会』、ぶっ潰してやろうか」
淡く添えられた笑み。自信が覗く、曇りのない瞳。紺色のセミロングの髪は、夕日に照らされてオレンジに染まっている。碧は目の前の顔を見つめ、思わず呆けた。風に擽られた髪が腫れた頬を何度も撫でて、碧は漸く手を動かして毛先を耳へと掛けた。
「……それこそ、冗談だろ。……無理だよ。学生一人に、どうにか出来るような組織じゃない」
『角玄会』はこの辺だと名の通っている組織だ。碧の母のいる組織を始めとして、傘下にされたり潰されたりした組織も数多とある。人数もそれなりで、実力だってある組織だ。だからこそ、メンバーがある程度好き勝手出来るのだ。
「何より、報復の矛先が母さんに向くのが怖いんだ。頼むから、変なこと言わないでくれ」
碧は顔に手をあてて俯き、苦し気に小さく息を吐きだした。少し間を挟み、横から「そうか」という静かな返事がきこえてきた。碧の視線の先では鮮やかな緑の芝が幾重にも折り重なり、風に吹かれてのんびりと揺れていた。
横で、衣擦れの音と草を掻き分けるような音がした。土を踏み締める音も続く。水面が立ち上がったらしい。
「それなら、いつかお前が『角玄会』をぶっ潰す気になった時には呼んでくれ」
凛とした声が降ってきて、碧は顔を顰めた。片手を顔から離し、ゆっくりと見上げる。夕日が眩しいくらいに差して、碧の顔を染めた。
「……」
碧は言葉を放ち掛けた口を、そのまま閉じた。水面は薄く笑みを浮かべていたが、冗談を言っている雰囲気ではなかった。その瞳にはやっぱり炎が宿っていて、どこまでも真剣で純真で、自分の実力を信じて疑っていないようだった。そのひた向きな視線も、言葉も、表情も。何もかもが眩しくて、碧は無意識に目を細めた。
「んじゃ、あたしは帰るわ。またな」
言いたい事は言い終えたらしく、水面は気さくに片手を振った。あっさりと背を向け、傾斜を上り始める。その背中は土手をあがり、あっという間に遠くなっていった。碧は小さくなった背中を、呆けたようにいつまでも見送っていた。ぽつんと一人残された姿はなんだか物寂し気で、夕日が励ますように芝生に影を伸ばしていた。
「……。……またなって、なんだ」
背中が完全に見えなくなった頃、碧は金縛りが解けたかのように、ぽつりと零した。喧嘩を申込み、敗北し、絡まれていたところを助けられた。それで完結し、終わった関係だろう。碧が学校の有名人と再度言葉を交わすことなど、恐らく永遠にない。それに『角玄会』を潰す気になることも。そちらはもっと有り得ない。
遠くで爆撃の音が響いた。いくつかの銃声も小さく続く。どこかの組織によるものだろう。抗争は日常茶飯事で、このような音もいつものことだ。碧は音のした方へと顔を向けようとして、丁度日が落ちかけていることに気が付いた。夜の帳が顔を出し始めている。
「……帰るか」
小さく呟き、碧は立ち上がった。未だに左肩の動きはぎこちなく、違和感が残っていた。鞄を右腕に掛け、腫れあがった頬を指で軽く弾く。痛みがじんわりと広がった。
「……」
一度、土手の上を振り返った。セーラー服の後ろ姿は、もうどこにもなかった。冷たくなってきた風が、メッシュの入った細い束の先とスカートの裾を大きく揺らした。碧は暗くなり始めた河川敷を後にした。帰路においても碧の頭に浮かぶのは、圧倒的な強さを誇る少女の姿だった。強くて、真っ直ぐで、自信に溢れていて。碧とは正反対だ。碧はなんとなく、殺さなくて良かったな、とふと思った。家に着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていて、もう夕日の橙色が恋しくなっていたのだった。
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