第12話
「よーっす」
軽い挨拶を投げる彼女は少し機嫌が悪そうだった。碧はイヤホンを外し、「遅かったね」と声を掛けながら椅子へ座り直した。彼女とは同学年のため、帰り際に彼女のクラスを覗いて帰ったのだ。帰りのホームルームは愛湖のクラスの方が早く終わっていそうだった。愛湖は碧の質問に、はあ、とため息を漏らした。
「『ACDA』の奴と鉢合わせちゃってさ」
「え」
「もう最悪。殴りかかってきたから、アコも鞄に入れてたペットボトルでめっちゃ殴ったの。相手が弱くて助かったよ」
愛湖の馬鹿力で何度も殴られたのなら、相手は一溜まりもなかっただろう。相手が弱かったのも確かなのだろうが、愛湖が鈍器を手にした時点で相手の負けは確定していた気がする。
「『ACDA』の奴、か……林檎ちゃん、無事に帰れたかな」
紅髪を揺らす小さな背中を思い起こし、一抹の不安が過る。
「いや、場所は学校の近くだったし、集団で行動していたわけじゃなさそうだったから、こっちの方までは来ないと思うけど。……てか、林檎ちゃん? ……朱宮林檎のこと?」
愛湖は不思議そうに首を傾げた。それから自身の鞄を端へと放る。
「そう。さっきここに来てたんだよね。ミナモへの伝言を預かったんだ」
「ミナモがよく話してる、優等生ちゃんのことだよね? 成績一位の?」
「そうそう。大人しそうな子だったよ。ミナモと友達なのがびっくりなくらい」
順位を知っているということは、水面から話を聞く前から林檎の噂を知っていたようだ。愛湖はあまり興味がなさそうに「ふーん」と返事をしながら、壊れかけの椅子を持って来た。碧の近くに置き、腰をおろす。
「ミナモがよく話してるから、なんかもう話したことがあるくらいの感覚だな。むしろもう友達になってる」
愛湖は真顔でそう言って首を振った。碧は「なんだそれ」と苦笑を零す。
「でも、ミナモの気持ちが少しわかったよ。笑ってくれたのがすごく可愛くてさ。妹がいたらあんな感じなのかな、って」
碧はイヤホンとタブレットを片付けながら、別の世界線を想像して思いを馳せ、何とはなしにそう言った。
「はあ? 何言ってんの? それは妹がいない奴の妄想」
愛湖は眉根を寄せ、身を乗り出した。思わぬところに食いつかれたが、実際に妹がいる愛湖には一家言あるらしい。開いた脚の中央で、愛湖は両手を椅子のふちについた。椅子が前のめりになって、カタンと音を立てる。
「妹なんて、まっったく可愛くないんだから。勝手にメイク用品漁って使いやがるし、口を開けば『お姉ちゃん、もっと身嗜みに気を付けなよ』。ふざけんな、おめーの方が枝毛やばいだろーが! あの顔、ほんっとにムカツク!」
愛湖は座ったまま椅子をガタガタと揺らした。不満を吐き出す様子は、遠吠えを繰り返す犬のようだった。
「姉に可愛い笑みなんて絶対にしないよ。笑顔になるのは、馬鹿にしてくるときだけだもん。この前なんか、シャツ裏表逆に着ちゃったアコのことさんっざん馬鹿にしてきてさ! 味のしなくなったガムみたいに擦り続けるの! 本ッ当にしつこい! 性格悪すぎ!」
愛湖はきゃんきゃんと喚き、その度に椅子がガタガタと揺れて音を立てた。しかしいくら言ったところで、一番憎む相手に頭を下げてまで妹を救出したという事実がある以上、すべてが茶番にきこえてしまう。
「……今日も元気だな」
呆れたような、でも楽しそうな声が降ってきて、碧と愛湖は半壊している扉へと振り返った。このよく通る凛とした声質は一人しかいない。予想通りの背の高いシルエットが扉を開けて入ってきた。水面は鞄を置いて、愛湖のように壊れかけの椅子を持ってくると二人の傍へと置いた。
「アオイが妹に理想求めすぎてたから、現実を教えてただけだよ」
「なんだそれ?」
愛湖はじっとりと目を伏せた。水面は首を傾げた後、座ったまま鞄を手繰り寄せた。椅子を鞄まで目一杯傾け、倒れそうになる寸でのバランスでなんとか鞄を自身の足元まで引き寄せる。それを見守っていた碧は、自分の役目を果たすために口を開いた。
「ミナモ、実は林檎ちゃんがさっきここに来ててさ」
「……え?」
体勢を戻し椅子の四本の脚がしっかり地についたところで、水面は目を丸くして固まった。
「明日ミナモとの予定があったけど行けなくなったから、キャンセルだって伝えて欲しい、って」
「なんであいつ……いつもここにあたしがいるって知ってんだ」
水面は信じられないというような顔でそう零した。碧もその言葉に目を白黒させた。
「え? 教えてなかったのか?」
「だってここ、危ないじゃないか。『ACDA』がいつ復讐に来るかわからないし。そもそもここは見た目がな……荒み切ってるし、武器とか血痕もその辺にあるし、薄暗いし。不良と誤解されそうだし、あいつらをここに近寄らせたくなかったんだよ」
水面は苦い顔で辺りを見渡した。愛湖はその横で前屈みになり、自身の太ももに頬杖をついた。
「ってことは、桜卯が嗅ぎ付けて教えたんじゃない? 生徒の情報、なんでも知ってそうじゃん」
「姫月はそんな奴じゃないぞ。……きっとあたしに関する断片的な情報から、林檎が自分で推理したんだな」
「勉強できるからって、そんなエスパーみたいなこと出来る?」
「あいつはどっちかというと、勉強よりそういう方が得意なんだよ」
水面は背もたれへ背を預け、はあ、とため息を漏らした。
「だからってこんなところに一人で来る奴があるかよ。……別に一日待ちぼうけくらうくらい、良かったのに」
水面は前髪を巻き込んで額に腕を乗せた。天を仰ぐ顔は、憂いに染まっていた。
「……彼女、全然怖がってなかったけどな。血痕見ても私見ても、平然としてた」
「あいつ、無駄に肝っ玉が据わってるからなあ……」
水面は呆れたように言った後、天井を見つめる顔を真面目なものに変えた。そして独り言のように呟く。
「というか、行けなくなったって……こんなこと初めてだな。最近つるみだした仲間と、何か予定が入ったのかな……」
「仲間?」
水面はよく二人の話をしているが、その辺りは初めてきく情報だった。てっきりいつも三人でいるのかと思っていた碧は、意外な単語の登場に思わず訊き返した。
「うん。理想の世界に共感してくれそうな仲間を作れ、って……姫月とあたしで勧めたんだ。あいつは乗り気じゃなかったけど。でもなんか、無理矢理勧めといてあれだけど、その、……寂しい……じゃなくて。張り合いがない、というか……」
もごもごと呟いた後、水面は小さく唇を尖らせた。林檎を新しく出来た友達に取られたような心地なのだろう。
「理想の世界?」
愛湖がきょとんとして尋ねる。学校一の才女の望む世界がどのようなものなのか、興味があったのだろうか。水面は背もたれの上に乗せた頭を、愛湖の方へと傾けた。
「誰だってあるだろ。理想の世界くらい」
本人のいないところで他言する気はないらしく、水面はそう暈すだけで明言はしなかった。
「ミナモにもあるの?」
「ある。……あたしの理想の世界は、『みんなが家族のような世界』だ」
水面は一度目を伏せ、愛湖へと向けていた顔を天井へと戻した。再び開いた瞳は、まだ見ぬ未来を描くように、キラキラと希望に満ちて輝いていた。
「皆が支え合って、助け合って、笑い合えるような世界って、すっげーいいと思わないか?」
一等星すら超えるくらい、明るく無垢な顔だった。天へ向けられた真っ直ぐな瞳は、青空のように澄み切っている。
「誰だって大事で欠けてはならない大切な家族だ。お互いに守り合って、大切に出来るような——そんな世界になってほしい」
その声色は凛としていて、芯に自身の夢見る未来への憧憬が滲んでいた。情に溢れ、人が手を取り合い、命を尊重する世界。水面らしさの詰まった、輝きに満ちた理想の将来。人が目指すべき未来であり、彼女の行動原理でもあるのだろう。しかし碧はそれを、どこか冷淡な目で聞いていた。
(……やっぱお人好しだな)
世の中そんな奴ばかりではない。他人を蹴落とそうとする者、弱者を食い物にしようとする者、気に入らない者を排除しようとする者。水面の語る世界は確かに理想ではあるが、現実になるには程遠い。
「いいじゃん!」
碧の横で、愛湖が頬杖から顔をあげ、身を乗り出した。その瞳は、まるで水面から伝染したかのように明るく煌めいていた。そして、大きな声を弾ませる。
「それ、サイッコーだよ! アコもそんな世界がいい!」
愛湖はわくわくとした様子でそう言って、無邪気に笑みを見せた。水面は背もたれから頭を離して起き上がると、「だろ?」と歯を見せて嬉しそうに笑った。
(……なんか、ミナモもアコも、純粋だな。眩しいくらい、真っ直ぐだ)
碧は二人を眺めながら、自身がひねくれていることを自覚した。二人は根っこの部分が似ている気がする。だからこそ、ずっと敵対していたにもかかわらず共闘する際には息がぴったり合っていたのだろう。