第10話
「……ずっと思ってたけど、その二人って桜卯姫月と朱宮林檎ちゃん?」
「げっ!? なんで知ってるんだ」
水面は戸惑ったように叫び、慌て出した。
「なんでも何も、あんた、酒入ってから十回は二人の話してたぞ」
「ええ? ……嘘だろ?」
水面の困惑した様子を見るに、どうやら本当に無意識だったらしい。何度も話をきいていれば、碧にもある程度誰の事を言っているのか予測がつく。その相手が学校の有名人であれば、猶更だ。桜卯姫月は財団のお嬢様であり、水面が学校の有名人二位だとすれば、堂々の一位を冠するのは彼女しかいない。教師を陰から操っているだとか、生徒全員の個人情報を握っているだとか、とにかく噂の絶えない人物だ。噂はともかくとしても、財団のお嬢様というのは歴とした事実であり、生徒はもちろん教師すら彼女には頭があがらないらしい。そして姫月や水面に比べればそこまでではないが、朱宮林檎も一応有名人の一人だ。学校に最年少で入ったという噂で、学年の中でも飛び抜けて幼い。にもかかわらず、彼女は学校で一番の成績を維持し続けている。いつの試験でもどの科目でも、一番上には必ず彼女の名前が載っているため、その名を見たことのない生徒は一人もいないだろう。
「あー……。……ちょっと酔ってるのかも?」
「当たり前だろ。あんだけ飲めば誰だって酔う」
碧は水面の足元に転がっていた空の缶の数を思い起こして苦い顔をした。数えはしなかったが、少なくとも十本以上はあった。誤魔化すように頬を掻いていた水面は、一転して小気味良い音を鳴らして両手を合わせた。
「あいつらには言わないでくれ! 絶対からかわれるし、そもそも酔って話すのがあいつらの話だなんてすげー癪だ!」
二人の話をする時はいつも愛おしそうに目を細めているくせに、本人は気付いていないらしい。何だかんだと言っているが、二人を如何に大切に想っているかは見ていれば丸わかりだ。碧は「はいはい」と御座なりに返した。それからふと気付いたように呟く。
「……もしかして、あんたの強さの秘訣って、それなのか?」
「どういうこと?」
水面は下げていた頭をあげ、窺うような視線を向けた。
「二人を守るために身体を鍛えているから、そんなに強いのかと思って」
「……いや、違うよ。身体を鍛え始めたのは、ずっと昔。学校に入る前からだ」
「入る前から?」
それはまた、随分と遡ることになる。その頃からずっと鍛え続けていたのなら、今の水面の無茶苦茶な身体の動きも頷けるのかもしれない。
「……うち、弟がいてさ。二人」
水面は見えてきた河川敷へと視線を向けた。反射した光が動くことによって、川が流れているのが暗闇の中でも辛うじて見えていた。
「男児は他所の国へ連れて行かれるのが普通だろ? うちの弟達も例外じゃなかった。ある日見たこともない大人がやってきて、弟達を連れていこうとした。でも、あたしはどうしても弟と離れ離れになりたくなかった。お母さんも弟も泣いてたしな。だから……引き取りに来た男を、思い切り殴り倒してやったんだ」
「えっ……」
「当時の年齢じゃ、それがいけないことだってわからなかった。ただ、連れ去られそうになる弟を守ろうと必死だっただけだ。打ちどころが悪かったみたいで……いや、良かったのか? ……外国から派遣された大人は、あたしの拳を受けて伸びちゃってな。それに慌てたのは、他でもないお母さんだった。外国から派遣された人間、しかも男児の引き取りを担う部署の人間って、結構偉い奴らしくって。男児を引き渡すという決まりを破った挙句、そいつに手までも出しちゃったわけだから、お母さんはもう顔面蒼白だった。当時のあたしはそんなお母さんの様子を見て、不味い事になったんだって漸く悟った。その後、音沙汰のないことを不審に思って、別の奴がやってきた。だからあたしは、そいつも殴り倒そうとした。皆倒して、証拠を隠滅して、このまま家族で仲良く暮らしていこうと思ったんだ」
「……あんたらしい発想だな」
謝ろうとするのではなく迷わず罪を重ねることを選ぶのは、流石である。完全に戦闘狂の思考だ。まだ力をつけていない時から同じ思考回路なのだとすれば、これは実力があるからというよりもともとの性格らしい。
「でも、当時のあたしは本当に普通の子だったから、大人を二回も殴り倒せるわけがなかった。伸びていた大人も起きて、結局二人の弟達は連れていかれてしまった。……あたしは、それがすごく悔しくて、悲しくて。あたしがもっと強かったら、弟は連れて行かれなかったんじゃないかって、そう思ったんだ」
「……」
「あたしにとって身体を鍛えることは、たぶん贖罪とか懺悔の類だったんだろうな。守れなかった、弟達に対しての。それから毎日、欠かさず身体を鍛えるようになった。もし次に同じ目にあった時、絶対に守れるようになりたかった。いつか、お母さんが連れて行かれそうになったりする時が来るかもしれないし、何かの奇跡で弟達と再会する時がくるかもしれない。その時、もう二度と引き裂かれたりするもんか、って。今思えば、割と馬鹿な行動なのかもしれないけど」
水面は苦笑を漏らした。自虐的な笑みだった。
「……馬鹿とは思わないよ」
碧は思ったことを素直に伝えた。その言葉に、水面は小さく微笑んだ。
「一日も欠かすことなく身体を鍛え続け、貪欲に体術を吸収していった結果、あたしは今の強さを手に入れた。最初は贖罪の色が強かったけど、段々と身体を動かす事に楽しさも見出していった。身体を動かすときはなんにも難しいこと考えなくていいし、何よりその人間の実力が目に見える形でわかるじゃないか。それが気持ちよくてさ。どんなに威張って悪い事考えてる奴らも、腕力の前では皆ひれ伏す。逆にいい奴や、守りたい奴を守ることも出来る」
パックリと割れた袖の中を、冷たい風が吹き抜けていった。碧は袖に出来た切り口をもう片方の手で抑えて、水面の話を静かに聞き続けた。水面の言う『いい奴』に自分も入っていたのだろうかと、そんなことを考えながら。
「だから、あたしは鍛錬を続けてきてよかったなと思ってる。この力は、弟達からの贈り物なのかもな」
水面は照れ隠しに笑みを零した。碧はそんな水面を横目で見つめた。
(贈り物じゃなくて……あんたの努力の結果だろ)
気軽に訊いたことを後悔し始めた。彼女の今の強さは、持ち前の真っ直ぐな性格故の必然だった。昔から彼女は誰かを守るために行動していて、結果そのための力を手に入れた。そこには並々ならぬ努力があって、後悔と自責の念に圧し潰されながら、それでも折れずに藻掻き続けた果てに得たものだった。彼女は守りたい者を守るという決意に真摯に向き合い続け、決して諦めなかったのだろう。そして今も変わらず、その力を誰かを守るために使っている。酔話として語るにはそぐわない程、崇高で、無垢で、一途だと思った。
酒が入ったからなのかもともと話好きなのか、水面は碧へといろいろな話を聞かせてくれた。辺りが静かな分、水面の通る澄んだ声が酒でぼんやりした頭には心地良かった。水面は気付けばすぐに大事な友達の話をしていたが、どうやら本人は無自覚のようだった。碧の家に着くまでそう長くは掛からなかったが、碧はその道中で水面のことをより知ることが出来た。一つの組織を壊滅させてしまったとんでもない日となったが、その帰り道は驚くほど長閑で平和な一時となったのだった。
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