六
答えが出ないまま、一週間が過ぎてしまった。
日付は六月二十日、土曜日。全日本少年軟式野球大会、代表決定戦の当日である。
新青葉中野球部は、試合の行われる公園の野球場にやってきた。現地集合にしたため、まだ数人の選手が到着していない。試合開始の一時間前に全員到着しなければいけないが、開始時間の九時には、まだ一時間半近くある。
「よう、月見」
荷物を下ろしたところで、秀也が挨拶してきた。私は秀也を一瞥すると、荷物の整理を続けながら返事をした。
「おう」
「ひまわりは?」
「まだ来てない」
「そうか」
まあ、いつもの社長出勤だろう。最近では珍しくない。前までは私が一緒だったから早かっただけで、たぶんもともと時間にルーズな性格なのであろう。おかげで電車とか駅とかでばったり遭遇しなくて助かる。
「結局、ひまわりは最後まで良くならなかったな」
「……そうだな」
「勝てそうか、太田で?」
「……やるしかないだろ」
秀也の言葉は、私を責めているようだった。ひまわりの乱調は私のせいだと。私が折れてひまわりを許せば、すべてが丸く収まって、ひまわりは復調するはずだと。
もう遅い。今さら関係を修復したところで、フォームを修正する時間はない。ただ関係を戻しただけで復調するほど、人間も単純ではあるまい。
「ああっ! 御影さんじゃないですか! 久しぶりですね!」
辛気くさい話をしていると、陽気な声がかかった。振り向くと、満面の笑顔を湛えたエセチャラ男が走ってきた。
「おお、白須か!」
私の代わりに秀也が答えた。白須清。今日の相手チーム、ロブスターズのエースで、最も厄介な選手である。
白須は私たちの前に立ち止まると、明るい声でおどけた。
「よう、村井! 今日はお手柔らかにな!」
おっさんみたいな挨拶である。
しかし、相変わらず他人と壁を作らないやつだ。一人遊びとか好きな私としては、ちょっと友達になりたくないタイプである。
「ねえ御影さん、せっかくだしメール交換しようよ!」
「え……」
と思っていたところで、いきなり友達になろうとしてきた。ていうか友達以上の関係さえ望む下心が見える。
「お前、月見に利用されそうになったの忘れたの……?」
「いや、だってかわいいし……」
「最低だな、お前……」
と、秀也も呆れかえった。ほんとに最低野郎である。やっぱり女なら誰でもいいのだろう。
「ところで光葉さんはどこだ?」
「すげえよ、お前。ナンパした女子の横で別の女子の話するんだな……」
秀也はもはや呆れを通り越して尊敬すらしていた。白須はそんな秀也の様子にも目をくれず、キョロキョロと辺りを探している。
「光葉さん、いないな」
「ひまわりはまだ来てないぜ」
「え、そうなのか? 何だ、話してみたかったのに」
白須はわざとらしく舌打ちしてから、続ける。
「うーん、そろそろ戻んないと監督にまた怒られるし。しゃーない、光葉さんとはグラウンドでだな。いやあ、楽しみだ! それじゃ御影さん、俺は向こう戻ります! また試合で!」
勝手に納得すると、白須は私に手を振って嵐のように走り去っていった。
「ひまわりが投げないとは、思ってないんだろうな」
白須の背中を見送りながら、秀也は溜息交じりに言った。他意はないのだろうか。事実をつぶやいただけにしては、私に刺さりすぎる。
私は何も言わず、ユニフォームの入った袋を荷物から取り出し、逃げるように女子トイレへ向かった。
「礼!」
「よろしくお願いします!」
審判の号令で挨拶をし、試合開始となった。キャプテンのジャンケンの結果、私たち新青葉中学は先攻となったので、三塁側ダグアウトに引き返した。グラウンドにはロブスターズのナインが散り、もちろんマウンドには白須が立っていた。
白須はヘラヘラした表情で、ピッチング練習を開始した。ここから見る限り、特に前回の偵察と変わったところはない。ということは、やはり打つのは難しいということである。
なぜか今日だけスランプに陥ったり、謎の腹痛とかに見舞われたり、なんてことはないらしい。毛糸で藁人形っぽいものは作ったのだが。やはり相手の髪の毛とかないとダメか。
トップバッターの木元は、バットを持ってネクストバッターズサークルにしゃがみこんでいる。
新青葉中のオーダーは、ほぼいつも通りである。木元が一番センター。四番がショートの秀也で、私は九番キャッチャー。先発は太田のため、ベンチスタートではなく八番。ひまわりが打順そのまま三番、ポジションはライトに入っている。この試合に限らず、太田が先発した試合はだいたいこのオーダーである。
ちなみに、ひまわりは案の定試合開始の一時間前、集合時間ぎりぎりにやってきた。特に誰と話す様子もなく、どこか近寄り難い雰囲気を発しながら、オーダー表交換などキャプテンの務めを機械的にこなしていた。
攻撃の前、一番と二番打者を除いた全員で円陣を組んだ。
「まずは先制点、きっちり取るぞ!」
威勢の良いキャプテンの言葉は、少し空虚に感じられた。
白須が七球投げ終え、木元が打席に入った。
「プレイ!」
主審の掛け声でゲームが動き出す。白須が投球モーションに入り、第一球を投じる。
「ストライク!」
木元が空振り、主審の手が上がった。外角高めのストレート。木元のスイングは振り遅れていた。
キャッチャーからボールが返され、木元が構えると、白須は一呼吸おいてすぐに二球目を放った。また主審の手が上がった。
結局木元は四球で三振に倒れた。三球目のカーブは高めのボール球になったが、決め球のインハイの布石として速度差に翻弄された。単純で予想しやすい配球だが、スピードが速いので対応しにくい。
二番が打席に入ると、三番のひまわりがバットを持ってベンチを出る。入れ違いで木元が戻ってきた。私はヘルメットを脱ぐ木元にさっそく声をかけた。
「どうだった?」
「え、どうだったって?」
「いいかげん察せよ、このタイミングで私が聞くことくらい。白須のピッチングはどうだったかって聞いてるんだ」
「あ、ああ、そうでしたね。えーと、えーと……速いっす!」
「はあ……」
わかってんだよ、そんなことはとっくに。私はツッコむ代わりに溜息をついた。
とはいえ、今回に関しては仕方ないのかもしれない。木元がバカなのは今に始まったことではないが、相手が白須ではこの感想以外あまり出まい。
なぜなら白須はバリバリの速球派である。コントロールがいいわけではないらしいが、多少アバウトでも適当にストライクゾーンに投げておけばスピードで何とかなる。アバウトでいいから、フォアボールも少ない。そこに遅いカーブも混ざれば、頭使わなくても結構抑えられるのである。
こういうタイプは、高校、大学、社会人、プロと、レベルが上がっていくごとに戦いづらくなっていく。いずれはコントロールとか変化球とか、細かい部分を身に付けなければ、生き残れなくなる。しかしスイングスピードの遅い中学軟式レベルなら、簡単には打たれない。
うちの野球部でまともに勝負できるとすれば、木元と秀也と、ひまわりくらいだろうか。他は失投を待つしかあるまい。
案の定二番打者は内角のストレートに手が出ず、見逃し三振。簡単にツーアウトとなった。
ネクストバッターズサークルからひまわりが出て、右打席に入る。白須はニヤニヤしながら、帽子をとって一礼した。すげえムカつく。アメリカでやったら挑発と受け取られて、たぶん乱闘になるか故意死球をぶつけられる。
ひまわりは白須の行動を無視して、バットを構えた。白須は相変わらずニヤニヤしたまま投球姿勢に入り、ボールを投げた。
「ストライク! バッターアウト!」
ひまわりはあっさり三球三振で打ち取られた。ストレート、カーブ、ストレートと、極単純な組み合わせだったが、おそらくストレート一本でも打てなかったように思う。ひまわりはすべてのボールに手を出し、最初からストレートに振り遅れていた。
普段のひまわりなら、もちろん打ち損じることはあるだろうが、中学生レベルのストレートに追いつけないはずがない。何かに気を取られているか、あるいは何か迷いがあるようで、反応が一瞬遅れている感じである。
この前まで、少なくとも一週間前の鶴谷中との練習試合までは、ひまわりのバッティングは悪くなかった。しかしそれ以降、練習中のひまわりを見ると、なぜかバッティングの調子も崩れていた。ピッチングの不調がバッティングにも影響しだしたのか。
初回の攻撃は三者連続三振で終わり、攻守交代である。先頭打者から始まる上位打線でこうもあっさり攻撃が終わってしまうと、この先一点でも取れるのか不安になる。
白須たちがベンチへ退いていき、新青葉中の選手がグラウンドに出て行く。凡退したひまわりも、とぼとぼと下を向きながらベンチに戻り、ヘルメットとバットを置いて守備に向かった。その際、彼女は私に見向きもしなかった。というより、見ないようにしていたのだろう。
「み、御影先輩!」
私もマスクとミットを持ってキャッチャーボックスに向かおうとしたところで、太田に呼び止められた。何となくめんどくさい話な気がする。
「……何だよ」
「どどっ、どうしましょ、御影先輩。はじっ、始まっちゃいますよお」
やっぱり、めんどくさい。この手の相談は、太田が先発と決まった翌日から毎日されている。昨日までは一日一回、挨拶代わりに。今日は会ってから十分置きにである。いいかげんキレたくもなる。
私は太田を一瞥すると、目を閉じて溜息交じりに答える。
「どうもこうもない。やる前からビクビクすんな」
「だ、だって、超大事な試合じゃないっすかあ! しかも相手は、あのロブスターズっすよ! 白須さんっすよ!」
「白須だって失点してるんだ。一点だけど。こっちには秀也だっているんだから、援護は期待できる。あとロブスターズはそんな打撃よくない」
「で、でも、相手はみんな三年生じゃないっすか! 俺より二年も長く野球やってるんですよ!? なんで俺が先発なんすかあ!」
「決まったもんは仕方ないだろ。肚くくれ」
「そんなあ……」
太田は情けない声を出して、押し黙った。話すたびに、なんでこいつピッチャー志望したんだろうと疑問に思う。
「ほら、行くぞ」
「あ、ま、待ってくださいよお」
勝手に消沈する太田を置いてグラウンドに出ると、太田も仕方なくマウンドに向かった。
まず、投球練習を受ける。酷い有様である。もともと太田のピッチングは大したことないが、今回はいつにも増して酷い。
もう全然入んない。構えたところに来ないとかじゃなくて、ストライクゾーンが狙えない。置きに言ってもストライク入んない。極度の緊張で体が動かないのだろう。
しかも焦ってるのか何だか知らんが、フォームが前に突っ込みすぎててカーブが曲がらない。もちろん私の返球はことごとく落とした。
本来ならピッチャーに声をかけた方がいいのだろうが、この試合は野手がピッチャーのところに行く回数が制限されている。しかも二回とかなり少なく、こんな最初も最初で使ってしまうのは得策ではないか。
ならばここは、自然な行動で緊張を取るよう努めなくてはいけない。
七球の投球練習が終了し、私はいつものように立ちあがった。
「声出していくぞお!」
「おお!」
いつもより声を張り上げて叫ぶと、いつもより大きく返答が来た。ひまわりの声は聞こえなかったが、一応ライトで声を出しているような仕草は見えた。
大声の効果はとても大きい。声を出すだけで気持ちは前を向く。バカっぽいが、不安と緊張を和らげるのにこれほど簡単で意義のある行動はないだろう。根性論は案外バカにできない。
まあ、これで太田のピッチングがマシになる保証はないが。
ロブスターズの一番打者が左打席に入った。この一番は、結構積極的に振ってくるバッターだ。だから本来なら慎重に攻めていきたいところだが、今の太田は相当浮足立っている。ここはいっそ強気に攻めさせることで、太田に発破をかけたい。
私はミットを力強く叩いてから、初球、内角のストライクゾーンにミットを構える。太田が緊張した面持ちで投球姿勢に入ると、いそいそと投球動作を始めた。
「ボール」
初球は外角に大きく外れた。完全な逆球である。ストライクゾーンに投げたくないのだろう。内ではなく外に大きく外れたことからも、逃げ腰になっていることが伝わる。
さて、声をかけに行くべきだろうか。十八・四四メートル先では、やはり檄を飛ばすにも限界がある。しかしまだ七イニングを戦い抜かねばならず、ここでマウンドまで行けば、あと一回しか声をかけられなくなる。加えてピンチでもなければランナーさえ出ていない。今より厳しい状況はまだ確実に来るだろう。
ここは、もう少し様子を見るべきか。
私はボールを投げ返すと、防具の上から胸を叩き、「どんと来い」とジェスチャーをして、同じところに構える。
ワンボールで打者有利のカウント。もともと積極打法の打者だが、さらに自信を持って振ってくるだろう。おそらく構えたところに来れば痛打される。しかしここで打たれようとも、以降七イニングのために、ここは強気に投げさせる必要がある。
太田は首だけでうなずくと、しかし表情は固いまま第二球を放った。
「ボール」
ストライクゾーンには来なかった。太田の顔はさらに険しくなった。
「ボール。フォアボール」
トップバッターをストレートのフォアボールで出して、さらに二番まで出したところで、さすがにやばいと思った。
認めよう。失策であったと。
四番の白須がベンチを出るのを見ながら、私は心から反省した。
八球続けてひとつも入らなかった。ついぞ声をかける他に打つ手がなくなり、どうせ行くなら最初から行ってりゃ、中軸を前にいくつかアウトを取れたかもしれない。結果論ではあるが。
「タイム」
三番が打席に入るまえにタイムを要求し、マウンドに駆け寄った。私に合わせて内野陣も集まってきた。
外野陣は輪には加わらず、各々勝手にしている。ひまわりは腕を組んで仁王立ちしており、木元は束の間の休息とばかりにグローブを頭に乗せて新庄の真似をしている。木元だけ後で説教である。
すでに泣きそうになっている太田に、私はなるべく優しく声をかけた。
「お前、勝負を逃げすぎだ。フォアボールで出すのもヒットで出すのも結果は変わらんが、打たれればアウトにできる可能性があるんだぞ」
「先輩、いつもフォアボールも立派な戦術だって言ってるじゃないっすか……」
こいつ、ふてくされて揚げ足取りしてきやがった。
私は殴りかかりたい気持ちを必死になだめ、冷静に反論する。
「私が許すのは敬遠と、際どいコースを攻めた末のフォアボールだ。それ以外は無駄なフォアボールだよ。今は打たれても構わんから、思い切って投げろ」
「そ、そうだぞ、太田! 後ろじゃ九人、いや七人か……も守ってるんだから、打たせればどっかに飛ぶさ!」
秀也が、「ちょっと言葉きつくないか……?」といったような視線を投げかけながら、場をフォローした。まあ、たしかに少し厳しいかもしれん。試合中にずっと引きずられても困るし、もうちょっとソフトな言葉選びをした方がいいか。
「えーと、つまりだな。今まで練習してきたことを」
「ていうか、何で俺が先発なんすか! 絶対、光葉先輩が投げるべきっすよ!」
こいつ、まだそんな泣き言を……。
「だいたい俺一年っすよ! 相手みんな上級生な上に、白須さんみたいな天才に勝てるわけないじゃないっすか!」
堰を切ったようにあふれ出す、何度も聞いた太田の不満に、私はついにキレた。
「一年も二年も三年もあるか! ましてや天才も凡才もねえ! グラウンドに立ちゃ等しく野球人だ!」
「え……」
と、不意に怒鳴り出した私に、太田は驚くというより若干引き気味の反応をした。ニュアンスとしては「あ、やべえ」って感じである。一瞬にしてマウンドの周辺は絶対零度へと変わる。
「私は例え相手がプロでも、全力で勝ちに行くぞ! 勝てる勝てないじゃない! やるか、やらないかだ!」
言ってしまってから、私も「あ、やべえ」と思い直す。一気に頭が冷えて、途端にさっきの発言がすげえ恥ずかしくなった。クサすぎである。
「だ、だから、あれだ。えーと、えーと。やると決まったら、もう肚をくくるしかないわけで、なら今の力を出し切ることが野球選手としての使命っていうか……」
という自分で言ってても意味のわからない謎の弁明を繰り返していると、太田が何をとち狂ったのか何だか真剣な表情で見つめ返してきた。
「たしかに、先輩の言う通りっす。俺、今まで色々言い訳して挑戦してこなかった」
え、何言ってんの、こいつ。
「でも先輩の言葉で目が覚めたっす! 俺もう逃げないっす! 玉砕する覚悟っす!」
何だかよくわからんが、納得したらしい。とりあえず乗っておこう。
「お、おう」
私は精いっぱいに決め顔を作って、グッとサムズアップした。その瞬間に辺りはまた謎の感動に包まれ、内野陣からは謎の拍手が巻き起こった。秀也に至ってはちょっと泣いてる。
何だ、これは。超恥ずかしいぞ。状況を知らない外野陣が不思議そうに見てるのが余計恥ずかしい。すげえ温度差である。もう帰らせてくれ。
「じゃ、じゃあ、そういうわけだ。頼んだぞ」
「はいっす!」
私はボールを渡してさっさと会話を切り上げると、審判に一礼してキャッチャーボックスに座った。太田と内野陣は未だ興奮冷めやらぬといった風にキラキラとした目をしている。何だ、こいつら。
まあ、ともあれ試合再開である。状況はノーアウト一、二塁。コントロールが乱れているピッチャーにバントはまず無く、打たれれば先制点は固い。
右打席には、ロブスターズの三番が入った。
こいつも結構振ってくるタイプのはずである。太田は連続フォアボールを出しているが、内野が集まって声をかけた直後である。初球でも甘ければ狙ってくるだろう。しかし、せっかく精神的に前を向いたらしい太田の出端を挫きたくない。ここは無理にでも攻める。
私は外角へストレートを要求する。太田がプレート上で一つ、今度はしっかりとうなずき、セットポジションに入る。足を上げ、形だけのクイックで放り投げたボールは、まっすぐストライクゾーンの真ん中に向かってきた。
私が「あ、打たれる」と思った瞬間、バットが視界に入ってボールを捉えた。鋭い打球がグラウンドを這い、サードの真正面へ。ラッキーである。打ったバッターが悔しそうな表情で一塁に走り出した。
しかし運よくゲッツーを取れるかと思いきや、速い打球に対応できなかったサードは捕球を失敗。軟式ゆえに高く跳ねたボールを前に弾き飛ばした。
私はサードがボールを拾う間にベースの状況を確認する。二塁に投げたのでは間に合わないが、三塁は近い。走ればまだ間に合うか。
「みっつ! 走れ!」
私が叫ぶと、ベース横でボールを拾い上げたサードが猛然と三塁ベースへダッシュ。二塁ランナーのスライディングとほぼ同時にベースを踏み、審判の手が上がる。これでワンアウト。間髪入れずに今度はバッターランナーを確認。スタートが多少遅れたからか、まだ一塁に到達していない。ゲッツー取れるか。
「ひとつ!」
一か八かで指示を出すと、サードは身を翻して一塁へ送球。しかし指を離れたボールは一塁から大きく外れ、一、二塁間を抜ける悪送球となる。
ファーストが体を伸ばして捕ろうとするも、当然後逸。ボールが転々と転がる間にバッターランナーとファーストランナーはそれぞれ進塁。バックアップに入ったひまわりが捕球したころには、両ランナーはスライディングを終えていた。
際どいタイミングではあるが、送球が逸れていなければアウトにできた可能性は充分にある。
しかし、この悪送球は責められまい。何せランナー一、二塁でのサードゴロ、三塁経由のゲッツーなどほとんど練習していない。際どいタイミングでの焦りもあっただろうし、振り向きざまの送球は難しい。何より太田がマウンドに立っていた。
通常のダブルプレイなら、ピッチャーはその場でプレイを見守っていればいい。しかし三塁経由で一塁に投げるならば、ピッチャーは送球の邪魔にならないようマウンドを離れなくてはいけない。
送球しようと振り向いて、太田の姿がコースに映り、当てないよう本能的に狙いを外したのかもしれない。つまりうちのチームは、その限定的な状況のための練習が、できていなかったのだ。
「ワンアウト、ワンアウト!」
私は味方を鼓舞するため、人差し指を頭上に掲げて叫んだ。しかし状況はよろしくない。ワンアウト二、三塁。犠牲フライでも、場合によっては内野ゴロでも点が入るこの場面で、バッターは四番のこいつである。
金属バットを携えた白須が、悠々とネクストバッターズサークルを出た。
「ピッチャー、光葉さんじゃないんですね」
打席に入ると、挨拶代わりに白須が言った。どこか、がっかりしたような口調である。
「……うちは秀也とひまわりだけのチームじゃないんです」
「そうですか。まあいいか。俺が打って早いとこ引きずり出せば」
「いや、普通に考えて敬遠ですよ?」
「ええ!? ちょっと、一打席目で敬遠はないっすよ、御影さん!」
白須はオーバーなアクションで驚いた。こいつは何でこう、いちいちイラッとくるリアクションをするのか。
さて、ところでどうしようか。
もちろん普通に考えれば敬遠である。ロースコアが予想される試合で、相手は強打の白須だ。太田の球で抑えられる気がしない。平時だってまともに戦いたくないのに、ワンアウト二、三塁のピンチ。一塁が空いていて、敬遠すれば満塁。次の五番をダブルプレイに取れる可能性もある。他の選択肢はない気もするが、しかし。
私はマウンドに目を向ける。太田の白須を睨むような眼差しに、謎の闘志が見える。
先ほどマウンドに駆け寄ったとき、太田は私の言葉で前を向いた。何が琴線に触れたのかは不明だが。
しかし、言葉なんて一時的なものだ。今は何だかよくわからん勢いで精神的にブーストがかかっているが、そこに実が伴わなければ、空虚なものとなってしまう。
特に最悪のケースが、白須を敬遠して万全を期したつもりが、次の打者に打たれることである。点が取られる上に太田の勢いを削ぎ、以降の攻め手もなくなる。
私からすれば敬遠なんて全然逃げることではない。むしろやけくそで勝負することこそ、勝利からの逃げだと思う。だがピッチャーというのは、とかくそう言った体面とか、武士道的な美徳を大切にする。
ならば、たとえ抑えられないとしても、一度でも白須と真っ向勝負をしたという事実が、この先重要になるのではないだろうか。鉄は熱いうちに打て、というわけである。
とすると、この場面は白須を抑えることではなく、被害を最小限に抑える手立てを考えなくてはいけない。どうしたものか。とりあえずは……。
私は一考を案じ、深く息を吸い込むと、グラウンド中に響くように空へ向かって叫んだ。
「バッチ長打あるぞお!」
声を聞いた外野陣は散弾のように定位置を離れ、後退守備を敷いた。打席の白須もニッとほくそ笑む。勝負と確信したのだろう。
マスクをかぶって座ると、私はバットを構える白須に声をかけた。
「ところで白須くん。ちょっと取引しませんか?」
「取引?」
白須と話しながら、股下から小さくサインを送る。秀也が困惑の表情を浮かべながら後ろ手にサインを仲介し、そのサインを受け取った外野陣もまた困惑しながら前に出てきた。サインは外野の前進守備へのシフト変更である。
ついでに山際監督から出た内野前進守備のサインも取り消した。
「何ですか、取引って?」
「はい。もしこの試合でわざと負けてくれたら、一回デートしてもいいですよ」
「え、マジですか!?」
食いついた。やっぱり女なら誰でもいいらしい。ていうかデート程度でいいのか。
「どうです?」
「そ、その取引乗っ……! あ、いや、でも、さすがにわざと負けるのは……」
白須は一瞬引き受けそうになったものの、何とか踏みとどまった。よかった。
もちろん成立しないとわかった上で持ち掛けた取引である。実際にデートすることになっても困るし、もし仮に乗ってきたら、私は心の底から白須を軽蔑する。一緒に戦ってきたチームメイトより目先のほとんど知らない女を優先するような奴を、私は男と認めない。
まあ、かと言ってそんなに深い意味があったわけではないが。第一の目的は、シフトから注意をそらさせるための癇癪玉である。が、たぶん白須はそんなもん端から見てないので、あまり意味はない。
あとは、バッティングは非常に繊細なものであるから、これで動揺してくれればどこかで力みが生じるのではないかという、言ってしまえば、神頼みみたいなものだ。打てる手は打っておくべきだろう。
さて、それでは配球である。私は難しい顔をして立つ白須の構えを見ながら、考える。
まず前進守備を敷かせた理由は単純である。三塁ランナーは仕方ないが、単打で二塁ランナーを帰さないためだ。もとよりまともに打たれれば長打は確実なので、後退したって大して変わらん。
早い話がホームラン打たれりゃシフトなんて意味ないのである。ならいっそまともに打たれないことを前提に考え、長打にされたらみんなで仲良く心中である。
ではなぜ一度、後退守備を見せたかと言えば、パワーのある白須相手にあえて前進守備を敷くことで、万が一にも警戒されたくなかったからである。スクイズとかされたら白ける。
単打を打たせることを念頭に置けば、最終的に打たせたいのは外角、できれば低めのストレートである。白須は無理やり引っ張る打者だから、これを巧く打たせれば力は充分入らない。決め球、と言っていいのかわからないが、アウトローのストレートである。
次にカウント球であるが、太田のボールでは遅すぎる上、白須は遠慮なく引っ張るため、内角の、特に真ん中と高めのストライクゾーンは厳禁。内角は基本的にボール球にする。
ただ、内角以外が安全かと言えばそうではあるまい。はっきり言ってどこ投げたって太田の球じゃ餌食にされるので、必然的に早いカウントで打たれるだろう。
それを踏まえて初球だが、白須の心理を考えれば、いきなりストレートは危険だろう。
状況はワンアウトで二、三塁。犠牲フライでも一点が入る。この場合の打者の思考といえば、「最低でも外野フライ……」か「心置きなくかっ飛ばせる!」のどっちかであろう。前者なら自分からボールの下を狙ってくれるし、無駄に力んでくれるので、勝手に内野フライを打ってくれる。
しかし白須はどう考えても後者だろう。アマチュアの打者は基本的にストレート狙いの変化球合わせであるが、犠牲フライの場面で「心置きなくかっ飛ばせる!」というタイプは心理的に余裕があるから、最初のストライクくらいは狙いをストレートのみに絞る。そこにまんまとストレートを投げたのでは、外角いっぱいでも完璧に捉えられてしまうだろう。
頭に変化球がない内にカーブでストライクを取り、投手有利のカウントを作っておきたい。
私は太田にカーブのサインを送ると、ミットを低めに構えた。太田は一つうなずくと、セットポジションから白須に対する初球を放った。コースは真ん中。少し低すぎるか。
私は重力で大きく落ちたカーブを、軌道に合わせず、ミットを上げながらキャッチする。際どいが、さて判定は。
「ストライク!」
審判のコールに、白須は目を大きく見開いた。ボールだと思ったのだろう。
その通り、たぶんボールである。つまり誤審であるが、単純に審判の目が悪かったわけではあるまい。
この誤審は私の数少ない取柄の一つと言っていい、キャッチング技術による。つまり自然な動きでのミットずらしだ。ボール一個分くらいなら偽装できる。
練習し始めたころは軌道が読めず、何度も逸らしたし、何度も手首にぶつけた。ときには失投が顔面に当たったこともある。
それでも投手の球を何度も見て、何度も捕って手に入れた、天才であるというだけでは容易に真似できない技術である。
「ナイスピッチ!」
私は太田に声をかけながら、ボールを投げ返す。調子よくストライクが取れた。太田の心理もこれで少しは楽になったはずだ。
二球目。おそらく最も大事なボールはここになる。
私はミットを叩き、「思い切り投げて来い」とジェスチャーをしてから、内角のボールゾーンにストレートを要求した。
これは白須に踏み込ませないための布石である。次の外角の球を、力の入りづらいポイントで打たせるには、ここで白須の胸元にしっかり投げる必要がある。
まあ太田にそこまで細かいコントロールは期待できないが、少なくともストライクゾーンに入れると簡単に飛ばされる。太田には、いっそ当てるぐらいのつもりで腕を振ってほしい。
太田は一瞬不安そうな顔をするも、自分に言い聞かせるように二度うなずいた。セットポジションに入ると、一層緊張した表情でボールを放った。懸命に振り切った腕から離れたボールは一直線に進んでいき。
「うおうっ!?」
白須が奇声を上げながら逃げるように打席で一回転した。太田から放たれたボールはスナイパーの弾丸のように、白須の頭を目がけて飛んで来た。
「だ、大丈夫かい!?」
判定も忘れてうろたえる審判の足元で、私は太田を睨みつけた。白須は打席の外で「あっぶねえ」と、吐きだすようにつぶやいた。
いや当てるつもりでって、本当に当てに行くバカがいるかよ。
まあ軟式だし、太田の球は威力もないので痛くはないかもしれんが。避けてくれたからいいものの、当たってたら危険球退場である。
とはいえ、結果的には最高のボールだったと言える。
私は審判の注意を「はい、すみません」と聞き流しながら、心の中でほくそ笑んだ。
こんなビーンボール見せられて、まさか直後に踏み込む度胸はあるまい。唯一の気がかりは、太田が当ててしまう恐怖に飲み込まれていないかである。これで腕が振れなくなったりされると、今までの布石が全て水泡に帰す。
私はボールを投げ返すと、再び太田を鼓舞するようにミットを叩き、外角低めに構える。太田はこくりとひとつ頷くと、三球目を放った。
甘い。外寄りの真ん中。しかし。
白須のバットがボールを捉えた。しかし腰が引けた格好でのスイング。弱い打球がセカンドの横を抜き、前進守備のセンター、木元の前へ。打球の行方を見守っていた三塁ランナーがスタートの構えを見せた。
「ホーム! ファーストカット!」
私の指示に木元がバックホームをすると、三塁ランナーは自分の塁に戻った。マウンドの近くまで来ていたファーストが送球をカットし、すべてのランナーが塁上に落ち着いた。
奇跡的である。一点は覚悟していたが、まさか止められるとは思わなかった。運がよければセカンドライナーでアウトにできた可能性もある。
いや、あれである。私はこうなることを想定していたのである。すべては私の掌の上だったのだ。一点は仕方ないとか、誰だそんな弱気なこと言ったの。
「御影先輩、すいません……」
ホームのバックアップに入っていた太田が、私の後ろで声をかけた。打たれた、という結果への謝罪か。しかし二、三塁から無失点なら、対白須においては充分な結果だろう。何よりブラッシュボールを恐れずに投げ込み、決め球でもしっかり腕を振り切ったのだから、現状で責められるところはない。
「いや、ナイスピッチだ。腕はよく振れてたぞ」
「……うっす」
太田は小さな声で、照れ隠しのように、あるいは悔しさをにじませるように返事をした。近視眼的で個人主義的。やはり、こいつもピッチャーだった。
その後、なんとかスリーアウトを取って一回裏が終了した。ちなみに二点取られた。白須を無失点のシングルヒットに抑えた後、普通に後続に打たれた。何となく流れが来たかと思ったのだが、なかなか巧いこと行かないものである。
ベンチに戻る前に太田と合流し、声をかける。
「よく投げ切った。これから調子あげてくぞ」
「はい」
太田は真剣な声で答えた。誰だ、お前は。キャラ変わりすぎだろ。
「ナイスピッチ、太田」
ダッシュで戻ってきたひまわりが、追い抜き様に太田の肩を叩き、短い言葉をかけた。
「あ、あざっす、光葉先輩!」
太田は私のときと態度を百八十度変えて、嬉しそうにひまわりの背中に返事をした。キャラは作ってたらしい。
しかしこの態度の変わり様はすごい。
たとえば最初の乱調も、私が怒鳴る前に、ひまわりが一言元気づければ、太田は立ち直っていたように思う。太田にとっては、私の口うるさい助言よりも、ひまわりの短い声の方が、よっぽど力になるのだろう。
昔からそうなのだ。チームの中心には、必ずひまわりがいた。どれだけ私がチームに尽くしても、誰も私を見なかった。いつもひまわりの存在がチームを引っ張った。
それは仕方ないことだと思う。ピッチャーだからという以前に、ひまわりは実力的にも、性格的にも、チームの中心たる当然の存在だった。まさしく「天才」におけるスター性のなせる業であり、私はどうしてもそうはなれない。
要するに、私はそういう星の下に生まれなかったのである。
二回の攻撃は秀也の打席から。秀也は真っ向勝負してきた白須のストレートを捉えてセンター前ヒット。続く五番がバントを決めるも、以降はセカンドフライにキャッチャーフライと奮わず。無得点で終了した。
次いで二回裏の守備では太田も一、二塁とピンチを招きながら、無失点に抑え込んだ。先制して攻撃の手が緩んだのが手伝ってかもしれない。
迎える三回。七イニング制の中盤に差し掛かったこの回は、八番の太田が見逃し三振に倒れ、ついに九番の私に打席が回ってきた。
私はバットを持って打席に入る。ワンアウトランナーなし。三回で二点ビハインド。そろそろ一点でも欲しいところだが、はたして。
マウンド上の白須はひまわりの時と同様、ニヤニヤしながら会釈をしてきた。その下卑た顔には殺意さえ芽生える。野球の試合もそうだが、個人的にボコボコに打ち込んでやりたい。
私が無視してバットを構えると、ボールが投じられた。
「ストライク!」
初球は真ん中低めのストレート。見逃してストライク。
やはり速い。ベンチでもネクストでも思ったが、打席で見るとより速く感じる。
ともあれ、これでワンストライク。投手有利カウントである。次はストライクなら振ろう。
白須にボールが戻り、テンポよく二球目。
「ストライク!」
今度は真ん中、内寄りの高め。振り遅れて空振り。
舐められている。際どいコースを攻める気はないらしい。私はスピードで抑えられるということだ。
まあ、スイングスピードが足りないのは確かである。無駄に神経使ってフォアボールなんて出せばもったいない。楽に抑えられるなら、それに越したことはない。私が攻撃における穴だということは、すでにわかっているらしい。
たしかに速いが、たぶんストレートだけ狙えば、食らいつけると思う。これでもバッティング練習は死ぬ程やってきたのだ。
しかし前に飛ばせるかと言えば別問題である。無理に打ちに行ってファールになればまだいいが、内野ゴロやポップフライになる可能性が高い。カーブを捨てるメリットはない。
ならいっそカーブだけ狙ってみるか。最初からカーブに狙いを絞れば、スピードに翻弄されることもあるまい。二兎を追う者は、という言葉もある。
いや、おそらく私には滅多に来ないか。
いずれにせよ、おそらくボール球はほぼ来ないのだ。積極的に振っていく他ない。
ツーストライクと追い込まれてから、三球目が白須から放たれた。
「ストライク、バッターアウト!」
外角の甘いところにストレートが決まり、私は空振り三振に倒れた。白須のどや顔に拳をぶち込みたい気持ちを抑え込み、私は次のリードのことを考えた。
イニングは次々と進んでいき、試合は小康状態に突入していた。
太田は何度もピンチを背負うが、のらりくらりと潜り抜ける。途中エラーも相まって一失点を喫するが、何とか抑え込んでいる。しかし、スタミナも集中力も限界が見えている。
攻撃も変わらず、フォアボールや単発のヒットは出るが、連打が続かず白須の前に無得点。投手の差もそうだが、守備力の差が如実に現れている。
試合は終盤、五回表。三点ビハインドでノーアウト、ランナー無し。打席はまた九番の私である。白須は相変わらずのにやけ顔でくいっとお辞儀してきた。
打てる気はしない。
前の打席は圧倒的なパワーの差に敗れた。力でねじ伏せられるのに読みも何もあったものではない。
まあ、どうせ際どいボールは来ない。余計なこと考えずに、来た球を振るのが一番マシだろう。ストレート狙いのカーブ合わせで、無駄な足掻きを続けるのみ。もしかしたら失投してデッドボールをぶつけてくれるかもしれん。
私は無心になり、バットを構えた。
しかし、この回でもダメなら残りは六回と七回のみ。たった二イニングで、最低でも三点は取らなくてはいけない。もちろん諦めるわけではないが、勝機は極めて薄いだろう。
当初はロースコアゲーム。ほぼ無失点で抑え、虎の子の一点で勝つことを想定していたはずが、なぜこれほどまでに苦戦を強いられているのだろうか。
考えなくてもわかる。全部ひまわりのせいだ。
「ストライク!」
私は真ん中付近のストレートを空振り、主審がコールした。
ひまわりが万全なら、ひまわりが投げさえすれば、ロブスターズの打線くらい抑えられたはずである。それが守備では私が頭をフル回転させて切り抜け、攻撃では九番の私でも躍起になって打ちに行かなくてはならない。
そりゃ、想定していたことが全部巧く行くわけはない。誰だって突然不調になることはあるし、ひまわりだって打たれるときは打たれるだろう。
万全を期して打たれたのなら、それは仕方ない。運も実力の内であるから、それで負けたのなら実力が足りなかったのだと、府に落とすこともできる。
しかし、ひまわりのあれは自業自得だ。何せ意地を張っているだけなのだから。正義は間違いなく私にある。それで不調になっただの、何だのと言われても、救いようがない。
「ストライク!」
まったくバカな女である。
鶴谷中の三年生たちは幸せだったはずだ。試合に負けたとは言え、大会で勝ち上がれなかったとは言え、最後に涙を流せた彼らは、人生の一つの節目で、自分なりにやり切ったのだから。
ひまわりは、中学最後かもしれないマウンドに、自分のせいで登れないのである。
私とバッテリーを組むのは、最後かもしれないのに。
「ストライク! バッターアウト!」
またあっさりと空振り三振に終わった。私はベンチに引き返しながら、ふと思った。
気づけば私は、ひまわりのことばかり考えていた。
試合はついに、最終七回を迎えた。この回の先頭は八番太田から。九番の私はネクストバッターズサークルで待機となる。
うちのチームは三年が全員スタメンである。なので思い出代打というものは必要ないが、ベストオーダーでも逆転の目は薄い。
今日の試合、太田と私は全打席三振している。太田はピッチングの疲れもたまっているだろうし、私だって期待はできない。順当にツーアウトとなって、木元は一応フォアボールとヒットで出塁しているが、仮に木元が出ても連打はないだろう。
うちは先攻なので、ここで追いつかなければ×ゲーム。七回の守備はなくゲームセット。何より、ベンチのたった一人だって、勝てるとは思っていないだろう。野球は士気のなくなった瞬間に負けるのである。
私はチラッとベンチを振り返る。卒業を控えた三年生たちが涙を浮かべてうつむく中、ひまわりは物悲しいような真顔で、グラウンドを見ていた。
どんな結末であれ、きっと悔いを残さず去って行く同級生たちとは違うその表情は、何を見ているのか。
このまま終われば、守備はない。それと同時に引退も決定し、ひまわりは最後のマウンドに上がることなく、中学三年生を終える。
それがどうした。自業自得だ。
その不幸は自分が招いたもの。代償は自分で受けさせなければ、身にならない。
しかし。しかし。しかし。
しかし……。その先の考えがまとまらない。多くの何かが込み上げてくるようで、吐き気がする。
「しかし」という逆接の中に、私は何を考えているのだろう。私はなぜ、「しかし」といって、思考を続けているのだろう。
ただ、体の底から込み上げてくるものの一つが、涙であることだけはわかった。
「しかし」の先に何を続けたいのかは、わからない。何をしたいのかは、わからない。
ただ、このまま終わるのは、嫌だと思った。
太田が三振に倒れ、私の打順が巡ってきた。私は改めて審判に一礼し、打席に入る。マウンドの白須は少し疲れが見えるが、未だ崩れる気配はない。
私は頬を叩いて、もう一度気合いを入れ直す。「しっ」と小さな声で息を吐きだすと、バットを構えた。
どうせまともに戦って打てるピッチャーではないのだ。なら、打てる球を打つしかない。狙いはカーブ一本である。
しかし変化球狙いでストレートに合わせられるほど、私は器用なバッターではない。それにこれまでスピードに手も足も出なかった私に、そうそう変化球が来るとも思えない。
カーブが来るタイミングを完璧に読み切り、カーブを引き吊り出すまでのストレートは、そうだな。意地と根性で食らいつく。
我ながら論理も何もないが、他にできることはない。あとは反射神経と運否天賦に任せる。
試合には勝てないかもしれない。しかし、ヒットでなくても、フォアボールでもデッドボールでも何でもいい。何が何でも出塁して、ひまわりに私の存在を示す。ひまわりに前を向かせる。もう一度、ひまわりの心に火を点ける。
白須がワインドアップポジションに入り、初球を放った。
「ストライク!」
真ん中付近のボールに振り遅れた。しかし、今の一球で確信した。当てられない球ではない。
スイングはできるだけコンパクトに。もっと速く、もっと速く。
キャッチャーからボールが返り、白須はテンポよく二球目を放る。ほぼ同じところ。
「ファール!」
勢いよく振ったバットがボールを捉えた。スピードと球威に差し込まれ、ボールは流し方向にボテボテと転がった。
当たった。数字は出るが体感速度はそれほどでもない。疲労からか、球速も最初よりずっと落ちてる。
私が今までに見た最高のボールは、こんな程度のものではない。私が何度も捕ってきた、私が何度も戦ってきた彼女のボールは、もっとずっと速かった。
白須は私のファールに驚いた顔をした。私ごときには一球も当てられない自信があったのだろう。
ボールを受け取った白須は、今度は少し間を置いてから三球目を放った。またストレート。しかし。
「ボール」
インハイ、はっきりとしたボール球。コントロールミスか特に根拠のない遊び球か。配球としては完全に無意味なボールだ。
これまで簡単に三球で仕留めてきたのが、ついに四球目を引きだした。おそらく私のバッティングを警戒して、というよりは、疲れを意識しだしたのだと思うが、何だって構わん。
次からは際どいコースを攻めてくるだろう。何せすでに追い込んだ上にボールカウントには余裕がある。それでも私にやれることは一つしかない。ストレートを当て続け、カーブを引きずり出す。
私はもう一度頬を叩き、バットを構え直した。
四球目はアウトコースをファール。五球目はワンバウンドするボール。六球目はインローをファール。七球目も食らいついてファールとなった。
一球一球がギリギリの勝負である。
カウント2‐2、平行カウント。追い込まれてから一度のミスもなくファールにできている。実感はないが、たぶんゾーンとかに入っているのだろう。打ってもファールにしかならないが。
七球の内、カーブは一球もなし。直感的にカーブはタイミングを合わされると考えているのだろう。よっぽどの状況にならなければ、カーブは来ない。
ボールを受け取ると、白須は苦々しそうに奥歯を噛んだ。予想外の粘りにストレスが溜まっているのだろう。前までのヘラヘラした表情はすでにない。
根比べである。どちらが先に力尽きるか、あるいはどちらが先に勝負を焦るか。それが分かれ目となるだろう。
白須はかかとでマウンドを掘って、自分を落ち着かせてから、ワインドアップポジションを取った。小さく息を吐いてから。八球目を投じる。
アウトコース低め、しかしこれは、入るか。
ボールは一直線に、ストライクゾーンの一番遠いところへ向かってきた。コーナーへの絶妙なコントロール。審判によっても判定が変わるくらいの微妙な場所である。
どうする。ツーストライクで賭けるのは危険か。しかしこれがボールなら大きなアドバンテージになる。どうする。
いや、中途半端が一番まずいか。ここはもう審判を騙すくらいのつもりで、思い切って見逃す。
短い間に決断し、私はボールを見逃した。白須は不安そうな顔をしている。判定は。
「ボール」
「よしっ!」
私が小さく声を上げてガッツポーズすると同時に、白須が地面を蹴り上げた。精密に判定すれば、もしかしたらストライクだったのかもしれない。しかし、堂々と見逃したのが判定を助けたことは、確かだろう。
おそらく勝負をかけに行った球。このボールが最も重要だということを、白須もわかっていたはずだ。
次は必ずカーブが来る。それも、かなり甘いコース。
ストレートはことごとくファールにされ、決定的ではない。ならばこれでと勝負に行った球は外れ、カウントもスリーボール。際どいコースはフォアボールの可能性があり、これだけ球数を費やした相手を歩かせるのはプライドが許さない。
ならば、あとはカーブでタイミングを変えるしかない。
カーブ狙いで、もう一球ストレートが来れば、私はきっと手も足も出ない。無惨にも三振に倒れるだろう。
だがしかし、このタイミングでストレートを続ける度胸が、お前にはあるか、白須。
ボールを受け取った白須が、ワインドアップから九球目を放った。
来た、カーブ。真ん中高め。打ちごろ。
私はバットを引き、狙いを定める。焦ってはいけない。充分に引きつけて、しかしポイントは前に置いて。デカいのはいらない。遅れないように、早すぎないように、力いっぱいに叩きつける。
振りぬいたバットはボールの少し上を叩きつけ、強いゴロが三塁線へ飛ぶ。私はバットを放り投げ、猛然とスタートを切った。長打コース。相手のサードはやけくそで横っ飛び。反応は早いが、まともに打球は見えていない、見切り発車みたいなもの。
が、しかし、ボールはたまたまグローブに収まった。
そんな。あんなに頑張ったのに、最後に運に見放されるなんて……。
いや、まだだ。まだボールは生きてる。送球には時間がかかるはず。体勢が崩れるから、そらすかもしれない。とにかく全力で走って、頭からベースに突っ込む。
私は一心にベースを目がけて走り、倒れかかるように一塁ベースに飛び込んだ。サードの送球は狂うことなくファーストミットに入り込んだ。
ファーストの捕球と私のヘッドスライディングは、ほぼ同時だった。いや、ほんの少しだけ、私の方が速かった気がする。
私はヘッドスライディングの体勢のまま、顔を回して一塁審判を見上げた。
「アウト」
非情な判定だった。
私は徐々に息を落ち着かせながら、力尽きたように顔を突っ伏した。起き上がり、投げたバットを拾ってベンチに帰る。
敗北を前にヘッドスライディングで壮絶な憤死を遂げた私の後ろ姿は、相手にどう映っているのだろうか。無様に肩を落とす私の姿は、仲間にどう映っているのだろうか。
あれだけの決意をこめて望んだ打席。あそこまで追い詰めたのに結果がこれとは。
やはり私は、そういう星の下に生まれなかったのである。
「まだ試合は終わってないよ!」
うつむいたまま歩いていると、正面から声が聞こえた。大きく空に響き渡るような、活気のある声。
「声出していこう! まずは一点!」
ひまわりが、ベンチから身を乗り出して叫んでいた。すると、覇気のなかったチームメイトたちが一斉に立ち上がり、ひまわりに続けて声を出し始めた。
「そうだ! まだ終わってねえ!」
「かっ飛ばせ木元!」
「しゃあっ!」
隣から気合いを入れるような大声が聞こえた。木元が頬を叩いてネクストバッターズサークルから出て行った。
「月見」
呆然としたままベンチに戻ると、名前を呼ばれた。盛り上がる他の多くの声がささやかな潮騒のように聞こえ、その声だけがはっきりと耳に届く。
「ナイスガッツ」
まるで空から振ってくるように、声の主はグラウンドを見つめたまま言った。
その言葉で、私はすべてを理解した。いや、理解したというより、認めた。
打席の木元は白須の初球、甘く入ったストレートを打ってセンター返しでつなぐ。マウンドの白須は額の汗を拭いながら、悔しそうに歯噛みする。続く二番が気合いを入れて打席に向かうと、ひまわりはネクストバッターズサークルに入った。
何のために野球をやっているのか。チームのためと言いながら、私は生涯で一度たりとも、チームのために戦ったことなどなかった。
二番がワンストライクからフォアボールを選び、一、二塁。白須はベンチにも聞こえる大声で「くそっ!」と叫んだ。得点圏にランナーを置いて、クリーンナップ。ひまわりが打席に立った。その目にもう曇りはない。一切迷いのない、真剣そのものの表情である。
私は初めてボールを触ったその日から、ひまわりと二人で野球がしたかったのだ。
才能も性格も何もかも違うけれど、ひまわりはずっと私のチームメイトで、ライバルで、憧れの存在で、そして私の親友だった。
快音が響き、誰もが一斉に打球の行方を追った。白球は見事にレフトの頭上を超えると、フェンスにぶつかる。その間に二人のランナーが帰り、打ったバッターは二塁に到達。走者一掃のタイムリーツーベースを放ち、起死回生のチーム初得点をもぎ取って天才は、復活した。
その後、白須がマウンドを降りてライトに入ると、代わり際のピッチャーを秀也が打ってホームラン。奇跡の逆転ツーランホームランで4‐3、勝ち越し。後続は断たれたものの、試合は九回裏に突入した。
「よし、それじゃあピッチャー交代だな」
山際監督が嬉々として立ちあがった。私は素人監督のために諫言する。
「ひまわりはストライク入らないですよ」
「もう大丈夫だろ。光葉は立ち直ってる。俺は野球のことはよく知らないが、それくらいはわかる」
「いや、立ち直ってもフォームはすぐに直らないんですけど」
「光葉のボールを捕るのは嫌か?」
「い、嫌、じゃないですけど……」
「ならいいだろ」
山際監督は勝手にタイムをかけると、勝手に審判に交代を告げた。いや、嫌とかそういう話じゃねえだろ。チームの勝利を考えたらここで危ない橋を渡るより……。
「ま、まあ、仕方ないか。仕方ないな」
代えられちまったもんは仕方ないので。私は仕方なく納得することにした。隣で聞いていた太田がホッとしたような顔で、「ああ、ようやく肩の荷が下りた」などと涙ながらに呟いた。
防具を付けてグラウンドに出て、私はマウンドに向かった。マウンドにはエースの姿があった。
「サイン、覚えてる?」
「うん」
「そうか」
久々の会話でどう話せばいいのかわからず、私はそれだけ話すとキャッチャーボックスに戻って行った。
審判の指示で投球練習を開始。私はひとまず真ん中にミットを構えた。ひまわりがワインドアップで投球を開始して、ボールが放たれる。
乾いた音が響いた。手のひらから骨を伝って心地よい衝撃が走る。
その瞬間、背筋がゾクッとした。ミットを一ミリたりとも動かさず、ふっと気づくともう手元にはボールがある。今までの陰鬱とした何かが抜けていくような、スカッとした気分。
一球で確信した。ひまわりが戻ってきたのだと。
すべてのボールを噛みしめるように投球練習を終え、プレイスタート。この回は二番からの好打順だが、そこらの中学生が、太田の球に慣れ切った目でひまわりの球を追える訳がない。二、三番をあっさりと封じ込め、ツーアウト、ランナーなし。
迎える最終バッター、白須が不敵な表情で打席に立った。笑顔を保っているが、どこか落ち込んでいるようである。逆転の責任を感じているのだろう。
さて、白須の対策はすでに立てている。実行するのは決して簡単ではないが、ひまわりなら、できるはずだ。
そのために、まずツーストライクまで追い込まなくてはいけない。初球は慎重に行くべきか。いや、あるいはいっそ、落ち込んでいるところに力を見せつけて、一気に心を砕いてやるか。
私はストレートのサインを出すと、あえてスイングを誘うように、内角にミットを構える。ひまわりは何の反抗もなく了承すると、初球を投じた。
「ストライク!」
白須が振り遅れて空振り、審判の判定が聞こえた。よし、まずはワンストライク。さらに白須からすれば、数少ない絶好球を逃したことになる。精神へのダメージは大きいはず……。
「面白れえ。そう来なくちゃ」
しかし私は、白須のその小さく力強いつぶやきを聞き逃さなかった。白須は威嚇するように歯を食いしばり、ニッと口角を上げた。しまった、逆に火を点けてしまったらしい。思えば白須はずっと、ひまわりと戦いたがっていた。
二球目、今度はしっかり弱点を突こうと、私は高めにストレートを要求する。ひまわりが頷いて、投球。
「ストライク!」
白須はヒッチするスイングで、また空振りした。しかもそのスイングは、先ほどよりも鋭く速く、豪快だった。ホームランを狙っているらしい。
打てなければ負けという場面でするスイングじゃない。普通ならまずはヒット、という状況である。マンガじゃあるまいし、それでも目先の勝負にこだわるか。ピッチャーとはどうしてこう、どいつもこいつも自分勝手な連中ばかりなのだろう。
しかし今は、そんな彼らの姿が、少しうらやましくも思えた。
さて、これで追い込んだ。あと一球。この決め球さえ投げ切れれば、きっと勝てるはずである。私は恐る恐る指を動かして、最後のボールのサインを送る。あのとき首を振られたカーブである。
ひまわりは迷いなく頷くと、すぐに投球モーションに入った。小学生のころから一緒に開発して、一緒に完成させた投球フォーム。一つ一つの動きを確認するように、ゆっくりと紡いでいき、ついに投球される。
低いリリースポイントが一瞬まっすぐのように錯覚させ、白須がすぐさまスイングを開始。しかしボールは指を離れた瞬間から変化している。期待通りの投球。ひまわりは私の考えた通りの、最高のボールを投げてくれた。あとは、私がそらさず受け止めるだけ。
私はベースの真上でバウンドしたボールを、覆いかぶさるようにして落とす。
「ストライク!」
ストライクコールを聞きながらボールを拾い上げ、白須の様子を確認する。振り逃げが成立する場面だが、白須は悔しそうに天を仰いでいた。
私は白須の肩に、慰めるようにポンとミットを当てた。
「アウト!」
最後のアウトが宣告され、試合が終わった。
さて、これで我が新青葉中は、ついに全国大会への切符を手に入れた。ともに戦ったチームメイトたちと喜びを分かち合わなければならない。集まるのはもちろん、グラウンドの中心、チームの中心、ピッチャーのもとである。
私はマスクを剥ぎ取り、マウンドに向けて歩きだしたところで。
「つっ!?」
しかし、何かが正面から激しくぶつかり、後ろに倒れそうになったところを優しく抱き止められる。私は一瞬何が起こったか理解できず、困惑しながら状況を確かめた。
ひまわりがわんわん泣きながら、私を抱きしめていた。
「は?」
私は意味がわからず、唖然とした。力が抜けてマスクを落とした。ひまわりの肩越しに、駆け寄ろうとして固まっているチームメイトたちの姿が見える。
同じく唖然としていたらしい審判がようやく我に返り、注意する。
「ちょ、ちょっと君たち」
「いいんじゃないですか? 少しくらい」
「え? あ、ああ。……え?」
何かを悟ったらしい白須の言葉に、審判は意味がわからないまま、また唖然とした。
「ごめん。ごめんなさい。ごめん」
涙ながらに、一心に紡ぐその言葉で、私はわかった。お互い言いだせなかった理由はこれである。
言葉とは、きっと口で言うだけではないのだろう。私たちは今まで、ずっとずっと口以外で話してきた。その日の気分も、体調も、ひょっとするとその日に何があったのかさえ、私たちは言わなくても話してきた。
私たちは、ずっと野球を言葉として話してきたのだ。
ボールの行き来が私たちの会話だった。そのやり取りを中断すれば、そりゃあ話がかみ合わなくて当然である。
それでも、やっぱり元からコミュ力のあるひまわりは、こうやって自分の言葉で話せる。しかし口下手な私は、どうやっても野球以外でコミュニケーションが取れないらしい。
「整列だ、バカ」
私は背の高いひまわりの頭を抱き寄せた。




