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ミリオタ雑記あれこれ  作者: きらと
日本の戦いあれこれ
13/16

前の戦争に負けた日本陸軍はマジキチですか?

はじめに


 世間的に見て21ヶ条を主張する日本は厚かましくマジキチだった。その内容で気になったのは1923年満期の関東州租借を99年延長(1997年返却)、南満州鉄道と安奉線の期限を99年延長(2002年、2007年にそれぞれ還附)で植民地や海外州として搾取する気が満々だった。日本人の満蒙における生存権云々は、「お前、中国人でもないのに何をくれくれと請求してるの? ここは日本ではなく中国だよ。出ていってね」と言う事で、現在の日本でも似た問題を抱えている。立場を逆にすると、いかに図々しい輩だったか分かる。

 どうのこうの言っても「日本は戦争に負けた」これは変わらない。中国には負けていないとか、海軍が悪いとか、遺族の気持ち、倫理観、そんな事はどうでも良い。博愛多いに結構。ただしそれを論じる気はない。

 ミリタリーオタクの端くれとして、戦争ゲームの様に戦術を楽しむ事が今回の目的である。戦争は面白くて軍隊や装備は格好良い! たくさん敵を殺せば英雄だ。趣味の世界でそれ以上の言葉は必要でない。ゲルググを見て人殺しの道具、ゴジラは大量虐殺者とか言われても萎えるだけだ。

 今回、お手本にするのはマジキチの代名詞、無敵皇軍(笑)の日本陸軍。

 旧日本陸軍の作戦要務令は市販されているし、古書でも手に入りやすいが面白くない。面白さを求めるなら上田信のイラスト入りの「コンバットバイブル」を読んでいた方がマシだとも考えられる。しかし軍事用語の基礎は旧日本陸軍で完成形となっている。ここをスルーしていてはお話にならない。

 国内最新である自衛隊の教範は「部内専用」であると言う事でオタク向けに売ってはいない。昔はネットオークションやamazon等で転売されていたが、今は元自衛官とかが古本屋に売った物を探すしかないだろう。諦めて米軍か旧日本陸軍の教範を探した方が手っ取り早い。と言う事でミリタリーオタクで戦術の検証が趣味とか騙るなら、旧日本陸軍関連にもさらっと目を通しておいて損はない。負けたと言っても、明治から昭和に至る戦訓に基づいた教範は読み応えがある。ただし、軍機で部隊名を伏せられている事が多いため、戦史として考証するなら複数を読み比べないと、例えば江橋鎮の攻略に参加していた第11師団の事だ、等と正確に理解する事は難しい。



1.戦争は難しいの?:始めるのは簡単。ボスニアのサラエボではマジキチな鉄砲玉が「オーストリア皇太子の玉取ったるどぉ!」とやっちゃって世界大戦になった。小説のオチと同じで終わらせ方(勝ち方)が難しい。

 現在、満州事変は日本の侵略戦争と規定されている。当時、租借地として大陸に進出していた日本は「満蒙は日本の生命線」等と呼んでおり、多額の投資を行っていた。満蒙の利権に日本が固執するほど、現地人は反発し反日運動が発生した。日本はこれを匪賊と呼称し在留邦人保護を名目に派兵した。自国内に外国軍隊が駐屯し我が物顔で横行していれば不満に思うのも当然で、日中関係は急速に悪化の一途を辿った。

 軍国主義時代の日本国民は国や軍の行動を肯定し、他国を侵略していると言う自覚すらなかった。一方、国の意思決定に携わる政治家や軍人が居直ったのは罪である。

 昭和6年(1931年)9月18日、虎石臺(こせきだい)に分屯する独立守備歩兵第2大隊第3中隊は夜間演習中だった。2200、北大營(ペイターイン)南方の線路が爆破され、犯人らしき人影を北大營方面に追跡してるとコーリャン畑から2~3個中隊規模の射撃を受けた。大隊に報告すると3中隊は、野田少尉の小隊に敵の退路遮断を命じ、中隊主力は北大營西北に突入し、大隊の到着を待った。

 大隊長島本中佐は大隊本部、第1中隊、第4中隊を応援に出発させた。第2中隊は準備が遅れ、後から残敵掃討に参加した。

 北大營の戦闘は概ね0530頃に終了、我が軍の損害は戦死2、負傷23。対して敵は320の死体を遺棄していった。0015、奉天より北にある長春の在留邦人を守る長谷部少将にも日支軍隊衝突の報告が入った。この時、長谷部少将の手元には歩兵第4聯隊の2個大隊と独立守備隊の1個中隊があった。対して敵は長春市街に2個歩兵大隊(1,000人)、長春の北2Kmの寛城に歩兵600人、 長春市街南方4Kmの南嶺に1個歩兵聯隊(2,300人)、1個砲兵聯隊(1,300人、火砲36門)を展開させていた。

「準備だけしておけ」と言われたのに長谷部少将は「奉天では戦闘が始まってるし、先に潰すべきだよね」と考えた。敵の歩兵は何とかなる。問題は砲兵と言う訳で、第2大隊長黒石少佐は第5、第6中隊(200名)を率いて南嶺(なんれい)の敵砲兵第1大隊を攻撃、火砲16門を破壊した。引き続き第2大隊を撃破すべく進軍するが、数で勝る敵の頑強な抵抗に遭遇。膠着した時に公主嶺駐屯の独立守備隊(大隊長小河原中佐)から倉本中尉の中隊が来援し撃滅した。

 こんな感じで始まった満州事変だが、日本帝国陸軍は13万人を動員、17,000人が戦死した。

 日本軍は無敵で中国軍は弱かったと言う風聞だが、支那事変では90万人を動員し191,000人が戦死している。さらに対英米蘭戦の始まった昭和16年12月の時点で、中国・満州に125万人の兵員、馬匹28万頭の戦力を拘束されていた。もし本当に無敵皇軍だったのならば100万以上も兵力を投入して、中国を降伏させらなかったのは何なのかと言う事に成る。

「幼稚なる後進国が先進国に模擬するは進化の一手段にして大に必要なるべし」と明治の人も言っており、日本陸軍は諸外国に学び戦争ができる軍隊になっていった。その課程で、古今東西の戦史、教範類も研究された。一方で「我等の日本陸軍」では『日本陸軍はこれまで一度も負けたことの無い軍隊です』と記載されており、世間的には無敵皇軍と盲信されていたのも事実だ。結果的に過信して敵を過小評価すると惨めな目に遭う。


(ア)外線作戦と内線作戦


 あるところにヒノモト王国と言う国がありました。即位したばかりの王様が大臣を呼んで尋ねました。

「外線作戦と内線作戦ってなんじゃ?」

「おお、我が王よ! 今さらなんちゅー事をお聞きになるんですか。最近の中学生ミリオタでも知っていますぞ。なんと嘆かわしい」

「いや、わし女の子にしか興味ないから。戦争はお前らの仕事」

「だまらっしゃい! 先王も草葉の陰で嘆いておりますぞ」

 大臣はしかたなく説明します。

「手っ取り早く説明しますと、外線作戦はヒノモト王国軍が大アルニダー帝国に攻め込んで相手軍を包囲、または挟撃出来る状態です。弱点としては、こちらが各個撃破されるかもしれない事です。内線作戦はその逆で、こっちがフルボッコされそうな状態ですが、うまくすれば相手を各個撃破できます」

「あらまあ、なんだか難しいね」

 攻めるにしろ、攻められるにしろ相手が居なければ戦争は始まりません。面白くありません。そんな時はシミュレーションゲームです!


 古代ギリシャのファランクスは、ギリシャの山岳地帯における内線作戦に合わせて産み出された陣形だ。側面は脆いが、山岳地域の走破は難しく迂回による側面や後背が突かれる事は想定の必要さえなかった。

 古代の戦争は武器が剣や槍、弓程度で、歩くか騎乗するしか移動手段は無かったから、ファランクスは利にかなっていた。だが現代はヘリコプターや車両で移動が出来る。

 2002年3月1日から16日にかけてアフガニスタンでタリバン掃討の為に実施されたOperation Anacondaは、Combined Forces Land Component Command(CFLCC)の指揮下で、Combined Joint Task Force (CJTF)Mountainが設置された。この作戦には第10山岳師団、第101空挺師団の3個歩兵大隊と特殊部隊からなる兵員1,700名の米軍がShahi-Kot Valleyに投入されたがさすがにファランクスは組んでいなかった。火器の発達は兵員の削減に貢献している。

 ナポレオンの得意とした分進合撃は縦隊による機動性があっての物で、外線作戦で効果を発揮した。もっともナポレオンもクラウゼヴィッツさんも外線作戦は否定していた。

 防御戦闘に限れば、ナポレオンが酷評したフレデリック大王の横隊でも効果はある。アフガニスタンで孤立したアメリカ軍の行った戦闘行動も、意図はしてないだろうが古典的な横隊の応用例だった。フレデリック大王の横隊は小銃兵の間に砲兵配置し、両翼に騎兵を配置した。アメリカ軍はHMMWVに車載した機関銃、TOW、グレネードランチャーを要所に配置する事で、歩兵を支援した。

 戦術は地形に応じて変化する。それが当然だ。

 ナポレオン自身は戦力の分散を嫌っていた。2個の部隊で1個半の部隊を攻撃する時、2個の部隊は1個+1個でしかなく、機動している部隊は戦場の外でしかないと言う考え方であった。


(イ)大規模な会戦こそ戦の華?


 会戦は決戦の要素を多分に含んでいる。その目的は敵軍を撃破殲滅する事で、戦争の主導権を握ることだ。戦国時代の合戦でも多い野戦だ。魚鱗や鶴翼の陣形にしても後続する部隊や隣接する部隊に敵の側面を突かせる事を想定した隊形だ。中国軍と戦った日本陸軍は退路に部隊を配置し捕捉殲滅するには、二重、三重の包囲を行わなくては取り逃がすと言う事を学んでいた。

 ローマ軍団を初め、古代中国や中世ヨーロッパの軍隊は側面に騎兵を配置する事が多かった。

 かの皇帝ナポレオンも決戦を求め、兵は機動力の高さで勝利を重ねた。迂回機動の成功例であるウルム会戦後に「僕は行軍だけで敵を撃ち破ったんだよ」と言っている。

 当時、フランスは英本土侵攻作戦の為、17万の兵を用意し、15万を国土防衛に用意していた。総兵力40万の内30万が即応出来る体制だった。これに対してアンチ・ナポレオンのカルル親王が兵9万でイタリアを脅かし、フェルディナンド大公が兵8万で南ドイツを防衛する計画だった。ところがフェルディナンド大公の参謀長マック大将は「喧嘩は守ってたらあかん。いてこましたれ!」と言う事で、兵6万を率いてウルムを占領した。これを受けてナポレオンもランヌ、ミシェル・ネイ、スール、ダヴー、ミュラー、マルモン、ベルナドット、オージロー、マッセナンと言った諸将と23万の兵を率いて出撃した。およそ3倍の戦力があれば正面で拘束しながら迂回できたのも当然である。

 日露戦役の奉天会戦は後続部隊の投入による包囲で、日支事変の徐州会戦は分進合撃である。

 ちなみに旧日本陸軍の歩兵は1分間に86m、騎兵で100m(諸兵科連合で1時間4Km、自動車化部隊で1時間12~20Km)行軍すると計算されていた。※行進速度と距離は徒歩部隊に限れば自衛隊に成ったからと超人に成るわけではない。自動車化部隊や装甲車化部隊は若干向上している。

 昭和12年9月12日から19日にかけて永定河南岸において第14師団の遠山部隊(歩兵第50聯隊)、坂西部隊(歩兵第59聯隊)、石黒部隊(歩兵第2聯隊)、森田部隊(歩兵第15聯隊)を並列配置した日本軍は、9月14日に拒馬河で中央突破を行った。敵の第一線は正面幅80Kmで、約6個師団が展開し半永久的な陣地(トーチカ)を構築していた。これに対して砲兵の援護だけで坂西、森田、石黒の中央部隊が前進し、左翼と連繋して包囲を実行した。この会戦で日本軍は、敵の弱点に指向して火力を集中すれば突破できると結論を出している。

 この後、第14師団は引き続き南下し、保定を第6師団と共に包囲する。保定は左を山、右を湿地に挟まれた要害であった。日本軍は森田、坂西、石黒が保定の左翼を叩き、第6師団の岡本部隊(歩兵第13聯隊)、安田部隊が保定の正面から、長谷川部隊(歩兵第47聯隊)が保定の右翼を叩く形となった。砲兵の援護で前進した日本軍は中国軍を撃破、追跡し戦果拡張を行った。

 だが昨今の戦争では正面決戦を避ける事が多い。結局は勝てば良いので、ナポレオンの大陸軍がロシア遠征で味わった焦土作戦やベトナム戦におけるVCによるゲリラ戦は会戦の回避と言える。相手の土俵に上がらなかった弱者の頭を使った勝利と言える。

 冷戦時代は通常兵器の量で優るソ連とそのお友だちが、アメリカのお友だち(NATOとか日本とか)に喧嘩をしかけてくるかも知れないと言う脅威があった。大規模な会戦の舞台はドイツ本土が舞台になる。しかしまともにぶつかっては消耗戦で負けてしまう。アメリカ君はドイツさんに学び、ロシア人をぶちのめすには斬減作戦しかないと言う事で遭遇戦はともかく自分から進んでの会戦は避けた。



(ウ)指揮系統


 異なる指揮系統の指揮官同士が協同作戦を行う場合は、連絡を密にするのは当然。それ以外に上級指揮官を決めて置く、と昔の人は言っている。

 マルビナス諸島をアルゼンチンが奪還した時、イギリスは海を渡って侵攻部隊を送り込んだ。確かに上級司令部は存在したが司令部は遠く離れたイギリス本土で、現場の指揮系統は統一されていなかった。機動部隊の指揮官は制空権の確保と上陸部隊の護衛任務を与えられていた。陸戦に関しては当初、海兵隊に指揮権があり陸軍は後詰めだった。この件で機動部隊指揮官がなんやかんやと責められたが、責任転嫁に過ぎない。

 現場の指揮系統は明確にされねばならない。



(エ)作戦を立ててみよう


 1.まずは部隊の名称からタイトルを付ける。小説家になろう風なら「ニート遊撃隊命令」「チート勇者支隊命令」とかそんな感じだ。2.命令の受ける側に必要な敵軍、友軍の状況。3.指揮官である自分の企図する所、4.軍隊区分、各部隊の任務。特に任務は明確で適切に指示しなけれならない。「山田、ニンジン切って」と言うのは良いが、「どのタイミングで、どんな形か」はっきりしないと動けない。5.その他色々。


 戦場を想定する場合、アメリカ第7艦隊が居るから、日米同盟があるから敵は侵攻できない。日本の海空自衛隊は水際で阻止する為に陸上戦闘の想定事態が無駄だという意見を耳にする事がある。戦場は、自国の事情に関係なく国際情勢に巻き込まれて発生する。例えば朝鮮半島の現地住民は残念無念な民族である。大陸に突き出た半島であるために、日本から見れば大陸進出の足場になり得た。

 日露戦役は満州・朝鮮半島を緩衝地帯にしましょうという日本側の提案を、ロシアのハローゼン公使が小村外務大臣に断った事で拗れた。かくして朝鮮民族とは関係無しに日露は朝鮮を舞台に激突したのである。戦場は住民を考慮する訳ではない。

 ではここで九州を舞台に戦争ゲームをしてみようと思う。元ネタにしたのは旧日本陸軍の教範だが弄くってある。旧日本陸軍の略語については現代の頭で考えると誤訳するので、リセットして考える必要がある。参考までに一例をあげると以下の通り。


F:敵軍

A:軍、または砲兵。ⅠA(※1Aではない)は野砲兵第1大隊で、師団左翼隊にA一中と記載されていれば、それは軍ではなく野砲兵1個中隊の配属と常識的に判断できる。大抵の場合、砲兵の記号も併記されている。BAs一中は山砲聯隊1個中隊。SA一中は野戦重砲聯隊1個中隊。

Bst:中隊段列。Rstは聯隊段列。

1D:第1師団、Dは師団。

K:騎兵。K三中は騎兵3個中隊、KAは騎兵砲。

DK:師団騎兵。

DKK:騎兵集団。日清、日露の戦争や第一次世界大戦でもなければ出てこない。

i:歩兵。i一大は歩兵1個大隊。

8iB:歩兵第8旅団。

1iB(-2i):歩兵第1旅団(歩兵第2聯隊欠)。

Ⅲ/8i:歩兵第8聯隊第3大隊。Rは聯隊だが省略される事が多い。

9/3i:歩兵第3聯隊第9中隊。

Ⅲ(-9):第3大隊(第9中隊欠)。

9/2A:第2砲兵聯隊第9中隊。

TK二大:戦車2個大隊。

1FL:第1師団野戦病院。

P(一小):工兵(1個小隊)。

1/3S:衛生隊1/3個 。

T:輜重兵。

FS:ファイブスター……ではなくて電話隊。FTは野戦電信隊。

MG:機関銃。

MW:迫撃砲。


 これらは一例に過ぎないが、大隊はローマ数字とか、歩兵第2聯隊第3、第4中隊は3.4/2iとか法則があって、NATO基準に慣れたら現代人にとって旧日本陸軍そのままだと難解過ぎる。と言う事で、陸自教範の丸写しはダメなので弄っている。ちなみに旧日本陸軍では隊標隊号と言い、同じ様に敵を赤色、味方を青色で表記するが、もちろんオーバーレイは使わない。

 軍隊が部隊の規模を表すSymbolが存在する。陸上自衛隊では部隊符号と呼び、旧日本陸軍では軍隊符号と呼ばれた物だ。WW2でのドイツ軍好きなら装甲師団の編成等、簡単に読めるだろう。だが2015年現在のNATO軍準拠で読むならAAP-6は最低限度必要な知識となる。これは改訂を重ねられており、1985年の物より分類が増えている。1950年の物は完全に別物である。


     †


 一罰百戒と言う言葉がある。一人、ぶん殴れば見せしめには十分で躾られると言う意味だ。

 ウリナラ半島の南北融和と統一は、冷戦構造の崩壊と民族主義の嵐をもたらした。

 この段階でヒノモト王国は大アルニダー帝国の意図に気付くべきであった。

 南北統一でウリナラ半島には陸軍だけでも南北合わせて100万名以上が存在し、改編と縮小が行われた。この過程で行われた大アルニダー帝国陸軍の大規模な配置転換を異常とは捉えられなかった。

 全ては対ヒノモト王国戦争計画の流れだった。

 国定教科書が反ヒノモト王国一色で埋まった2015年8月、昨夜の台風で少なからぬ被害を受けた北九州福岡市に爆音が鳴り轟いていた。大アルニダー帝国軍による航空攻撃だ。唖然と口を開ける人々の頭上を編隊が通過して行く。

 航空自衛軍の基地は特殊部隊に攻撃され迎撃に飛び立てなかった。

 哨戒中だったF-15DJはF-16Kアルニダー・ファルコンに空対空誘導キムチ弾をぶつけられキムチ汁によって撃墜された。

 陸上自衛軍にはヘリコプターもあるが戦闘機相手では的でしかない。対抗手段は高射特科のみで数さえ揃っていない。

 奇襲を受けて敵の航空優勢と言う不利な戦局の中、西部方面軍は大アルニダー帝国軍の上陸に備えて北九州に部隊の集結命令を出した。本州からの応援を待って反撃に出ると言うのが事前の計画であった。

 九州の主要部隊は第4師団、第8師団と方面隊直轄部隊。これに対して大アルニダー帝国軍は艦砲射撃でこれから上陸します、と言うスタイルではなく、特殊戦司令部隷下の第707特殊任務大隊や特殊部隊旅団、海軍特殊戦戦団(UDT/SEAL)を事前に分散浸透させ後方攪乱を行わせた。さらに加えて空爆で粗方の駐屯地や基地施設を破壊した。大アルニダー帝国軍は夜間飛行を控え、日没と共にその日の戦闘が終わった。

 ヒノモト列島は起伏に富んでおり、平野部よりも山地が多い。外国軍の侵攻があったとしても遅滞行動で持久戦を行う事が可能だと考えられた。そもそも海と空で防ぐから戦車は不要だ、とまで考えられていた。

 だが自衛軍は後手に回り、開戦1日目の空爆によって九州北部に展開していた部隊の損耗率は40パーセントを超えた。

 第2日目。橘湾に侵入した第1海兵師団を尖兵に堂々と千々浜海水浴場に上陸を開始した大アルニダー帝国軍は、味方の航空優勢で翌日までにヒノモト王国民の血で染まった橋頭堡を確保した。

 第1海兵師団は第2、第3、第7の3個海兵連隊を中核にK55SPH(M109自走榴弾砲)KH179(155ミリ榴弾砲)装備の砲兵連隊、K1戦車装備の戦車大隊、KAAV7A1装備の水陸両用大隊、偵察、工兵、支援の各大隊で構成されており、単独で第4師団を排除する火力を有していた。

 大アルニダー帝国軍は橋頭堡確保後の第1波として第1軍団から第1歩兵師団、第9歩兵師団を中核に第2機甲旅団、第1工兵旅団、第1砲兵旅団、第101通信旅団等からの増強を加えて長崎県に投入した。

 市内から逃げ遅れた非戦闘員の激辛料理を食わされる叫び声が銃声と共に響く中で、第3日目。敵橋頭堡に対して陸上自衛軍は大村市の第16普通科連隊と佐世保市から駆けつけた西方普通科連隊の増援を受けて最初の攻勢をかけたが、敵の近接航空支援によって守勢に回ってしまう。

 戦闘終了後の夕方、中川浩二3等陸曹は部下の班員と共に撤退していた。

 地獄の業火から生き残った班員は3名。高機動車で北に逃げている。ハンドルを握る田口光雄陸士長は自教でMOS取ったばかりだった。放棄された高機動車が動くと言う事でドライバーを任されている。

「田口は佐賀県出身だったな」

「はい武雄市です」

 少なくとも自衛軍の駐屯地や戦場からは離れている。家族の無事は信じられた。

「ここはやばい。ともかく駐屯地まで戻るぞ」

「了解です」

 結局、駐屯地は放棄し長崎県の部隊は佐賀県に引き上げるよう命令が出た為、佐世保から後退する5曹教や教育大隊の面子と合流した。油断せず周囲を警戒しながら撤退する中川3曹達は、春日市から駆けつけた第19普通科連隊の斥候班と合流する。


     †


 小説パートを終えて状況を説明するとこのようになる。


敵

(a)敵は長崎を制圧。敵が動員できる兵力は概ね10個師団以内、航空兵力は味方より優勢。

(b)1個師団が南下し熊本に進出中。

(c)戦車を含む機械化部隊が本日夕方、佐賀県に侵攻、状況は不明。


味方

 我が軍は九州北部の防衛を目的としている。

 なお道路、橋梁に対する空爆やゲリコマの活動は無く移動に支障はない。戦闘地域の住民避難は自治体と行政の協力により完了済み。


配属部隊及び関係部隊

 第4師団(-):残存戦力は佐賀に集結中

 第8師団(4個普通科連隊基幹):熊本に集結中

 西武方面特科隊:佐賀に展開中

 第3高射特科群:佐賀に展開中

 第8戦闘団(第8普通科連隊基幹):佐賀に移動予定

 第17戦闘団(第17普通科連隊基幹):佐賀に移動中

 この他、通信、施設、輸送の増援と航空自衛隊の支援がある。


 九州が戦場になるなんてナンセンスだという意見があるかもしれない。マブラヴやガンパレードマーチの様な人類対怪物の設定は突飛だが、国土が戦場になる可能性は否定できない。

 1757年、フリードリヒ大王は戦力の2/3を失い危機に瀕していた。1758年、ドーン大将の第1軍(64個歩兵大隊、45個選抜兵中隊、17個騎兵聯隊)、バセニー大将の第2軍(35個歩兵大隊、28個選抜兵中隊、48個騎兵中隊)、ナダスチー将軍の第3軍(6個歩兵大隊、4個選抜兵中隊、24個騎兵中隊)の他に軽装部隊(イタリア、ギスニア、ダルマチャ、チロル人等60,000人)等の兵力が迫りつつあった。

 敵はこちらの事情を気になどしない。むしろ弱点を突いてくると言う訳だ。なにしろ大王自身も、1740年にシュレージェンに侵攻している。自国の都合による侵略だ。一方で、モルヴィツの戦いは大王の立場からすると「ゆっくりできないオーストリアのババアが攻めてきた」と言う被害者意識であったかもしれない。

 彼我の状況と言う材料は揃った。ここから何をするのか考えてみたい。

 任務分析を行い、構想、指導要領や各部隊の任務を決定する。※今回のゲームでは兵站、人事、指揮、通信は割愛する。

 まず敵情分析して見る。少なくとも熊本に敵が進出して佐賀県の敵が不明と言う事は分かる。これを深読みすると佐賀から熊本に転進してるかもしれない。あるいは熊本に合わせて同時攻撃をしかけてくるかもしれない。安易に「各個撃破出来る」と考えるなよ、と昔の人が教えてくれている。敵の装備や錬度も知りたい所だ。

※大陸で旧日本陸軍が戦っていた頃の相手は弱いと言うイメージだが、日本陸軍は冷静に分析していた。上海事変で敵はソ連の軍事顧問の指導を受けており、天然の地形(クリーク)を利用して野戦築城を行っていた。さらに日本軍よりも優れたチェコ、ベルギー、オーストリア、ドイツ、アメリカと言った欧米の火器を装備していた。機械化や火力の増強は今も昔も宿願だが、明らかに日本が劣性だった。さらに地雷も頻繁に利用されていた。

 地形の判断だが、九州の地形や道路事情で考えねばならない。戦前以上に日本の国土は開発され、都市部に限れば過密しており攻めるには向いていない。と言っても守る側にしてみれば国民の財産であり制約も多い。お互いが演習場で戦う訳でもないので、民家を巻き添えにする事は避けられない。道路事情が発達していると言うことは、通れる道が多いと言うことで、守らなければならない場所も増える。

 ゲームを進める上での初期配置によっては苦境に立たされる場合もある。敵情を確認する事が大切だ。

 騎兵の活躍した最後の時代とも言える日露戦役。明治37年当時、日本の調査でロシア軍は、170個歩兵大隊(1,670,000人)、1485個騎兵・驃騎兵中隊(172,000人)、700個砲兵大隊(167,000人)、220個工兵中隊(57,000人)を動員可能と目されていた。対する日本陸軍は、現役の他に予備役、後備役を動員して13個師団、2個騎兵旅団、2個砲兵旅団を編成した。最終的に新設師団、後備師団、後備旅団の編成、臨時特設部隊の増設で1,088,996人に達した。この内、999,868人が外地に送られた。


(オ)偵察ってどうやるの?


 陸自の偵察小隊、司令部付隊と旧日本陸軍の捜索隊とは少々異なる。捜索隊の編組は1個騎兵中隊又は戦車中隊(装甲車)に、所要に応じて普通科、特科、施設、通信が配属される。

 徒歩斥候は定番だが「敵情がわかんねえ」となると「攻撃による捜索」がある。一部の兵力で攻撃し抵抗の強弱によって敵情を調べる威力偵察だ。戦闘の報告は1.敵の兵力、装備、行動、2.彼我の損害、3.残った弾、燃料とかの数となっている。戦闘詳細報告だとこれに+αで気象とか色々増える。

 この他に捕虜から所属部隊、任務、編成、装備、最近受けた命令、他の部隊はどうしてるのか、「最近の調子どうよ。給料ちゃんと貰ってる?」「疲れてないか」「萌えアニメは好き?」等と聞くことは幾らでもある。


     †


 太陽がじりじりと照りつける暑い昼間は外に出たくはないが、攻めてくる敵にとって季節は関係無かった。

「豚足、豚足」

 アルニダー兵が捕らえた市民を肥溜めに突き落として笑い声をあげていた。頭まで沈められて文字通り糞まみれだ。

「調子に乗りやがって……」

 物陰からその様子を監視しているのは自衛軍の兵士だ。第19普通科連隊に編入された中川3曹は本部管理中隊情報小隊に配属された。北から第40普通科連隊、第19普通科連隊、第41普通科連隊を並列、伊万里~武雄~嬉野を結ぶ線をFEBAとして陣地防御し敵の襲来に備えていた。西九州自動車道と長崎自動車道の交差する武雄ジャンクションは交通の要所と言える。中川3曹の指揮する斥候班は偵察に来ていた。

(助けられなくてすまん)

 市民の避難は完了していると聞いていたが、実際はかなりの人数が取り残されていた。しかし威力偵察でも無ければ斥候班が積極的な攻撃を行う事は無い。

 中川3曹は部下を促し、近くの中学校を目指し移動した。

 大規模災害等で学校は避難場所になる。だが現状から考えて、中学校は敵に制圧された可能性は高い。寺の裏山を登り監測所として学校の様子を確認した。

 学校の運動場には戦車や装甲車、トラックと言った車輌が駐車し、天幕が並んでいた。四隅にはL-90と同じ35mm機関砲が配置されていた。プールサイドでは若い女性を侍らせてバーベキューをやっている。前線が近いにもかかわらず余裕を見せていた。

 中川3曹は通信帳にメモのペンを走らせながら、敵の配置に漏れがないよう確認する。


     †


 てな感じで、普通は戦闘を回避するのが偵察の仕事。集められた情報が師団長や連隊長の決心、判断に繋がる。戦局の判断について旧日本陸軍第106師団長中井良太郎中将は(1)戦史(2)戦理(3)現況を上げている。戦略、戦術を知らないのは基礎を知らずに囲碁をするような物で、戦史戦理を勉強しなさいよと述べている。

 旧日本陸軍は騎兵をこよなく愛した。騎兵は第一に斥候の任務を持つ。そして追撃や迂回攻撃に活用された。師団騎兵(師団に1個騎兵聯隊)、旅団騎兵(騎兵旅団に2個騎兵聯隊)として運用され、時代の変化に伴い機械化され装甲車も配備される様になる。

 1870年、独仏戦争時のフランス陸軍は胸甲騎兵、槍騎兵、竜騎兵、猟騎兵、驃騎兵、カラビニエ聯隊等の騎兵252個中隊が動員された。こうなると、ただの偵察ではなく立派な衝撃力だ。ナポレオンの時代、フランス大陸軍で騎兵は騎兵集団として運用された。それよりも古いフリードリヒ大王の時代は、最大単位は中隊単位で運用された。1741年のモルヴィッツ会戦でプロシアのフリードリヒ大王は、オーストリア軍の侵攻企図を察知するや、4月5日にはノイシュタットに軍勢を集結させ、8日にはナイス河を渡り迎撃に向かった。強風と大雪が積もり進軍は困難を極めたが10日には天候が回復、27個歩兵大隊と32個騎兵中隊を5列縦隊の隊形に組み直し行軍させた。この戦いで大王は驃騎兵を斥候に放っている。


2.戦闘についてあれこれ:火器や車両と言った機材の性能が向上して、陸上自衛隊が旧日本陸軍より火力や機動力で勝っていると言っても、比例するように敵の戦力も向上している。自衛隊より対抗部隊を低く見積もる事が正しいとも思えない。


(1)防御:攻撃は最大の防御と言うが、防御は防御。攻撃とはやり方が違う。


 戦場での勝利とは、少ない損害で大きな戦果をあげること。これは100年前でも変わらない事だ。そして指揮官は速やかな状況判断を下す事が求められる。「今後、どうするのか。その範囲はどこまでなのか」と言う事だが、はっきり言って抽象的で分かりにくい。具体例で考えてみたい。

 旧日本陸軍は「優勢な敵」に対しては防御、「やや優勢な敵」には攻勢防御と決めていた。

 陣地を「警戒陣地」「主陣地」「後方陣地」に分けていた。コロッケで言う所のさくさくとした食感のパン粉が外殻の警戒陣地でGOPLだ。ぐにぐにと潰されたじゃがいもは主陣地でFEBAに当たる。塩コショウは要点に準備された機関銃の急襲火力だ。後方陣地はキャベツ。これらの陣地は、400m以内を小銃、600m以内を擲弾、800m以内を軽機関銃の対処で火網を構成し隣接部隊と補い合った。火器には最大射程と実用射程がある。砲迫の殺傷効果は有効火制地域を知らなければならない。「これ射ったら、どこまで飛んで、どれだけ殺せるのかにゃ?」と言う事だ。それによって作戦図や火力運用計画が立てられる。

 歩兵にとって怖い物に戦車が存在する。歩兵の対戦車装備が進歩したから「戦車なんか怖くねえよ!」と言う威勢のいい意見もあるが、一部の先進国で大国を除いて歩兵の装備は貧乏なままだ。旧日本陸軍の場合は、(1)火砲、対戦車砲、高射砲で撃破(2)肉薄攻撃(爆薬持った歩兵、工兵)の対処しかなかった。対戦車戦闘は自然の障害の利用が望ましい。河川等は敵TKの突進を阻止してくれる。

 それで、まぁなんやかんやと陣地に籠って敵を陣地前で潰す等をやると、逆襲のチャンスがやって来る。予備隊は戦果の拡張や不測の事態に投入されるので、敵から見える位置に配置してはいけない。これ等を逆襲計画で表記される。

 対空挺・ヘリボン戦闘計画まではさすがに旧日本陸軍に存在しなかった。対空計画は一応、立てられている。

 あ、どうでも良いが少なくとも陸上自衛隊では車両の乗り降りを「乗車」「下車」と言う。これは旧日本陸軍も同じだが、劇場版の機動警察パトレイバーThe Movie 2(橋を爆撃したやつ)では「降車」と言っていた。この語源は何だろう?


     †


 伊万里市の南に広がる腰岳~牧ノ山~青螺山~黒髪山~神六山は敵の東進を阻止する防壁だったが安心はしていない。ウリナラ戦争時代、北ウリナラ軍はウリナラ半島南部の、いわゆる釜山橋頭堡まで大アルニダー帝国軍を追い込んでいた。東海岸は山岳地帯で大規模な部隊の侵攻はあり得ないと考えられていたが、結果は北ウリナラ軍歩兵は山地を踏破し浦項へ攻め込んだ。山があるからと安心は出来ないと言う実例だ。これらを踏まえて第19普通科連隊は神六山に稜線陣地を築いている。

 連隊の方針は、県道343号線、104号線、45号線に左から1中隊、2中隊、3中隊を並列配置し敵の武雄市に対する敵の進撃を阻止することにあった。突破した敵には予備隊(4中隊)が当たる計画だが、隘路は攻める敵にとっても不利な地形と言えた。

「班長、あのダムぶっ潰してウリナラの奴等を全滅させられないですかね」

 中隊に配属されたばかりの新隊員が声をかけてきた。ドーランを塗りたくった顔で視線だけを動かす班長。

 3中隊の陣地占領している左手側には古木場ダムがあった。夏バテと戦闘の疲労で水に飛び込めば涼しいだろうなどと考えてしまう。

「そう言う事は映画の中だけで、出来るならやってるんじゃないか」

 ダムを爆破するまでもなく、砲迫に支援された敵は第40普通科連隊第1中隊の守る4号線の方を移動していた。敵は1個機械化大隊規模で、自分達の方で無くて良かったと言うのが本心だ。


     †


(2)攻撃:敵を包囲し戦場で殲滅することが原則


 作戦要務令がマジキチなのは攻撃の部分で、「敵が優勢でも攻撃しろ」と書いてる所にある。

 攻撃は敵の端っこ、隣接部隊との繋ぎ目、モヤシで弱そうな部隊、突出部等がある。佐藤大輔の小説「レッドサン・ブラッククロス」で日本軍がドイツ軍の守る高地を攻める描写があるが、あれは防御の要所で、旧日本陸軍も「攻めたら自分の損害も多い」と記している。他に敵の退路を圧迫する攻撃もある。

 1914年、第1次欧州大戦(第1年目)、タンネンベルヒの会戦は内線作戦の典型として歴史に記されている。

 包囲には一翼、両翼、全包囲がある。包囲を行う部隊は皆一緒に動くか、後ろに着いてきていた部隊が後から加わるか、初めからいた部隊の一部が移動して包囲を完成させるかの違いがある。

 前衛は敵が各個撃破か拘束を狙うだろうから、先制攻撃を行うべく野戦特科の増強が望ましい。本隊は幾つかの梯団に分かれて後続する。日露戦役で日本陸軍第1軍は戦力集中して上陸し、事後は朝鮮北部に前進した。

 大正時代の陣地攻撃は塹壕戦の延長でしかなく、準備陣地、第1陣地、突撃陣地(間には連絡壕)と言う物を構築し攻撃を敢行するという考え方だった。騎兵は捜索任務に当てられていた。

 第一次世界大戦登場した戦車は世界に衝撃を与え、開発競争が行われたが運用は試行錯誤の途中だった。ヨーロッパ大戦のポーランド戦役では独ソの機械化部隊が18日でポーランドを降し、西方戦役ではオランダが43日で降され諸兵科連合の機甲戦が脚光を浴びるようになった。だが日本はそれ以前にも注目はしていた。

 戦車は機動力、攻撃力、防御力を兼ね揃えており戦場の主役となり得る。「砲兵が耕し、歩兵が占領する」の通り、歩兵は引き続き重要な役割を担っており、装軌車等を利用して戦闘に協力するように変化すると考えられていた。

 実際、明治37年2月8日、朝鮮に上陸した第1軍は鴨緑江までの200Kmを走破するのに2ヶ月半がかかった。それに対して満州・上海事変で機械化された日本軍は活躍しており、戦車は歩兵の先頭に立って前進を援護し(歩兵直協用として)戦果を拡大した。

 昭和5年、国産の89式戦車が誕生したが、昭和6年の満州事変勃発時に日本の機甲部隊は久留米の第1戦車隊と歩兵学校教導隊にしか常設部隊は存在しなく、英国製戦車やルノー戦車が混ざっていた。それでも百武大尉を指揮官に臨時派遣第1戦車隊が編成され大陸に投入された。昭和8年2月、熱河省及び北支反満軍撃滅に坂本西右衛門中将の第6師団や西義一中将の第8師団が投入されたが、この際、第16旅団長川原少将の率いる挺身隊(第16旅団司令部、歩兵第17聯隊(約1個大隊半と乗馬小隊欠)、戦車隊、特設山砲1個中隊(1個小隊欠)、衛生班の一部、関東軍自動車隊(本部及び3中隊)よりなる)は2日に凌源を占領、3日に平泉に突入すると言う戦功をあげており、百武大尉の戦車隊も貢献した。

 都市部の攻略は時間がかかる。例えば、平壌は朝鮮半島北部のとある一族が支配する王国の都である。この都はそれなりに重要な都市であった。朝鮮の役、日清戦役では戦場となり、日露戦役では通過点、それと現在も継続中の朝鮮戦争では南朝鮮軍に占領されている。

 文録元年(1592年)、釜山を攻略した日本軍は5月27日に臨津を渡り6月9日には平壌の対岸に達した。6月11日、国王はまたしても脱出。16日には陥落した。その後、平壌に迫った敵を7月16日に明軍 、29日に朝鮮兵とそれぞれを撃退している。

 次に平壌が戦場になったのは翌年の文録2年1月5日で、日本軍は城外の朝鮮軍を夜襲した。結果的に、8日の夜半に平壌から日本軍は撤退した。

 明治26年、朝鮮の動乱で邦人保護や居留地の警護を目的に混成旅団を送り込んだ日本だが、7月20日に大本営が連合艦隊に清兵増派の阻止混成旅団に「眼前の敵を撃破すべき」と命じ、戦闘発生し日清開戦となった。「図説陸軍史」では3頁ほどしかないが、よく纏められている。

 混成旅団は第5師団から大島義昌少将の歩兵第9旅団を基幹に、各部隊を編合して派遣された。この際、歩兵第11聯隊第1大隊に騎兵、工兵小隊を附属して先行させている。で、旧日本陸軍は兵站を疎かにしていると言う風潮だが、少なくとも清との戦闘に備えて、兵站監部、兵站司令部2個を派遣している。また当時の朝鮮半島は道路が発達しておらず、馬匹の運用困難な地形で、行李は馬の代わりに輜重隊の他に軍夫の人力に頼る事に成ると予想された。その為、現地で徴募したが監視の兵が必要だった。

 第5師団が仁川に上陸、第3師団が元山に上陸すると、第1軍として動き兵員12,000と火砲44門を以て平壌を包囲した。城壁防御の清軍は15,000人と火砲32門。9月15日に総攻撃を実施。20時間の戦闘の末、16日に攻略した。

 明治37年2月に日露が開戦すると、6月8日に仁川と鎮南浦に第1軍が上陸し平壌集結させ、鴨緑江を渡った。今回は戦禍に巻き込まれず済んだ。

 まあ、そう言う訳で都市の占領は時間がかかり、熱河省で川原挺身隊が行った占領は早いと言う事が分かる。


     †


 第13特科隊、第13戦車中隊の増強を受けた第17普通科連隊や第1空挺団の到着を受けて西部方面軍は反撃を開始した。第8師団も逆上陸作戦で大アルニダー帝国軍の後背を衝く作戦だ。

「長崎を取り返すんですね!」

「そうだな」

 田口の言葉に答えると中川は鉄帽の顎紐をきつく引き締めた。自衛軍の車列が西に向かって移動を始めた。

 敵の砲撃は威力が衰えていた。同盟国のペドメリア連合国が行った海上封鎖が効いて、補給が滞り始めていた。


     †


おわりに


 突撃が頓挫した場合、側面から攻撃を受けた場合等と旧日本陸軍も色々考えており、ただの突撃馬鹿ではなかった。

 用語の一部をすり替えただけで現代でも通用する内容で、なんだかんだと言っても、旧日本陸軍は陸上自衛隊の前身であり血脈は引き継がれている。

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