支那事変を始めたやつはマジキチ(2)昭和13年、またまた皇軍は勝ちました
はじめに
南京を攻略しても、傀儡政権を立てても支那事変は年内に終わらず年を越えて続いた。
1938年(民国27年、昭和13年、皇紀2598年)1月、中国軍も日本に対抗すべく戦備を整え、第5戦区は第3、第22、24、11集団軍、第3軍団、第51軍(第113、114師)より構成されていた。
1月10日、青島を攻略。黄河の南に渡り日本軍は連絡線を確保した。一方、蒋介石も武漢に司令部を移転させた。鄧小平は18日、第八路軍第128師政治委員に就任していた。日本軍の侵攻は止まる事を知らず、破竹の進撃で2月3日、山東省の煙台を攻略。11日、第1軍が集安の老岭山区に侵攻。27日、山西の南部、臨汾が陥落した。3月2日、五寨の県庁を制圧。7日、山東省の威海に侵攻。3月13日、板垣師団は南通を攻略。そんなこんなで日本軍はゆっくりの日を手に入れるべく敵を追撃し続けたのだった。
ってな感じで始まるけど、中国軍の単位がややこしい。師、旅はそのまま読めるけど、団、営、連、排は日本語訳として連隊、大隊、中隊、小隊と頭で考えないといけない。連だから連隊ではなく中隊なのは誤訳しやすい。
1.台児荘戦役から徐州会戦まで
徐州と言うのは南京の北、山東省と河南の中間に位置する、黄河を中心とした中原の地だ。
日本軍の行った南京攻略、黄河作戦によって敗退し徐州周辺に集結した中国側は陣地を設営した。これに対して日本軍は1938年4月中旬から行動を開始し、北から日本軍第10師団、青島から第10師団、そして南の南京から徐州包囲の準備を行うと5月12日、敵前渡河を敢行した。まさに大会戦であった。
3月14日、山東省方面で四川軍を撃破した日本軍は南下した。四川軍は総兵力40,000の内、遺棄屍12,000を残す損害を受け大運河の南に後退した。
3月17日、日本軍第10師団が前進、第2集団軍は痛烈な打撃を与えた。
3月23日、瀬谷支隊(第63連隊に砲兵を増強している)は台児荘に進出、第31師と交戦(砲兵第7団の1個営:75mm砲10門、機械化重野戦砲兵の155mm榴弾砲2門の増強有り)。日本軍壊滅華軍大勝利の戦勝デマを放送していたと日本側の記録が残っている。
では実際の動きはどうだったかと言うと、3月24日、日本軍は攻撃を開始し。6,000の中国軍に対して300の損害を与えた。(中国側の記述によると24日、空軍の支援で第20軍団が反撃を開始)26日、敵の増援が到着し兵力差が10倍となった。
※徐州会戦の前半に分類されるこの戦いに、中国軍は29個師、1個旅の28.8万人を投入していた。
27日には台児荘の一部を占拠、29日に瀬谷支隊支は台児荘の半分を制圧した。第5戦区司令官李宗仁は第2集団軍(第30(第30、第31師)、第43(第27、独立第44旅)軍、第110師)に台児荘の死守を命令する。
28日、第65連隊は1個野砲大隊、2個野戦重砲大隊、その他戦車の援護で戦力を集中して台児荘に攻撃前進した。これに対して第31師は頑強に抵抗した。
31日、瀬谷支隊は包囲され、坂本支隊も第52軍、第75軍に攻囲を受けていた。4月3日、李宗仁は第52(第2、第25師)、第75軍(第6、第139師)に攻撃命令を出した。7日には日本軍も第5、10師団主力が到着し中国軍は逆に包囲されかけたので撤退する。
4月18日、徐州会戦として戦史に残る大会戦が始まる。中国側の記述によると国民党軍は60万、日本軍は40万左右を投入したとあるが、別の中国側の文献によると後半戦には64個師、3個旅の24万人と空軍が投入されたとある。
この会戦には戦後、A級戦犯として処刑される土肥原賢二が第14師団長として参加していた。豫西で中国軍は土肥原将軍に第200、88、106師が抵抗。歩兵と戦車の密接な協力で手痛い損害を与えた、らしい。らしいと言うのは、土肥原将軍が指揮して居たのは第9師団を基幹に、砲兵2個大隊、騎兵2個中隊、戦車の増強を受けていたとあるからだ。
日本軍は概ね三方向から北支那方面軍と中支那方面軍が徐州を包囲圧縮する形で進軍した。
4月19日、山東省臨沂が陥落。
5月14日、第13師団の快速部隊(戦車1個大隊を中核に、装甲車1個中隊、自動車化歩兵2個中隊、工兵1個中隊)が暴れまわった。
5月19日、徐州陥落。20日、第106師の1個団(第200師より戦車1個中隊の増強を受けていた)が日本軍約500と交戦。日本軍は士気も低く、大損害を受けて200の屍を遺棄して行った。
6月6日、河南開封陥落。
6月9日、花園口決堤事件。撤退する中国軍は黄河の氾濫を利用して日本軍の追撃を絶ち切ったが、3省が被害を受け民衆にも莫大な被害を与えた。
中国軍の死傷者は6万、一方の日本軍には31,000の損害を与え、抗日戦開始以来最大の戦果で大勝利だった、と大喜びしている。この戦闘の結果、正面決戦をしては負けるし持久戦を基本方針とした。
※徐州は第二次世界大戦集結後の国民党と共産党の内戦でも戦場と成った。1948年、劉峙は第2、第7、第13、第16の4個兵団を中核に30個軍、75個師の総兵力80万を展開させていた。対する共産軍は華東野戦軍の16個縦隊、中原野戦軍7個縦隊の60万。11月6日~1月10日の戦闘で、国民党軍は5個兵団22個軍の55万5千人の兵力を失っている。
2.武漢会戦
大本営は5月29日に武漢作戦を決定、6月15日には御前会議で決定し、18日には大陸命第119号が下された。
動員された兵力は、第2軍(第3、第10、第13、第16師団)、第11軍(第6、第9、第27、第101、第106師団)の合計9個師団、3個旅団。その他人員合計35万人で、武漢三鎮(漢口、漢陽、武昌)の攻略と敵の主力撃滅を目的とした武漢作戦が発動された。
中国側も日本軍の攻撃を座して待っていた訳ではない。特級上将蒋介石は来るべき襲来に備えて、武漢三鎮に於いて15榴の砲弾に耐えられる半永久的な陣地を構築していた。この陣地構築は、第一次世界大戦に参加したドイツの軍事顧問による助言があった。
日本軍の企図した所は両翼包囲で武漢三鎮を占領し、中国が膝を屈し和平を結ばせる目的があった。中日全面戦争の開戦以来最大の兵力を投入した戦いとなった。
※15日には並行して行う漢口作戦が承認される。
中国側は第5、第9戦区が主戦場と成った。14個集団軍、50個軍の兵力110万が展開しており、勇猛な日本侵略軍は5倍近い敵に果敢にも挑んだのである。
全般的な経過を見ると北より第2軍が迂回しながら敵の背後を遮断、第11軍は南から揚子江沿いに頑強な敵の抵抗を排除しながら進んだ。
6月13日、波田支隊が安慶、第6師団が安慶の北にある桐城を占領。
※海軍は侵略戦争に荷担して無かったと言う海軍善玉論が散見されるが、陸戦隊も頑張っていた。21日、陸戦隊は汕頭近郊の南澳島を占領している。
中国軍の作戦指令を読み解くと山地及び長江沿岸の要所を頑張って守ろうね! と言う話だが、日本軍は10月26日、武昌占領。27日に武漢会戦は終了と成った。日本軍の死傷者は4万人に達した。
おわりに
「糞ったれのチャンコロどもめ。ぶち殺してやる!」と言うのは創作の世界だけで、面と向かって言うのはマジキチだけだ。
敵を知り己を知れば~何て言葉もあるが、戦闘戦史好きには何でも良いのだ。
中華民国は中国大陸を統治する正統な政権で、中華人民共和国は共産党不法に占拠してでっち上げた物らしい。そんな事を言うなら、さっさと大陸反攻して実効支配から解放しろよと言う話に成るし、中華民国には大陸反攻のチャンスが幾度かあった。例えば朝鮮戦争当時、広州あたりに上陸して第二戦線を形成すれば朝鮮分断の悲劇を回避できたかもしれない。
そんなこんなで中華民国の精兵はひたすら負け戦続きだった。
1945年、日本帝国政府及び日本帝国大本営が連合国最高統帥に無条件降伏した抗日戦争終結後、国民党政府は共産党と重慶で会談。お互い仲良くしましょう、と双十協定を結んだが邪悪な共産主義者は、国民党政権を打倒すべく東北を制圧。野心を剥き出しに中国人民解放戦争をでっち上げた。
1946年、国共談判破裂で、蒋介石は中華民国の恒久的平和を実現する為に共匪との対決を決意した。自由主義陣営の盟主であるアメリカ様が蒋介石を援助したのも正義があったからだ。
3月、山東を包囲すべく蒋介石は大軍を投入。この中には、死後やたらと美化されている張霊甫の整編第74師も含まれていた。迎え撃つのは中共にしては出来る軍人であった栗裕を幕僚に迎えた華東野戦軍。5月の戦闘で74師は第1、6、8縦隊に包囲された。20万対4万の戦いである。
6月、中共軍が中原解放区と呼ぶ地域に国軍は前進、一応はこの戦いで全面戦争に突入したとある。
1947年夏、中共軍が全面攻勢に出た。
開戦当初、国民党軍が優勢だったが、三大戦役で形勢が逆転し国民党軍は台湾に追い込まれた。では三大戦役とは何だったのか?
戦場と成ったのは東北、華北、華東、中原、西北の地域であった。
(1)遼瀋戦役
民国37年、西暦1948年9月~11月2日、東北の支配権を巡って両軍は激突するが、中共軍が勝利を収め東北を制圧した。衛立煌を指揮官とする国民党軍は第1、第6、第8、第9の4個兵団、合計14個軍、44個師、約60万人の兵力を有していた。対する中共軍の東北人民解放軍は12個縦隊、67個独立師の約70万人。
(2)淮海戦役
民国38年、西暦1948年11月6日~翌年1月10日、徐州は再び戦禍に見舞われた。この戦いで中共軍は長江以南に勢力圏を広げた。東北野戦軍、中原野戦軍から成る中共軍は、劉峙を指揮官とする国民党軍を捕捉撃滅した。
(3)平津戦役
民国38年、西暦1948年11月19日~翌年1月31日、この戦いで中共軍は国民党軍52万人を殲滅し、北平を含む華北を全面制圧した。
蒋介石の基本方針は平津の防御だった。傅作義の指揮する河北の国民党軍は第4、第9、第11、第17の4個兵団、12個軍、42個師、4個旅の約60万を展開させた。対する中共軍は東北、華北解放軍の4個兵団、19個縦隊(軍)、48個師、20個旅の約100万を投入して来た。
日中戦争から先走り過ぎたが、結局の所で国民党軍は弱かったと言う結論に達してしまう。