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ミリオタ雑記あれこれ  作者: きらと
日本の戦いあれこれ
10/16

満州事変の戦場拡大はマジキチである

はじめに


 侵略戦争を美化するのはマジキチである。ただしミリオタは違う。

 強さこそ格好良さの象徴で、善悪を問わず戦果の結果で判断を行う。ゲームやアニメと同じで、戦史を楽しむ者にはそれで良いのだ!

 戦えば破竹の快進撃、格好良い大日本帝国陸軍が大陸で悪い支那人やっつける痛快な戦いを、日中の資料から追ってみた。



1.侵略せよ、中国東北部! 九一八事変


 帝国主義諸国に蝕まれていた中国大陸で、朝鮮半島に隣接する中国東北部に移民や経済的進出をしていた日本は、遼東半島の租借地以外に南満州鉄道沿線にも独立守備隊を展開させていた。当時の中国はチンピラな地方軍閥や共匪、匪賊が入り乱れ戦乱の渦中にあり、各地に武装集団が独立勢力として存在していた。一般人から見れば人様の土地なのに、そこにゴロツキな日本軍も加わったと言う状況である。

 この状況を憂いた蒋介石は中国を纏めようとするが、混乱に漬け込み領土的野心に燃える大日本帝国は傀儡の南京政府を抱き込んだりしていた。そして遂に1931年9月18日、既得権益に固執する邪悪な関東軍の暴発で戦争への道を突き進んでしまう。柳条湖近郊の満州鉄道を破壊、これをきっかけに日本軍は動いた。

 板垣征四郎や石原莞爾が本当にマジキチで、天皇陛下の御意志すら無視して暴走したのかは問わない。大切なのは現地軍が動いてやっちまった事だ。


 抗日戦争の始まり九一八事変は1931年(民国20年、昭和6年、皇紀2591年)9月18日2220時に奉天の北側、柳条湖付近の南満州鉄道が破壊された事で始まった。関東軍高級参謀であった鷹派の板垣征四郎がどんどんやれやれと発破をかけてしまい、23時、多門二郎中将麾下の第2師団歩兵第16、29、30連隊が行動開始。

※第2師団は4月に仙台から派遣されて来た。この事を中国側は、中国北の寒冷地区で作戦を行う為に『日本の北方人』を送り込んで来たと見ている。また日本軍高官も『満蒙問題の解決には軍事行動しかない』と事変発生前に発言していた。

 現地の武装勢力を指揮する張学良軍と戦闘状態に入ったが、南京政府は不拡大を指示した。隣の国同士なので仲良くしなければならないと思ったのかは定かではないが、我慢して辛抱し様としたのは事実だ。

 だが日本軍はそれを良い事に、先手必勝とばかりに攻勢に出た。当時、南満州に展開して居た日本軍の兵力は概ね15,000人。対する張学良軍は概ね20万と兵力で隔絶していた。やらないと先にやられると言う危機感があったのかもしれない。

 演習中であった石虎台駐屯の独立守備隊第2大隊第3中隊は北大営に駐屯する王以哲率いる独立第7旅を攻撃、大隊主力も加わる。歩兵第29連隊は瀋陽城を攻撃。長春の歩兵第3旅団騎兵第2連隊は寛城子に向かい、第2師団主力は全般支援と言う状態だった。

 当時の日本側発表によると、北大営の戦闘は7時間、戦死2、負傷22。中国側の遺棄した屍320を埋葬。

 中国側の記述によると、事件当時、旅長である王以哲と麾下の2個団(連隊規模)長が不在であったと言う話が出来すぎ? 邪悪な日本軍が卑怯にも留守を狙って攻めて来たらしい。だったら兵力的優位があったのにぼろ負けしたのも仕方が無い。長春で独立第23旅を指揮する旅長の李桂林が逃亡したのも仕方が無い。邪悪な日本軍が強かったのが悪いのだ。

 長春は日本侵略軍にとって吉林侵攻の要であった。ここに邪悪な日本軍は歩兵第4連隊(2個大隊)、独立守備隊第1大隊1個中隊の1,000人も配備して居た。対して正義の北軍は火砲36門、人員7,000名と勇気凛々待ち受けて居た。長春城に700名、寛城子に歩兵第163団の1個営(大隊規模)650名。だが、日本軍は卑怯にも満鉄を使って騎兵第2連隊を長春に送り込んで来たのである!

 南嶺の戦闘で歩兵第4連隊第2大隊が戦死5、負傷16、独立守備歩兵第1大隊が戦死38、負傷39。中国側の遺棄した屍200。寛城子の戦闘で歩兵第4連隊は戦死24、負傷33。中国側の遺棄した屍70。

 19日、精強な日本軍は奉天に戦力を集中し、連戦連勝で瀋陽及南満州鉄道、安奉鉄道沿線の瀋陽(元から歩兵第29連隊、独立守備隊第2大隊が駐屯)、長春(歩兵第3旅団司令部、歩兵第4連隊が駐屯)、撫順、本渓、鞍山(独立守備隊第6大隊が駐屯)、安東、四平、公主岭(騎兵第2連隊、独立守備隊第1大隊が駐屯)、鳳城(独立守備隊第4大隊が占領)、复县、盖平、海城(野砲第2連隊が駐屯)、営口(独立守備隊第3大隊が占領)、遼陽(元から第2師団司令部、歩兵第15旅団司令部、歩兵第16連隊が駐屯)、鉄嶺(工兵第2中隊、独立守備隊第5大隊が駐屯)、開原、昌図等各要地を制圧。開戦第一日で日本軍は支那兵1,600を捕虜にしたとある。

 朝鮮軍は関東軍の支援として中国へ越境侵入。第2師団はその脇を固めた。

 南京政府外交部は日本公使の重光葵に軍事行動の停止を求めたが、お茶目な日本軍はこれをスルーした。

 20日、第2師団司令部が瀋陽から長春に前進。21日、多門兵団は吉林へと進撃する。朝鮮軍第19師団が豆満江沿岸に進出。その晩に混成第39旅団は瀋陽に展開した。

 そして勢いは止まらず22日、日本軍は蛟河、敦化、遼源等の城镇を占領、海軍も渤海沿岸の秦皇島を占領した。25日に無敵の日本軍は洮南市を占領、一週間で遼寧、吉林省の都市30を制圧した。まさに快挙である!

※占領や部隊の進出、展開した日付が書籍によって異なるので、日本軍の行動に関しては日本側の日付が正しいと思われる。



2.黒龍江の戦い


 続けて満州事変の戦場は北に移る。

 吉林省の省防第2旅旅長であった張海鵬は降伏後、日本軍に協力した。その過程で発生した北満の黒龍江戦役──この戦闘は日本側の記述によると、橋梁の修理作業を行う為に派遣された日本軍を黒龍江軍が攻撃して来た事に起因するとある。日本側の視点では張海鵬と馬占山の内戦に成る。支那軍の鉄道破壊は許せん、とまぁこんな理由で動いた。

 日本軍や傀儡の武総勢力に対抗すべく張学良は10月16日、馬占山を黒龍江の主席代理に任命し統一指揮を実施した。

 一方、日本軍は第2師団歩兵第16連隊より抽出した歩兵、砲兵1個大隊に工兵中隊を増強した嫩江支隊として独立飛行第8中隊の援護で前進した。

 11月4日上午(午前)、日本軍の先遣中隊(尖兵を命ぜられた中隊)が嫩江を攻撃。5日、再度攻撃を行う。日本軍の記述によると、北岸を占領する黒龍江軍が了解を破り砲火開いた。不法射撃だから支隊主力に増援を送ったとある。ゆっくり出来ないげすな馬占山は制裁と言う訳だ。

 日本軍の推定した黒龍江軍の兵力は、歩兵騎兵約5,000、砲30門、迫撃砲12門。中国側の資料によると正面には第2旅の2個団、左右に騎兵第1、第2旅(各2個団)が展開しており、迂回して日本軍を包囲しようと動いたり、戦闘は激烈だったらしい。

 この戦闘で日本軍は戦死36、負傷144の損害を受け、中国側は200の屍を遺棄していたとある。中国側の資料によると日本軍に戦死167、負傷600の損害を与え、黒龍江軍の損害は戦死約500とある。

 第2師団主力も集結、11月11日には独立飛行第8、9中隊も到着し、多門師団は万一に備えて歩兵10個大隊、騎兵2個中隊、野砲兵6個中隊、重砲兵2個中隊、工兵1個中隊の兵力を以て11月13日に前進を開始した。日本側の記述によると対する黒龍江軍はおおよそ歩兵騎兵20,000を下らず、砲20門、迫撃砲10門、高射砲2門の兵力を有してると見積もられていた。

 馬占山は11月17日、挑発的行動に出た。だから多門師団は11月18日より自衛行動に出た、とある。

※チチハルの戦いは陸士、陸大卒の元陸軍少佐で陸将の方が陸将補時代に執筆した本が市販されている。



3.錦州作戦や吉林省抗日政府の討伐


 第三の大都市である錦州にも日本帝国主義の触手が伸ばされた。電光石火の動きはまさにHENTAIである。

 10月8日、日本軍は錦州を空爆した。まあこの程度はアメリカも中東でやりまくってるので大した事では無い。

 地上部隊は12月中旬から、匪賊討伐の協力と言う事で集結し始めていた。中核と成ったのは11月に日本から派遣された第8師団の混成第4旅団である。さらに混成第8旅団やら155mm榴弾砲1個大隊(第12師団)、105mmカノン砲1個中隊(近衛師団)、混成第38旅団やらあれやこれや。12月22日に地上部隊が進行開始。翌年1月3日に錦州から北軍が全面撤退し日本軍は錦州を制圧した。

 一方、吉林省では1932年1月、北軍騎兵第16師師長であった于琛澄を指揮官に日本の傀儡軍が作られ抗日政府軍(吉林自衛軍)を匪賊として討伐する戦いが始まった。同じ中国人同士が殺し合うのだ。

 吉林自衛軍の指揮官は李杜。麾下の兵力は、第22、25、26、29旅、暫編第1旅、騎兵第1、第2旅。

 この間、蒋介石率いる国府軍は大規模な増援を派兵しなかった。日本の侵略が止まる事を期待して居た上に、蒋介石にしてみれば中華民国統一の妨げに成る地方の軍閥何て知った事では無い。共産主義者なら野垂れ死にしても構わないと言うのが実情だった。だから地方軍閥は日本軍を消耗させてくれれば十分だった。

 汚いけど合理的だ。共産主義のアカも滅んでくれたら、国共内戦で負ける何て未来は無かったのだろう。

 さて1月5日、吉林軍(現代の中国では偽軍と呼ばれている)が第25旅と交戦、吉林省の反乱鎮圧協力と言う形で日本軍も参戦した。

 長春から第2師団が北上し1月30日、第22旅と交戦した。北のハルビンに集結した賊軍を2月5日、左翼第15旅団、右翼第3旅団が並列配置され攻撃した。北西の安達から混成第4旅団も南下しており袋の鼠だった。



4.一二八松滬戦役


 東北が日本にぶんどられる中、1932年1月、上海は風雲急を告げた。一二八松滬戦役(上海事変)の勃発である。

 当時の中国は弱くて諸外国の食い物にされていた。その結果、『租界』と言う形で外国の居留地が存在していた。在留邦人3万を守るためと称し、日本は侵略的野心を剥き出しに租界の兵力を増強していた。1月27日の時点で、展開する兵力は陸戦隊7,000、在郷軍人3,000で万を超えていた。

 日本軍の見積りでは、上海を包囲する中国軍は正面に第19路軍の3個師、第60(兵数11,000)、第61(兵数10,500)、第71師が展開。揚子江側に第78師(兵数10,000)、上海の南に第81師(兵数10,000)が展開していると言う物だった。

 2月1日の軍事委員会で蒋介石、張学良らは対日作戦の防衛区を4箇所に分担した。黄河以北の第1、黄河以南、長江以北の第2、江南の第3、第4等である。

 中国側の記述によると蔡廷鍇を左翼軍指揮官とする第19路軍(第60(第119、120旅、独立旅)、第61(第121、122旅)、第78(第155、156旅)師)で第19路軍は上海を全力防守、第87(第259、261旅、独立旅)、第88(第262、264旅)師が南京を防守すると言う計画だった。

 上海は湖と沼に囲まれ大軍の運用に適していないが、このままだと中国軍が兵力差で勝つのは目に見えて居た。2330時、中国軍は攻撃を開始した。口火を切ったのは第156旅第6団である。日本海軍陸戦隊は卑怯にも小学校を防御拠点に利用していた。木の上に死体の肉がかかる程の激戦だった、らしい。

 29日20時、英米領事は喧嘩は止めてくれない? と申し込み第19路軍は3日間の停戦に同意した。

 2月2日、天皇陛下は日本軍の派遣を決定した。後出しジャンケンの様に第9師団を送って、更に第12師団から歩兵第24旅団基幹、騎兵、砲兵、工兵等を増強した混成1個旅団を第2艦隊に乗せて送り込んだ。一種の旅団戦闘団である。

 日本軍の後出しに蒋介石は動いた。第87、88師を第5軍に改編、張治中を指揮官に左翼軍として加えた。

 ※この中に、中国軍唯一の装甲部隊、南京の装甲兵団(団長:杜聿明)も居た。

 14日、張治中は15日を以て攻撃を命令。攻撃の重点は虹口公園、日本海軍陸戦隊の司令部。

 2月18日、日本は第19路軍の撤退を要求するが中国側は拒絶した。中国側にしてみれば自己の領土で正々堂々としていた。でも結局は3月始めに日本軍が反攻に出て、停戦する訳であった。



4.あれやこれや


 その後も天皇陛下が、ちょっと命令無視で調子に乗るなよ的なニュアンスを軍に漂わせながらも、長城戦役や熱河抗戦が発生した。鉄道を破壊されただけで、何処まで攻め込んでいるんだと言う戦場の拡大だが、特に熱河作戦は個人的にオススメの戦闘だ。

 初めて熱河の文字を読んだ時は熱帯地方の河で行った作戦かなと、ぶっ飛んだ印象しか持っていなかった。だがこの戦は素晴らしい! 誘拐ビジネス許さず、地方軍閥をぶちのめす痛快な作戦だった。

 当時、蒋介石は国内の匪賊討伐を優先し、日本の侵略は後回しにしようと戦争拡大を望んでいなかった。結果として昭和8年5月31日には停戦が成立した。蒋介石の安内攘外と言う政策の結果、上海で最左翼を受け持った精鋭の第5軍も匪賊討伐で各地転戦する事となる。



おわりに


 今回は主に中国側の資料を参考にしたけど、中国側が日本軍の編成や動きをほぼ正確に伝えている事に驚きを感じたが、参考文献を見て笑った。日本の文献なら一語一句まで同じなのも当然だ。

 逆に中国側の資料と照らし合わせると、当時の日本軍が正確に敵戦力を見積もっていたり、戦闘経過を情報統制せずに一般に伝えていた事も面白い。勝ってる間は誤魔化す必要が無かったのだろう。

 戦争って本当に良い物語ですね。自分に被害さえなければ「良いぞ。もっとやれ」と、最高の娯楽になります。

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