14 ハッピーエンドを回避する方法は
「ヴェナ……何でここ」
「今日本番って言ってたろ。最愛の婚約者様を労わろうかと思いまして」
黒いタートルネックに、白衣姿。実験の途中でわざわざ迎えに来てくれたのは見て分かった。黄色い歓声には雑に手を振って、迷いなく私の許まで歩いてくる。そういえばこうして私のクラスまで来たのは、初めてではなかろうか。いつも実験が終わる前に私が研究室へくつろぎに言っていたから、来る機会も理由も無かっただろうし。
「労わるついでに売店寄るぞ。マシュマロ無くなった」
「え? まだ半分くらいあったはず」
「糖分欲しくて食っちまったんだよ。ついでにコーヒー買ってく」
「甘いのか苦いのどちらかにしたらどうですか……」
「必要な時に必要な分を、実験中ならコーヒーのがいい」
笑ってる。まるで見せ付けるみたいに、分かり易く。いつもみたいに呆れた笑みでも、揶揄う様に目を細めるでもない。多分……怒ってる、笑顔。
「挨拶終わってるか? 連れてってい?」
「は、はい……!」
「ん、お疲れ」
イリスに視線を向けたのと同時に、私の肩に手が回る。近付くと香る、香水と微かな煙草の匂い。見上げると、気付いたヴェナがくしゃりと笑った。さっきまでの怒ってる笑顔じゃなくて、砂糖菓子みたいな、向けられた方が溶けちゃいそうになる顔で。
私が良く知っているのは、砂糖菓子のヴェナだけど、怒った笑顔のヴェナも、記憶に沢山残っている。
「あの……! ハヴェイナ、様」
これは、エスメラルダに向けていた笑顔だ。苛立ちを笑顔の下に隠して、相手との間に深々と一線を刻む時の顔。笑っているのに、感情が何一つ読み取れない。何も伝わって来ない。何も、伝える気がない。
「あの、私……ごめ」
「謝罪は結構」
「でもッ」
「興味がない。君にも、君の言い訳にも」
目が笑っていないという表現は、こういう時に使うんだなと思った。場違いにもそんな事を思ってしまうくらいに、ヴェナの纏う空気は冷たい。
「今後俺達に関わらないでいてくれれば、それで水に流そう」
ヴェナがここまで明確にシンシアを否定するのは、初めてだ。苦手だヤバい奴だと言いつつ、関わらなければ良いと躱していたのに。自ら足を運び、誰の目にも明らかな拒絶をするなんて。
「カスミ、荷物は」
「これだけ、です」
「なら、行くぞ。来ておいて悪いが、実は実験途中」
「まぁ、見れば分かりました。研究室で待っていてくれて良かったんですよ?」
「仲睦まじい許嫁作戦、俺も必要なんでな」
ついさっきまで能面が話しているみたいだったのに、今はいつものヴェナが戻ってきている。揶揄うみたいな口調とか、犬歯を見せて子供っぽく笑う所とか。ただ一つ、泣きそうな声で呼ばれる名前には、欠片の反応も示さない事だけが、異様だったけど。
肩が胸に触れるくらいに近い私が聞こえているんだから、ヴェナだって当然聞こえているはずだ。それでも、ヴェナを呼ぶシンシアの声は、一瞥の価値も無くただ空間に消えていった。
最後に、ちらりと盗み見たシンシアの顔は、悲しみに暮れた泣き顔で。彼女は、ヴェナが好きだったんだろうか。親愛ではなく、恋慕としての、感情だったのだろうか。
それは、ちょっと……凄く、嫌かも知れないと、思った。
× × × ×
「終わったー……」
「お疲れ様です。まさか途中で抜けた実験が今日締め切りだとは思いませんでしたよ」
「俺もまさかここまで掛かるとおもって無かったよ。レポート纏めたら帰るけど、カスミはどうする。先帰るなら送ってくけど」
「待ってるので、寝てたら起こしてください」
「熟睡出来るほど時間かからねぇよ」
ソファの上でだらけながら、机に向かうヴェナを観察する。伏せられた目に、長い睫毛が影を作っていた。長い指先が筆を操る様は魔法に似た優雅さがあって、その指が私に触れる所を想像する。
髪は、よく触られる。手持ち無沙汰になると、無意識で私の金髪をくるくるしたりとか。目元に触れた事もあった。薄い皮膚をゆっくり撫でる手付きがくすぐったくて、ちょっと恥ずかしい。手が触れた事は、何度か。繋いだ事はない。肩を抱かれた時の、私よりずっと大きな手の平。指先は細かい傷とタコが出来ていて、指の腹は少し硬い。普段は全然だけど、たまに指先から煙草の葉の匂いがする。
頬、耳、鼻、唇。彼が触れた事のない場所を上げていくと、私の体ほとんどがその手を知らない。
「……ねぇ」
「んー?」
「触れて欲しいは……恋かなぁ」
万年筆のペン先が、嫌な音を立てて止まった。紙が破れたかインクが零れたか、私の位置からは見えない。顔を上げたヴェナの表情は、今まで見た事のない類の物だった。
目が真ん丸く見開かれて、頬が少し赤い。何かを言いたげに開いた唇は音を紡げず、はくはくと息を吐く金魚みたいだ。それが何だか可笑しくて、嬉しくて。あははと声を上げた所で、真っ赤になったヴェナが漸く声を上げた。
「お、っまえ……! 意味分かって言って」
「知りたいから、教えて欲しい」
「ッ……」
「会いたい、話したい、傍に居たいだけじゃ、分からない。でも触って欲しいは、一人にしか思ってない」
触りたいと乞われた時、嫌じゃなかった。触られても嫌じゃなかった。自然と足が向くのは、会いたいからだ。どうでも良い事を話すのは、応えて欲しいからだ。見つめてしまうのは傍に寄りたいからだ。ヴェナはそこに『誰にも触らせたくない』があると言った。私は、ヴェナを知らない自分の体を寂しいと思った。この気持ちは、きっとヴェナにしか芽生えないもの。
「触って欲しい。これは、ヴェナの『触らせたくない』と違うかな?」
「……俺、お前の事好きなんだけど」
「うん」
「そんな俺の贔屓目で答え出して、後悔しないのか」
「ヴェナは好きな人に甘いから、大丈夫」
「身に覚えしかねぇわ」
仕方ねぇなって、笑う所は、好きだなって思った。可愛いとか、綺麗とかじゃなくて、ただ、好きだなって思った。
ゆっくりと近付いて、恐る恐る手が伸びて来る。頬に触れて瞼に触れて、唇に触れる直前で少し震えたのを感じた。両手が優しく添えられても、ゆっくりと顔が近付いて来ても、やっぱり避けるなんて気持ちは微塵も浮かばない。その目に自分が映っている。それだけで、空も飛べる気になれた。
鼻先が触れて、少し止まって、あの日触れたのは額だった。
今日は、唇が触れた。少し乾燥してて、でも柔らかい。ヴェナには、私の唇がどんな風に感じられてるんだろう。
「……どう、デスカ」
「…………」
時間にして、ほんの数秒。目と鼻の先にあるヴェナの顔は赤く色付いてて、眉が不安そうに下がってる。恥ずかしそうに目を伏せて、でも私の答えを知りたくて、離さないとばかりに両手は頬に触れてる。
「……うん」
「うん……?」
「私の恋は、これが良いな」
私の言葉にヴェナが何かを返すより早く、今度は私からヴェナの唇に触れてやった。ちょっと場所がズレた気もしたけど、セカンドキスにしては上出来、だと思う。少なくとも私のヴェナを驚かす目的は達成出来たみたいだから。
「触って欲しいし、触りたい」
「ッー……!! お前、マジで憶えとけ……っ」
「恋人兼婚約者に言う事かな、それ」
「うるせぇ悪魔……」
「人聞き悪い!」
多分、私の『恋』は始まったばかりで、これからまだ経験した事もない感情に幾度となく出会うんだと思う。ベッドの上で読み耽った感情達は、どんな風に私を変えていくんだろうかと、少し怖い気もする。幸せだけじゃないのかな。シンシアの様に、泣く日もあるんだろうか。
想像しただけなのに、胸がキュウっと締め付けられた。ちょっと痛い。
「……これって、作戦成功って事なのかな?」
「仲睦まじい許嫁作戦な。頭悪い名前だと思ってたけど、最適解だった訳か」
「作戦って程考えてなかったですけどね」
「まぁ、それが良かったんじゃねぇの?」
――ハッピーエンドを回避する方法は、別のハッピーエンド、ってな。




