第9話 血海に佇む鬼
美しい金色だった髪は、色素を失ったのか雪のような純白へ。
大きくクリッとした可愛らしい目は、相手を威圧しようと睨みつける悪意へ。
緑に近い青緑色の瞳は、光源で色が変わって見えるアレキサンドライトのように、赤い血を固形化させたかのような紅瞳へ。
青と白を基調としていたはずのドレスは、身体中を乾いた血が赤黒く染め上げ。
魔獣ことアルが咆哮でぶち抜いた天井から、三つ上の階まで真っ直ぐ繋いだ穴を覗き込む血塗れの少女が見える。
身に付けているペンダントにブレスレット、指輪などの装飾品まで血に塗れ、本来あるべき輝きを損なっていた。
端から見ただけで異常が起きたと一目で想像できる変貌した少女――シーン・ファム・エルブライトの変わり果てた姿が、見上げればそこにあった。
「誰だよ、あの子……」
あれが誰かは、牢屋に入れられる前までは知っていた。
今は知らない。
記憶と一致しない。
彼女にとって誰とも知れない男とベッドを共にしたのだから、イラハが嫌われることは概ね理解できる。誤解の上なので納得はできないとしてもだ。
だけど、その時に見た姫の表情には、人が誰しもが持つ感情の動きが当然にあった。
牢屋に死刑宣告しに来た時も、彼女の感情が急に嫌悪から狂気なものへと変化したので理解に苦しんだが、それとも違う。
今はただひたすらに冷たい視線をイラハに送ってくる。
重なる視線に感情はまるで窺えない。
暗い暗い水の底に足を引っ張られて沈められていく。彼女の瞳にぐいぐい吸い込まれていき――
「ぐっ、はっ……! はぁはぁ……」
人間が本来なら無意識に行う肺呼吸をあろうことか、イラハの身体は忘れていたらしい。
慌てて、肺は新鮮な酸素を求めて、大きく空気を吸い込み肺胞に酸素が送られる。不要な二酸化炭素を吐き出すことでガス交換を終えた。
肺が正常運転を開始したことで、ゆっくりと呼吸も整えられていく。
気付けば、いつの間にか芯から冷えてしまっている身体をイラハは自分の両腕で抱き締めていた。
「あれが人間の目かよ……外見もまるで変わってるし、どうなってるんだ?」
震えそうになる声をそうさせないように堪えて喋るイラハだったが、誰かに聞かせるつもりのなかった呟きをアルの長い耳は逃さなかった。
「地下牢にいた時に言ったろうが。鬼に取り憑かれてるってなぁ。ただし、深くなってやがるがよぉ」
「深く……鬼化が進行したってことか? ……元に戻せるんだよな?」
こんな冷たい目をしたシーン姫なんてイラハは知らない。
同一人物だなんて思いたくもない。
だから、心から姫が元に戻ることをイラハは縋るように望み、
「……あるぜ」
期待していた言葉がアルから返ってきた。
「出来るかどうかはお前次第だが、やり方は簡単だ」
次の言葉をイラハは生唾を飲んで待つ。
「あの姫さんをぶっ飛ばしてやりゃあ良いのよ」
提示された答えは、アルの言うとおり極めて簡単――、しかし、実践することがそこまで容易かと言うと答えは……否だ。
シーン姫の発する殺気濃度がイラハに安易な考えを許さないでいる。
「簡単に言ってくれるけどさ……いや、わかった……。俺がやるから手を出さないでくれ」
この獣の性分からして戦いに加われば、姫を殺そうとするに違いない。
現にイラハはアルの拘束を解いた途端、恩知らずにも襲われたし、さっきも敵がいたとはいえ無差別に騎士たち共々、攻撃された経緯がある。
だったら、イラハが姫と戦った方が余程安心できるというもの。
「――っ」
一瞬だが、治まっていたはずの右腕に痛みが走った。痣らしきものがあった辺りだ。
服の上から痛みを感じた前腕を握ってみるが、痛みは本当に一瞬だけのことだったらしく、既に痛みを感じない。
なので、イラハは気に留めなかったが。
「尻尾に掴まりな。特別に上まで運んでやるからよぉ」
「……まさか、俺が近寄ったところを尻尾で攻撃――なんて真似、考えてないよな?」
「しねぇよっ!! どこまで疑り深くなってやがる!」
「現にあったんだから警戒するのは当たり前だろ……」
襲わないにしても、どうにも違和感がある。
人助けと無縁そうなこの獣が、何の意図もなしと言うのはどうも胡散臭い。そんな性格でないことは、イラハはこの短い時間の間に把握しているつもりだ。
どちらかと言えば、人間を憎んでいる節さえ感じる。
「めっちゃ胡散くせぇ」
偽らざる本音を言うイラハに、アルは「ふん」と鼻で笑った。
警戒心を最大にしつつも、イラハは言われた通りにアルの尾を掴む。
「いくぜ」
言うやいなや、アルの後ろ足が床を蹴った。
途端、イラハの身体が物凄い勢いで空中に持ち上げられる。
上へ上へと天井の穴を抜けていくと、あっという間に姫のいるフロアに達する。
見上げる鬼と化した、血化粧に染め上げたシーンがいた。
姫の周りの信じられない光景が視界に入り、イラハはぎょっとしてしまう。
「なんだよ、これは……これ全部、シーンが一人でやったっていうのか……?」
無数の死体が転がっていた。
なぜ触れもせず、一目でそれが死んだものだと思えたかというと――
ある者は首がなく、ある者は胴体があらぬ方へ捻曲がり、ある者は断末魔の形相で胸を穿たれ……
部屋中の壁といい、床、天井にまで、元の色だった白を真っ赤な血で塗り潰していた。
普段は嗅ぎ慣れない鉄の臭いが、否応なしに鼻腔に侵入する。
その臭いの元が何であるかを知覚してしまうと、脳が瞬時に拒絶信号を身体の隅々に送ってしまい、イラハの総身が恐怖で震えてしまう。
調べる必要もなく、死体――、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体――
どこを見ても物言わぬ亡骸ばかり。
地獄絵図――そう表現するのに、これ以上ない光景だった。
救いなのは、姫を助けに来たと思われる騎士の姿は少なく、ほとんどが下の階にもいたゴブリンやオークのものだったので、イラハはギリギリではあったがみっともなく嘔吐を撒き散らすような真似にはならずに済んだ。
その感情が気休めなのはわかっている。
けれど、そうでも思わなければ、平和に慣れているイラハにとって、この惨殺現場に居続けるだけでも身を切る思いなのだ。
瞼の裏にまで焼き付きそうだ。
きついものはきつい。
「何をやったらこんなことになるんだ……?」
「ほら、隅っこを見てみろよ」
恐ろしい惨状に顔をくしゃくしゃに歪めながらも、イラハは言われた通りに首を動かした。
両開きの窓は開きっ放しになっており、外のバルコニーにまで死体と血の海は続いている。
そこには動かぬ身となった者の中で、騎士以外に唯一の人の死体が。
濃い緑色のローブを本来なら頭から被っていただろう、首から上が失われた遺体がある。流れ出た大量の血は既に固体になっている。ゆったりとした大きさのローブなので身体の線は出ていないが、腕の裾から見える手は年老いた女のものに思えた。
首には血に濡れた大き目のペンダントをしている。
「魔術師……か?」
「ああ。おそらく、そいつがそこら中にいる妖魔どもを率いて来たんだろうぜ。見ろよ、そいつの首に掛かっている金ピカのやつ。何か嫌な魔力を感じやがる。多分それが原因でゴブリンどもは従っていたのよ」
「なるほどな……って、あれ? ……お前、飛べたのかよ……」
気付けば、周囲を見回した後にゆっくり話す時間がなぜかあったわけだが、そこで滞空時間が異様に長いことに気付く。自然落下のそれではなく、かなりゆっくりと降下をしている最中だった。
「飛ぶことはできるが、これは飛んでるわけじゃねぇ。風の力で落下を遅らせてるだけよ」
「飛べるのか!?」
「だから、覚悟しとけよ。手の届くとこまで落ちたら……来るぜ」
何が来るのかを問うまでもない。
今か今かと鬼化したシーンが待ち構えていたのだから。
「――――」
掴んでいる尻尾が後ろに動いたので、イラハの身体も当然同じように動き、
「ほぉらよっ! お前の方から行ってやんなっ!!」
「――――」
テイクバックした尻尾が、勢い良く前に放たれた。
投手が投げる球のように、何の遠慮もなく放たれた豪速球――もとい、イラハはあろうことか鬼姫に向かって投げ飛ばされてしまった。
「な! ……ふざけるな、てめえぇ!!」
イラハは刀や剣を手にアルと斬り結びもしたし、アルの生意気な言葉遣いも無茶苦茶な言動も体験してきたが、よもやここにきて今日一番の怒りが喉の奥から飛び出ようとは。
横にも縦にも曲がることなく、ただただ真っ直ぐ飛んでいく。
イラハの想像とは大きく異なる不本意な形で、鬼に心を支配されたシーン姫との戦いが始まるのだった。
知らぬ間に生まれた不思議な痣を深く考えず、後回しにし続けてきた自分の判断を、この後、後悔するとも知らずに。