12・友樹の嘆き②
こいつは一体、何者なんだ。
友樹は合点のいかない表情で、中三レベルの数学と格闘する同年代の少女を眺めた。数学の理解力は、かつての教え子ジェニーと一緒の絶望レベルである。
しかし、こいつはあのジェニーではない。断じてない。
見た目からして三、四歳は歳くってるし、それになにより……。
「わかんなーい……。ふぅ……」
あのジェニーだったら、この程度の証明問題に根を上げるようなことをほざいたら、即丸めたノートでひっぱたいてやった。
しかし、そんなことはできない。
なんだこの妙に色っぽい「ふぅ……」は……。
「んっ? どうしたの?」
そして意味もなく労わるような視線を向けるな!
友樹は心配そうにこっちを見てくる相手から、思わず目をそらした。
やりづらい! やりづらいったらない!
「疲れたなら、コーヒーでも持ってこようか」
なぜかマダム・ギユウに「ジェニー」と呼ばれている少女は、椅子から立ち上がって部屋を出て行った。友樹はジェニーにそうしていたように、週二回マダム・ギユウのマンションにやってきて、「ジェニー」の家庭教師をしているのだが……。
「はー……」
友樹は椅子の背にぐったりと背中を預けた。どういうわけだか緊張している。気が張って思った以上に疲れている。なぜだ。どういうことだ。
「ジェニー」の部屋に視線をめぐらせると、本棚にまた西洋美術の本が増えていた。
「ジェニー」は絵画に興味を持っているらしかった。一緒に行ったドラクロワ展で、ガラスで守られた『民衆を率いる自由の女神』に魅入っていた「ジェニー」。よほど感激したのか瞳には涙が盛り上がり、絵の前から離れようとしなかった。
絵画にあんなに没入する女の子に出会ったのははじめてである。
正直、友樹はあのとき、作品を観ている「ジェニー」の横顔のほうが、絵よりもずっと気になってしまった。友樹も芸術は好きなので……同じ趣味を持つ者として気持ちはわかる。そんなわけで、「ジェニー」のこともすこし意識したりなんかもするのだ……。
(すこしだけどな! ほんのすこしだけどな!)
画集や西洋美術史の本が並ぶ本棚の横には、肖像画のポスターが張られている。
ロマン主義絵画の巨匠ドラクロワ三十九歳の自画像である。ほかにも本から拡大コピーした少年時代の肖像や、無名だった画学生時代の肖像まで並べて飾ってあるところから察するに、ドラクロワはどうやら「ジェニー」のアイドルであるようだ。
(ふん。えらそうな顔だ)
友樹は偏屈そうな画家の肖像から、勢いよく顔をそむけた。しかし視線をそらした先には、老年時代のドラクロワの写真が写真立てに入って飾られているのであった。
気に入らない。
なんだか気に入らない。
自分でもなんだかよくわからないが、気に入らない。
人を見下したようないけすかないジジイの写真を横目に、友樹は写真立ての横にいつも置いてある美術文庫に手を伸ばした。新書サイズのお手軽なミニ画集である。もちろんドラクロワの……。
ページをめくろうとすると、最後のページが勝手に開いた。持ち主の「ジェニー」が何度もそのページを開いたから癖がついているのだろう。そのページにはぐりぐりと濃く赤線が引かれていた。なんだろうとのぞき込むと、解説文の中に画家セザンヌの言葉が引用されていた。
セザンヌは印象派を乗り越え、二十世紀絵画へ決定的な影響をあたえた、言うなれば「現代美術の父」である。
セザンヌは語る。
『ドラクロワのパレットは、今なお、フランスのもっとも偉大なパレットである。静寂で悲劇的な作品においても、躍動する作品においても、ドラクロワほどに豊かな色彩を駆使した画家はこの世にいない。我々はみな、ドラクロワを通して描いているのだ』
友樹はパン!と音を立てて画集を閉じた。
(ちっくしょー……)
謎の闘志が心に滾る。なにに闘志を燃やしているのかよくわからないが、滾るものは滾る。ちっくしょーちっくしょーちっくしょー。
僕だって。
時代を越えてやるぜ。
「ジェニー」の机に大事に飾られた写真にギッ!と険しい目をむけたところで、ドアが開いた。コーヒーのいいかおりが、優しい手で運ばれてくる。
「おまたせー」
カップを机の上に置く「ジェニー」のやわらかそうな手と、ペンダントの暗緑色の石がゆれる胸元を交互に見ながら、友樹はぼんやりと思った。
(こいつがジェニーだったころはよく抱きついてきたくせに、「ジェニー」になってからはちっとも……)
ぶんぶんぶん! おもいきり首をふる。
(なに考えてるんだ僕は!)
「……どうしたの友樹くん? もしかして具合でも悪い?」
「ジェニー」は友樹の額に手のひらを当てた。
「さ、触るな!」
「あ、ごめん。でも顔赤いよ? 友樹くん色白だからよくわかる……」
「見るな!」
「風邪薬持ってこようか? コーヒーより生姜湯がよかったかな?」
「世話を焼くな!」
「もう……。むずかしい人だなー」
困ったような八の字眉毛になりながらも、「ジェニー」はおかしそうにくすくす笑っていた。どことなくうれしそうですらあるその様子は……年上の女性のように余裕があって、友樹のストライクゾーンを直撃してきた。
(こんなはずじゃなかった……こんなはずじゃ……)
たすけてくれと思いながらも、なるようになれとも思う。
季節は春。
ときは一九九九年。
二十一世紀の足音は、もうすぐそこまできているのだった。
END
【参考文献】
『ドラクロワ』坂崎坦 朝日選書
『DELACROIX』新潮朝日文庫
『近代絵画史(上)』高階秀爾 中公新書
『ドラクロワ ダンテの小舟』ジェームズ・H・ルービン 清瀬みさを訳 三元社