10・時の狭間で②
『空間越え』のときのように床が消えた。どすんと落ちるようにベッドの上に投げ出される。
(どこかに跳ばされた……?)
でもおかしい。『空間越え』だったら押されて前につんのめるように目的地に着地するのに、上から落とされるような感じだった。
(あっ、『時越え』!? いつどこよここは!?)
つつましやかな寝室だった。秋の夕方であるらしく、部屋は薄暗く窓から紅葉と黄昏色の空が見える。ジェニーは床板にそっと足を下ろした。また「よその女引っぱりこんで!」みたいな展開になったらどうしよう。
どきどきしながら立ち上がり、周囲を見回す。書きもの机があり、手紙が載っていた。封筒の宛名を見てみる。
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ様。
(えっ?)
ウジェーヌの自宅の寝室? いつの? どこの? 少なくとも、画学生時代と駆け出しのころと、一八四九年以降の部屋ではない。
ジェニーはおろおろした。またしらないウジェーヌとご対面なのだろうか。
学生時代とおじ様時代以外のウジェーヌが出てきたら、心の平静が保てそうにない。忘れた恋が復活しそうで。
ドアのむこうから足音がする。
『空間越え』ができないから逃げ場がない。
おもむろにドアが開かれた。
どんぴしゃに、ジェニーが恋した青年期のウジェーヌだった。
さぞびっくりすると思いきや、彼は「あれっ?」と素っ頓狂な声を出した。
「なんで僕の部屋にいるの? さっき玄関前で別れたのに……」
ウジェーヌは自室のジェニーと玄関の方向を交互に見た。
ジェニーは理解した。これは……あの日だ。
ジェニーが魔界の男爵ダークラスとその配下たちをやっつけるところを、ウジェーヌに目撃されたあの日。
あの日ジェニーはフェリとともに、人界までウジェーヌを送って行った。玄関前までついて行って、ウジェーヌの手にキスをして、彼が家に入っていくのを見届けて……。これはあの後すぐの時間なのだ。
ジェニーはすこし迷ってから、あの日訊きたかったことを口にした。
「あのね……ウジェーヌ。悪魔殺しの残酷な堕天使だから、もうわたしのこと、こわくなった? 会いたくなくなった? それがききたくて、戻ってきたの」
「悪魔殺しの残酷な天使? なに言ってるのジェニー。あれは、僕の白昼夢――」
「白昼夢なんかじゃないの。ほんとうのことなの。ねえ、もうわたしのこと……」
「……君に会いたくないなんて思ったことないよ。今だって思ってないよ」
ウジェーヌは顔を赤らめて、ぽりぽりと頬を掻いた。
「ほんと?」
「僕が……君に会いたくないなんて思うわけないよ。無教養でも……言うことがわけわからなくても……残酷な天使でも」
「ウジェーヌ……ほんと?」
「うん」
「よかった……」
「ジェニー」
ジェニーが胸に手を当てて安堵のため息をつくと、ふいに力強く名前を呼ばれた。ウジェーヌが絵を描くときにしか見せないような強いまなざしで、こちらを見ていた。
「だからジェニー……もう突然いなくなるのはやめてよ。さみしい」
「ごめんね。でも……それは無理かも」
「駄目」
「でも……」
「駄目」
子供のようなまっすぐな瞳。
なんて目で見るんだろう。ジェニーは心臓が高鳴るのを感じた。今までウジェーヌがこんな真剣な目で自分を見たことがあっただろうか。
「ごめんね……」
弱々しいジェニーの言葉に、ウジェーヌは下を向いた。ジェニーは申し訳ない気持ちになって、彼の髪にそっと触れた。彼が落ち込むと、無意識によくやっていたしぐさ――。
ふいにその手をつかまれる。ウジェーヌがさっきよりもっと強いまなざしで、ジェニーの瞳を捕える。痛いくらい、ウジェーヌはジェニーの手を取る指に力を入れた。
「駄目。いなくなったら、駄目」
もう片方の手で、ウジェーヌはジェニーの身体を引き寄せた。ジェニーの目の前に、彼の顔があった。黒い瞳は懇願するように濡れ、ジェニーが去ることをおそれていた。ジェニーの手をつかむ彼の手は、小刻みにふるえていた。
「ジェニー……君を失いたくない」
「ウジェーヌ……」
わたしは、あなたを失ったばかりだわ――。
なのに今、あなたはわたしの目の前にいる。
若い日の、一番魂が熱く燃えていたときの姿で、目の前にいる。
わたしの手をとり、わたしの体を抱き寄せて――。
ジェニーはウジェーヌのふるえる手をにぎり返した。それが合図だったかのように、彼の顔が、さらに近づく。
甘い吐息。
最初のくちづけは、触れるようにそっとやさしく。
そしてジェニーの瞳の奥をのぞき込んだあと、ウジェーヌは彼の筆の筆致のような、力強いくちづけをくれた。
窓の外は秋の夕暮れ。
――最後の、夜。
最後の夜、ジェニーはウジェーヌの狭いベッドに彼と並んで横たわりながら、眠らずに過ごした。ウジェーヌの規則正しい寝息を聞き、窓から差し込む月明かりを頼りに彼の寝顔を眺め――彼の晩年を思い返す。流すだけ流して枯れたはずの涙が、油断するとすぐ溢れかえるので困ってしまう。
ウジェーヌを起こさないように、そっと指先で癖のある黒髪にふれる。
肌は床の中でふれあったままだ。
(はううぅ……)
こんなつもりではなかった。
いや、心の底ではこうすることを望んでいたかもしれない。望んでいた気はするけれど、想像外だった。だって彼はもう死んでるし――いや、この時点では死んでないけど――でも死んでるし。ああなんてことだ。
なんてことだ。
愛おしすぎる。
ジェニーは熱いため息をついた。愛おしすぎるけど――。
わかってる。これは「予定外」だ。時の天使のお目こぼしだ。
たぶんもう、時間はない……。
月明かりの届かない片隅の暗がりで、コツンと小さく音がした。ハイヒールの踵が床に触れた音。
「ジェニー」
ささやくように小声で呼ぶのは、第二階級フェリ様。
ジェニーは覚悟を決めた。
さようならだ。
ほんとうにほんとうにさようなら。
今度こそさようなら。
ジェニーはウジェーヌの肌のぬくもりを感じながら、月明かりが照らす彼の寝顔を眺めた。見納めになるウジェーヌの顔。
「むにゃ……ジェニー……」
聞き納めになる彼の声。
ただひとつ救いなのは、自分にとってはさようならでも、彼にとってはさようならではないことだ。
一八四九年になったら、あなたまたわたしに会えるわよ。
それまで元気でね。
心も体も魂も、すべてひっくるめてわたしが愛したウジェーヌ。