10・時の狭間で①
ウジェーヌの魂は一八六三年八月十三日午後七時、天へ昇った。魔界のウジェーヌの炎も、同時に消えただろう。
フェリは彼の最後の炎をみとってくれただろうか。
あの、ときおり赤の混じる暗緑色の炎が消える瞬間を、見届けてくれただろうか。
ウジェーヌがいなくなってから毎日来ている、サン・シュルピス礼拝堂。彼がここの天井画を依頼された年、ジェニーはおじ様ウジェーヌに会ったのだ。この礼拝堂の前でウジェーヌの袖を引っ張ろうとしたら、彼が突然ふりかえったのだ。
あのときのぽかんとした顔を思い出し、ジェニーは笑いそうになった。あれからもう十四年経つのに、きのうのことのように鮮やかに心に浮かぶ。彼が他界してから二ヶ月、遺品の整理をしながらくりかえし思い出していたからだろう。
思い出すたびに涙していたけれど、ジェニーはようやく落ちついてウジェーヌの死を受け止められるようになった。
礼拝堂の天井を見上げる。
天井画が、今日もジェニーを迎えてくれる。
「悪魔を屠るサン・ミシェル」。大きく翼を広げた天使が、天上から舞い降り槍で悪魔を仕留める瞬間の、物語の見せ場とも言える絵だ。イメージは魔界でダークラスを仕留めたときのジェニーらしい。
女の子が恋する男性に描かれるにしては、ちょっとどうかと思いたくなる勇ましい絵である。それに絵の中の天使はジェニーのような少女の姿ではなく、りりしい青年の姿をしているのだ。でもまあ、そのあたりは仕方がない。十九世紀はまだまだ保守的で、女の子が武器を手に雄々しく戦う姿は、二十世紀と違ってなかなか受け入れられないのだ。
(でもうれしいな)
ウジェーヌのために悪魔と戦った力天使ジェニーは、こうして残された。
ジェニーの彼へのはかない恋は、この礼拝堂で輝き続けるのだ。
(わたしの使命は、これだったのよ)
ウジェーヌの芸術を悪魔の手から守ること。上司フェリの意図がなんであろうと、ジェニーはこのために十九世紀に来たのだと、自分で決めた。
「次の使命は百年先の美術史を見届けることね」
「そうね。じゃあそろそろ帰りましょうか、二十世紀に」
ひとりごとに返事があった。ジェニーは驚いて、礼拝堂の入り口を見た。
フェリがいた。
再会を待ち望んでいた堕天使フェリではない。
マダム・ギユウこと識霊天第二階級フェリだ。装いも十九世紀のフルレングスのドレスではなく、二十世紀にふさわしいタイトスカートのスーツだった。
「フェリさ……」
「へーえ。これがオリジナルなのね。はじめてみたわ」
驚きで言葉の出ないジェニーに構うことなく、上司フェリはハイヒールの踵をコツコツいわせて、礼拝堂中央に歩み出た。そして天井画を見上げ、目を細めた。
「……あったわねぇ、こんなこと」
「フェリ様! フェリは!? フェリはどうしてますか!?」
「ここにこうしてるけど」
第二階級フェリはとぼけた顔をジェニーに向け、自分を指差した。
「フェリ様じゃなくって、フェリです! 堕天使の……」
「ほうっておくと禁忌を犯すから、天界に強制送還。西暦一八六三年現在は、監禁の身よ」
「強制送還……いつ? いつですかそれ……?」
「西暦一八二七年暮れ――。魔界の領地は時空が歪んでたから、人界の年代言ってもあまり意味ないけどね。つまりまあ、あなたが人界に戻ってすぐだと思えばいいわ」
自分が一八四九年の人界に来てすぐに、フェリは強制的に天界へ送られ監禁された――。どうりで、待てど暮らせど人界へ来てくれなかったわけだ。
テオドールを助けるために我が身を削って『時越え』研究に打ち込んでいたフェリは、研究があと一息で完成するときになって、天界上層に捕まったのだ――。
「フェリ様が、捕まえたんですか? フェリを……」
「いいえ。この時代の上級天使が捕まえたわ。パルキスの密告で上層が動いたの」
「パルキス? 天界保守派の? 天界でフェリの許婚だった、あの金髪の……?」
「あのプライドの高いバカは私にふられたのが余程許せなかったと見えて、私の領地を探り当てたのよ。結界に穴を開けたのはあいつ。で、結界を破って入り込もうとしてたところを、前々から私の領地に目をつけてたダークラスに先を越されたの。でもダークラスはあなたにやっつけられたからね……。あなたが人界へ去ったところで、パルキスはこっそりまた来たのよ。そして堕天使フェリのやってる研究に気付いた……。堕天使が大変なことをやっていると知って、あいつは上層に報告したの。その後天界から上級天使が大挙して領地にやってきてね――大騒動だったわ。若かったころの私の逃げ足のはやいことはやいこと。『空間越え』で世界中をぽんぽんと。結局捕まっちゃったし、魔界の領地も上級天使に押さえられちゃったけど。あの岩場は、天界が所有してるわ。『魄』を目の仇にする保守派の連中じゃないから、『泉』は自然なまま燃えてる」
「……フェリはまだ捕まったままなんですか?」
「いやここにいるから」
「フェリ様じゃなくってフェリ――ああもう、ややこしい!」
「あの子にはまだ試練の時代が残ってるのよ。今ごろ天界で荒れ狂ってるわ。でも試練は無事乗り越えるから大丈夫。本人が言ってるんだから間違いないでしょ」
「……」
「本人が大丈夫って言ってるのに、そのせつなげな顔はなに?」
第二階級フェリは、疑問があるというよりおもしろがっている様子で、ジェニーの顔をのぞきこんだ。
「フェリは……あんなにがんばったのに……テオドールにもう会えないんですね」
心が壊れるほどに、フェリは再びテオドールに会うことを望んだのに。それはもう、叶わなくなってしまった……。
ジェニーは鼻の奥がつんと痛くなるのを感じた。テオドールを蘇らせるのが禁忌であり許されないことは、わかっていたことだ。でも、たったひとつの望みを砕かれてしまったフェリの気持ちを思うと――どうしてそのとき自分は魔界にいなかったのだろう、逃亡を手伝うことができなかったのだろう――そんな思いを持ってしまう。
助けたかった。フェリを上級天使の捕縛から、逃がしてあげたかった。テオドールにもう一度会わせてあげたかった。
不甲斐ない自分。ジェニーはうつむいて唇を噛んだ。
フェリはそんなジェニーの肩に、ぽんと手を置いた。
赤い石の指輪が輝く手を。
「あなたが私の想いを知っててくれるだけで、もういいのよ」
フェリの言葉に、ジェニーは顔を上げた。
フェリは微笑んでいた。
絶望を乗り越えた者の、おだやかに凪いだやさしい笑顔だった。
「ありがとう、ジェニー。あなたがいてくれたから、私は今の私でいられるのよ。苦労かけたわ。ごめんなさいね」
「フェリ様……」
「だから一度だけ、お目こぼししてあげる。想いを遂げてきたらいいわ。そのくらいなら、歴史も許してくれるはずよ」
「想いを遂げるって……えっ?」
足元の床がぐにゃりと溶けたような気がした。体を何度も回転させたあとのようにくらくらと視界が回る。ジェニーは助けを求めてフェリを見た。企みごとに長けた上司はやさしげな笑顔を浮かべたまま、ジェニーの視界の中で歪んで消えた。




