9・1849年~ パリ⑦
ウジェーヌとジェニーのささやかな白い家。
裏庭に建てた小さなアトリエ。
ウジェーヌは弟子をとることを嫌ったから、大家と呼ばれたわりにはずいぶんつつましいアトリエだった。彼は「先生、先生」ともてはやされるより、いつもひとり孤独に自分の霊感と向き合うのが好きだった。
すぐそばには大きな教会があって、死の床のウジェーヌはその鐘の音をききながら、ジェニーの手をにぎっていた。
ウジェーヌは見舞いに訪れた親類や旧友たちに「休んでください」と言ったけれど、ジェニーの手だけはずっと離そうとしなかった。
ウジェーヌの苦しそうな息づかい。もしも死神が本当にいるのなら、死の鎌を奪い取って撃退してやるのに……。
ジェニーは唇を噛んだ。
死神なんていない。
決してとられたくない人が今まさに連れていかれそうなのに、戦う相手はいない。力天使なんて、なにもできない。天使なんて、なにも――。
「ジェニー、ありがとう……」
弱々しい声で、ウジェーヌは言った。
「いいのよ……。たいしたこと、してあげてないわ」
「そんなことないよ……。君がいてくれたから、私はここまで来られたんだ。君に出会えなかったら、きっとあきらめてた……」
「あなたはひとりだってあきらめたりしてなかったわ。強いもの」
「強くないよ。いつも迷ってた。迷ってると君が来て……。君と話すと天啓が湧いた。少年時代からずっと――。ダンテの小舟のときも、天井画のときも」
「そう……? でも無教養で、ごめんね」
「落ち込んだときは元気づけてくれたし……。髪をなでてくれて……」
「こんなふうに?」
ジェニーはウジェーヌの髪を指で梳いた。
いつだったか、彼の髪をなでるところをフェリに見られて、ひどくからかわれたっけ。
あのころは、こんな日が来るのはもっとずっと遠いことだと思っていた。
今だって、死の床の彼が現実だなんて思えない。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
笑おうと思うのに、涙がにじむ。
ありがとうが別れの言葉のようで、きゅっと胸がしめつけられる。
「もっと君といたかったな……」
「そんなこと言わないで。まだずっと一緒に――」
ずっと一緒に。
そんなことは無理だとわかっていても、彼をあきらめたくなくて、遠のく命を引きとめるように、ジェニーは強くウジェーヌの手を握った。
「天使に生まれたかったな……。人間でごめん、ジェニー……」
「なんであやまるのよ……」
「君とつりあう男でいたかった……」
「馬鹿ね。つりあうわよ。おつりが来るわよ」
ジェニーがそう言うと、ウジェーヌは小さくほほえんだように見えた。
「最後に、お願いがあるんだ……」
低く小さな声で、ウジェーヌは言った。
「お願い……?」
「君にしか頼めないこと……」
「わたしにしか……?」
「百年後の私を見てほしい。天使とつりあう男になってるかどうか、君の目で確かめて」
ジェニーは強くうなずいた。
大家と呼ばれはしたけれど、ウジェーヌ・ドラクロワの芸術が歴史に残るに足るか否かの判定は、まだついていない。
彼の生涯をかけた戦いの成果は、今より未来の時間が査定してゆく。それこそ、判定が出るのは百年先かもしれない。歴史の判定を見せてあげたかった。もっと長く、生かしてあげたかった。
「うっうっ……ひっく……」
ジェニーは泣いた。泣けて泣けてしょうがなかった。できることなら、自分の命の時間をわけてあげたかった。
教会の鐘が鳴る。
ウジェーヌはもうそれっきり、なにもしゃべらなくなった。
パリの夏はいつまでも暮れないと思えるほど日が長いのに、彼の命の帳はすぐにでも落ちそうだった。
夕方まで、ウジェーヌはジェニーを見つめていた。そして満足そうに深く息をして、静かに瞳を閉じた。
もう開かれない画家の目が、最後に映したのは天使だった。
彼の画業に寄り添い続けた天使だった。
子供の寝息のような呼吸が、徐々にか細くなり、ゆっくりと消えた。
安らかな最期だった。
ウジェーヌはもう動かない。にぎった手はまだあたたかいのに、ジェニーの手に重くもたれかかるようで、ぴくりともしなかった。この手が自由に筆を走らせる日は、もう決してやってこないのだ。
おどおどとジェニーの髪をなでることも、もう決してないのだ。
(若い日に一度だけ、この手で抱きしめてくれたこともあったわ……)
あのとき抱きしめ返せなかった代わりに、ジェニーは力ないウジェーヌの手を胸に抱えて、ぎゅっときつく抱きしめた。
彼の手は、もうなにも答えてはくれなかったけれど、あの遠い日、ほんとうはこうしたかったから……自分もウジェーヌを抱きしめたかったから……。だから。
さようなら。
大好きなウジェーヌ。