3・1999年 東京②
「てめこら。コスプレしてくるなって言ったじゃないか」
「コスプレじゃないで~す。だって十九世紀の絵を観るんでしょ? それにふさわしい格好してきただけですよ」
友樹との待ち合わせは、人でにぎわう上野駅公園口改札前。
ジェニーはクラシカルロリータ系のマキシ丈のワンピースを着て行った。上半身は細身で裾はふんわり。胸元に細かく寄せられたタックとたくさん並んだパールのボタンがブルジョワお嬢様風。色調は上品でつややかな蜂蜜色だ。
「十九世紀の絵を観るから十九世紀風の格好をするって発想が、もうコスプレなんだよ! 恥ずかしいからその頭の飾りだけでもとってこい!」
「え~」
「とってこないと僕は帰る」
「わかりましたよう。いけず~」
ジェニーはヘッドドレスをはずすために、しぶしぶ駅のトイレへ向かった。
ふりかえると改札前で、友樹が腕を組んでこっちをにらんでいる。繊細な容貌に似合わず友樹はなかなか鬼軍曹なのだ。
そんなところもステキなのよねーとジェニーはうっとり見とれてしまった。友樹は去らないジェニーをしっしっと追い払うように、手をふった。
ああん犬じゃないわ。いけずぅ。
友樹をふりかえりふりかえり駅のトイレに入り、鏡の前に立つ。縦ロールを崩さないようにそうっとピンをとってヘッドドレスをはずす。
ああ、地味なヘアになっちゃったわ。こんなことならカチューシャにすればよかった。
(ついでにおトイレしてっちゃお)
ジェニーは個室のドアを開けた。
開けた途端にバタンと閉めた。
そしてもう一回、今度は十センチほどドアを開け、隙間から覗き込むように中を見た。
洋式便器があるはずの場所に、奇妙に捻じくれ絡まり合った樹木の枝が張り出していた。手を伸ばせば壁のタイルに届くほどの狭い空間のはずなのに、そこには鬱蒼とした森がひらけていた。蛍光灯のまたたく低い天井のかわりに、赤紫の雲が渦巻く空がある。薄暗い空の彼方からきこえる、カラスの声をもっと邪悪にしたような、ギャアギャア耳障りな鳥の鳴き声――。
パタン。
ジェニーは静かにドアを閉めた。ほかの個室はまともなトイレのままのようで、水を流す音がする。ジェニーは清掃用具入れからずるずると「清掃中」の看板をひっぱり出し、トイレの前に立てた。そして利用者がいなくなるのを待って、ハンドバッグから携帯電話を取り出した。
「もしもし。フェリ様ですか? 今上野駅にいるんですけど、公園口トイレの個室が魔界になっちゃってますよ。……そうです、『扉』が生まれちゃったみたいです。わたしじゃ封印できないんで、すぐ来てください。デートなんで、すぐお願いします。すぐですよー」
(もお。こんなときに)
ジェニーは落ち着いていた。魔界への『扉』の出現に出くわしてしまったのははじめてだけれど、話にはよくきいていた。
人界から魔界へ抜ける『扉』と呼ばれる次元の穴は、山や湖など自然エネルギーが溜まる場所に開くことが多い。しかし人工の増加によって人的パワーが自然エネルギー並みに増大し、大都会にも開くようになった。人間が魔界に落ちると面倒なことになるので、街中の穴は塞ぐことになっている。
しかしジェニーには『扉』の封印技術がなかった。天使として未熟だからというより、ジェニーは封印や結界などをほどこす素質がもとからない属性の天使なのだ。
(フェリ様おそいなあ。『空間越え』なら三秒で来れるはずなのに)
ジェニーはもう一度バッグから携帯電話を出した。今度は友樹にちょっと待っててと電話するつもりだった。
友樹の番号を表示しようとしたところで、森になっている個室から物音がした。ジェニーは携帯をしまってバッグを鏡の前に置き、個室のドアを見据えた。ドアから目を離さずに、清掃用具入れに手を伸ばす。
そうだ、こっちから人間が魔界へ落ちることばかり考えていたけれど、向こうから魔族が人界に入ろうとする場合だってあるのだ。
唇を舌で湿らせる。
封印も結界も『空間越え』もできないけれど、戦闘だったらお手のもの。
ジェニーはモップを手に取った。長い柄を槍のように持って身構える。魔族でもなんでも、かかってきなさい。一突きで魔界に叩き返してやるから――。
バン!
中から個室のドアが開く。
ジェニーはモップの突きを繰り出すことができなかった。
出てきたのは魔族ではなく、白い翼を大きく広げた、ジェニーとおなじ天使だったから。