3・1999年 東京③
「うわ! なにここどこここ!?」
『扉』から人界に迷い出てきた天使は、翼をひろげたまま天界言語であわあわと口走った。そのままトイレから駅構内へ出ていこうとするので、ジェニーはあわてて彼女――見た目はジェニーよりやや年上の若い女性――の腕にしがみついた。
「だめだめだめ! ここ人界ですから! 翼しまってください!」
「人界っ? あんた誰?」
「あなたの同類ですっ」
「天使が同類とか言わないでよ。あたしはもう同類じゃないよ。堕天使なんだから。魔界に堕ちたんだから。ああ、人界なんか来てる場合じゃないわ。はやく戻らなくっちゃ。あたしの『泉』が大変なことに――」
「だ、堕天使ってこの時代めずらしいけど……。そ、そうですね、なんにしろこの場ははやく立ち去ったほうがいいですね、うん」
堕天使をドアの中へ押し戻そうとするジェニー。
その腕を、堕天使がはっしとつかんだ。
「あんた属性なに?」
「力属性ですけど……」
「戦闘属性ね。協力しなさい」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
堕天使はジェニーに有無を言わせず、個室の森に引っぱり込んだ。ドアの内側に床はない。ジェニーは森の木々の間を落下しそうになり、あわてて自分の翼を開いた。
翼の浮力で濃紫の下草にうまく降り立ち、空を見上げる。
紫のジェルをかき混ぜているような、うねうねと流れる雲。太陽も月も星もない魔界の空。なんとか視界がきく薄闇の世界。
映像でなら天界で見たことがあるけれど、実際の魔界ははじめてだった。紫の濃淡が渦を巻く空の下、魔樹の枝の絡まりの間に、トイレのドアと人界からこぼれる蛍光灯の明かりが見える。
「……帰らせてください」
ジェニーは横にすとんと降り立った堕天使に言った。
「あたしの『泉』を無事とりかえしてくれたらね」
堕天使は返事と同時に、うしろに回ってジェニーの翼を抱え込んだ。
「ぎゃっ、なにすんの! 帰るってば! デートなのに!」
「あばれるんじゃないわよ。往生際が悪いっ」
「あなたの『泉』なんてしったこっちゃありませんよう! 堕天使なら堕天使らしく、自分の縄張りは自分で守ったらどーですかっ。わたしには重大な使命があるんですっ。今年中に友樹くんをオトさなくっちゃ二十世紀中に赤ちゃんが産めない~」
「うるさい! あたしは天界の『使命』なんて目じゃないくらい重大な歴史的意義を背負って魔界に来てんのよ! あたしの『泉』にくらべたらあんたの使命がなによ!」
翼を羽交い締めにされた状態のまま、ジェニーは足元の地面が消えたのを感じた。次の瞬間、背中を強く押されたようにつんのめって前方の地面に投げ出される。戦闘属性の身体能力を持って、きれいに受け身をとって立ち上がる。
なにが起こったかはわかる。堕天使に『空間越え』をさせられたのだ。
捻じくれた木々が立ち並ぶ森は背後に退いていた。今いる場所は乾いた岩場だった。
巨岩を積み重ねたような小山が、珍奇なオブジェのように点在している。そしていくつかの小山を視線でたどった先に、赤々と燃え立つ火柱が見えた。小山の高さはジェニーの身長の五倍ほど。火柱は小山と同じくらいの大きさに燃え上っていた。その火がなんであるか、見たのははじめてでも知識としてジェニーはしっている。『泉』だ。
魔界の『泉』。『魄』と呼ばれる、魔界のエネルギー源が湧く場所。
魔族は魔力を発揮する際に、力の源として『魄』を必要とする。『魄』はなにから生まれるかというと、人間の活動から生まれる。どのような人間の活動が『魄』を生みだすのかというと……。
陶酔。狂騒。感動。情熱。――そういった、心を熱くするもの。
際立った個人の熱く滾った興奮が、人界から魔界に滲んで『魄』を湧かせ、『炎の泉』として燃え立つのだという。
だから悪魔たちは人界に出かけて行っては、大きな情熱を心に秘めた人間を鵜の目鷹の目で探し出すのだ。
頭のよい悪魔は情熱を秘めた人間の見極めが上手い。そうやって人間をチョイスしてうまく育てあげ、自分の領地の『魄』の量を増やしてゆくのがスマートな悪魔。しかし、別のやり方で『魄』を我が物にする悪魔もいる。
泉の強奪だ。
「あれがあなたの『泉』? 横取りされちゃったんですか?」
「横取りされちゃたまんないわよ! せっかくあそこまで大きく育てたのに。とりかえすわよ!」
赤い火柱の下では、黒サイのような頭部とごつい体を持った悪魔が、配下らしき数人の悪魔に囲まれていた。黒サイのくせに封建時代のヨーロッパ貴族のような、刺繍の入った長上着を着ている。
魔界ってふつうにレトロ趣味OKなのね、いいなあ……と、ジェニーは思った。
「横取りも魔界では芸のうちでしょ? 困るなら自分でとりかえしてくださいよ」
人の情熱を育てるなどという繊細な作業が苦手な悪魔もいる。そういう輩はもっぱら暴力でよその『泉』を奪う。魔界には人界のように所有物を保護する法律なんてないので、それもアリである。
「とりかえせないから恥をしのんであんたに頼んでんの!」
「その強引さのどこに恥じらいがあるんですかー。見たところそんな強い悪魔じゃないんじゃありません? あの程度のやっつけられないようじゃ、魔界暮らしなんて無理でしょ」
「お、おだまりっ」
「あきらめて天界に帰ったほうがいいんじゃないですか? うまく戻れるようにわたしの上司に頼んであげますよ。手回しが得意な上司ですから」
「うるさーい! 歴史的意義を背負ってるって言ったでしょ! いいから行け!」
ジェニーは堕天使の霊力でふっとばされ、黒サイの前へおどり出てしまった。




