第9章:回復の兆し
ヴェリア村を、ゆっくりと朝の光が包み込んでいく。
外では、人々の生活の息吹が活気となって漂い始めていた。
市場からの帰り道にすれ違う隣人たちの明るい笑い声や、収穫期を前に畑へと急ぐ農民たちの足音が、かすかに響いてくる。
誰もが新しい一日を、新鮮な熱意とともに迎えようと忙しく動き回っていた。
だが、そんな陽気な村の鼓動は、ジョーの暮らす古びた木の家の中までは届いていなかった。
ジョーが狩りに出ようと、ちょうど玄関の敷居をまたごうとした時のことだった。
家の中に、掠れた小さなうめき声が響いた。
それに続いて、居間にある竹編みの長椅子がギシギシと荒く軋む音が聞こえる。
熟練の猟師であるジョーの耳は、そのわずかな物音を逃さなかった。
「ケイトか!」
反射的に呟いた。
泣きながら飛び出していった娘が帰ってきたのかもしれないという、わずかな希望が胸によぎる。
ジョーは素早く振り返った。
だが、そこに娘の赤い髪はなかった。
少し離れた場所で、昨日コールと一緒に手当てをしたばかりの見知らぬ青年が、ぎこちなく身じろぎしているのが見えた。
ジョーは時間を無駄にすることなく、小走りで青年に駆け寄った。
「おい、坊主。具合はどうだ。少しは良くなったか?」
タカヒロはすぐには答えなかった。
まぶたをパチパチと瞬かせ、朝の光に目を慣らそうとする。
視線を巡らせ、見慣れない木の天井や竹編みの壁をじっと見つめた。
白い包帯の下で、全身の神経を切り裂くような激痛が再び目を覚まし、体を硬直させる。
唇から、微かなうめき声が漏れた。
(……ここは、どこだ?)
心の中ではそう叫んでいたが、舌が痺れて動かない。
ひどい干ばつに見舞われたように喉はカラカラで、まるでヤスリをかけられているかのようにヒリヒリと痛んだ。
痛みで顔をしかめながら、なんとか身をよじろうとするタカヒロを見て、ジョーは手助けすることにした。
体を起こしてやる前に、まずは水を一杯持ってこようと台所へ向かう。
タカヒロは薄く開いた目で、その見知らぬ男の動きを追っていた。
男が今しがた放った言葉を、頭の中で反芻する。
耳慣れない奇妙な単語ばかりだったが、なぜか意味ははっきりと理解できた。
それはまるで、生粋の東京人が、田舎の訛りが強い地方の言葉を必死に聞き取ろうとしているような感覚だった。
言葉も訛りも違うが、ニュアンスだけは掴めるのだ。
ジョーが戻ってくるのを待つ間、タカヒロは無理やり手首を回してみた。
額に豆粒ほどの冷や汗が浮かぶ。
尋常ではない痛みが走るが、耐えなければならなかった。
このまま体を動かさずにいれば、筋肉や関節が永遠に固まってしまうような気がしたからだ。
その努力は実を結んだ。
まだ動きはぎこちないものの、手首の筋肉が脳からの指令にしっかりと応えてくれたのだ。
タカヒロが残りの力を振り絞り、なんとか身を支えて座ろうとしたその時。
部屋の向こう側にある古びた仕切りの陰から、人影が動いた。
ベリンダが現れたのだ。
中年の彼女の顔は、先ほどの吐血のせいでまだ少し青白かった。
しかし、その青みがかった瞳は、タカヒロを母親のような温かい眼差しで真っ直ぐに見つめている。
「待たせたな……。」
ジョーの言葉は宙で途切れた。
コップの水を差し出そうとしていた彼の手は、ゆっくりと歩み寄ってくる妻の姿を見てピタリと止まった。
ジョーは黙り込んだ。
残りの言葉を飲み込み、まだ弱っている妻を咎めることはせず、彼女に場を譲る。
ベリンダが長椅子の横にしゃがみ込み、タカヒロと視線を合わせた。
それを見てから、ジョーは後ろから近づき、再びコップを差し出した。
タカヒロは、限界に達した喉の渇きを覚えながら、その透き通った水を見つめた。
ジョーの手からコップを受け取ろうと腕を上げるが、再び強烈な痛みが走り、腕が麻痺したように動かなくなる。
結局、指先をわずかに動かすことしかできなかった。
ジョーにそのまま口に注いでくれと、必死に懇願するような小さな合図だ。
一番近くにいたベリンダが、すぐにその意味を察した。
彼女は迷うことなく少しだけ身を起こし、夫の手からサッとコップを取り上げた。
「あらあら!」
突然、ベリンダが声を上げた。
その唐突な動きに、ジョーはビクッと肩を揺らす。
まさか妻にコップを奪われるとは思っていなかったのだ。
しかし、気まずい沈黙が流れる中、妻の優しい声が再び響き、その空気を和らげた。
「ちょっと手伝ってちょうだい」
優しくも、有無を言わさぬ口調だった。
「この子が飲みやすいように、体を起こしてあげて」
その柔らかい指摘は、ジョーの意識をハッとさせた。
(……俺はなんて馬鹿なんだ。自分で飲めるわけないってことに、なんで気付かなかったんだ)
心の中で自分を罵る。
ジョーは何も言わず、すぐにタカヒロの背中に両腕を回した。
青年の重い体を支え、自分の胸に寄りかからせて座らせる。
体が思うように動かず絶望しかけていたタカヒロの胸に、再び希望の光が灯った。
瞳の緊張が解け、口角がわずかに上がって薄い笑みを浮かべる。
それは、ベリンダの細やかな気配りに対する、心からの感謝の印だった。
夫婦の連携は見事だった。
ジョーが背中を支え、ベリンダが慎重にコップを傾ける。
冷たい水が、干上がったタカヒロの喉を潤していく。
極限の渇きが満たされた。
とてつもない安堵感が胸を満たしていく。
今すぐきちんとお礼を言いたかったが、喉の奥のイガイガが邪魔をして、声はまだ出せなかった。
青年が十分に水を飲んだことを確認し、ジョーはタカヒロの背中を元の位置に戻そうとした。
だが、体が半分ほど倒れかけた時、タカヒロの硬直した手がジョーの膝に触れ、その動きを止めた。
同時に、ベリンダの視線が、タカヒロの唇の微かな動きを捉えていた。
「ちょっと待って」
ベリンダがすかさず止める。
「何か言いたいみたいよ」
ジョーの動きはピタリと止まった。
タカヒロの体を、半分だけ起こした状態のまま維持する。
ベリンダは神経を集中させた。
声を振り絞ろうと震える青年の唇を、じっと辛抱強く見つめる。
タカヒロの必死の努力は、ついに報われた。
一文字ずつ、震える声と奇妙なアクセントで、言葉が口からこぼれ落ちる。
「あ……り……が……と……う」
それは、ひどく丁寧でフォーマルな、京都弁のような独特のイントネーションだった。
苦労して絞り出した、たった一言。
だが、ベリンダにとってはそれで十分すぎた。
心が温かくなる。
彼女は思わず手を伸ばし、タカヒロの手の甲に優しく触れた。
しかし、返事をする前に、慌てて指先で自分の口元を覆った。
その奇妙で丁寧すぎる訛りを聞いて、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えていたのだ。
「普通の話し方でいいのよ。無理に私たちの言葉に合わせなくて大丈夫だからね」
支える役目が終わったことを察し、ジョーはゆっくりと腕を離して一歩後ろへ下がった。
妻の隣に立ち、大きく開かれた玄関のドアへと視線を向ける。
朝の陽光がじわじわと高くなり、昼が近づいていることを告げていた。
もう出発しなければならない時間だ。
「ベリンダ、それじゃあ狩りに行ってくるよ」
敷居をまたぐところで、ジョーはそう優しく告げた。
「それから、坊主……。」
ジョーの足が止まる。
その言葉は宙に浮いたままだった。
彼は振り返ることなく、父親特有の温かみのある声で付け加えた。
「うちでゆっくり休んでな。すぐ戻るから。狩りの帰りに、何か食いたいものはあるか?」
突然の問いかけに、タカヒロは眉をひそめた。
今の自分が飲み込めそうな食べ物は何か、必死に頭を回転させる。
そして、声を出さずに言葉を紡ごうと口を開いた。
ベリンダは目を細め、そのゆっくりとした唇の動きを読み取る。
彼女が読み取れたのは、最初の文字が「ト」で、次の文字が「リ」という形だけだった。
(……ト……リ……?)
ベリンダは頭の中で繰り返す。
そのパズルを解こうと必死に思考を巡らせた。
考えている最中、病気の影響で再び胸が苦しくなる。
しかし、痛みに耐えながら必死に答えようとするタカヒロの顔を見て、彼女は気力を振り絞った。
息苦しさを飲み込む。
ちょうど外の庭に視線を向けた時、隣人が飼っている鳥が、のんびりと横切っていくのが目に入った。
その瞬間、頭の中でパズルのピースがピタリと噛み合った。
文字の響きと状況から、ベリンダは迷うことなく彼が言おうとした答えを代弁した。
「大きな野性の鳥をお願い。それから、絶対にメスを捕まえてきてね。メスの鳥の方が、オスよりもお肉が柔らかくて料理しやすいから」
玄関にいたジョーは、すぐに肩越しに振り返った。
タカヒロが言い終わる前に飛び出した妻の細かすぎる注文に、黄色い目をパチパチと瞬かせる。
予想外の詳細なリクエストに、彼の顔は一瞬固まっていた。
「そういうことだから、忘れないでね!」
ベリンダは短く、少し命令するような口調で念を押した。
長椅子の上で、タカヒロはただ呆然としていた。
口をわずかに開け、ゆっくりと瞬きをする。
包帯で縛られた体は動かせなかったが、この家族のやり取りはしっかりと目に焼き付いていた。
先ほどのベリンダの素早い対応は、彼に非常に良い印象を与えた。
この赤茶色の髪の女性のことは全く知らない。
だが、なぜか彼女の周りの空気はとても落ち着くのだ。
彼女から滲み出る母親のような温かさが、知らず知らずのうちにタカヒロの心に染み込み、この見知らぬ場所で思いもよらないほどの安らぎを与えてくれた。
これ以上反論しても無駄だと悟り、ジョーは楽しげに鼻を鳴らすと、再び足取りを力強く前へと向けた。
「分かった。お前さんの注文通りに持って帰ってきてやるさ、若いの!」




