第72章:待ちわびた帰還
森の涼しい空気が、肌に滲んだ汗をゆっくりと拭い去っていく。村への帰路につくタカヒロたち一行にとって、それは何とも言えない心地よさだった。道中の障害も、もはや行きほどの重圧には感じられない。
だが、彼らの足並みは、あの百獣の王が倒れている『出発点』に差し掛かった途端、見事に揃って減速した。
巨大な猛獣は微動だにせず横たわっている。麻酔の影響か、その分厚い胸板はゆっくりとしたテンポで上下に波打っていた。
レオはゴクリと唾を飲み込んだ。再び巨大な肉食獣を前にして、ガタガタと震え出しそうになる両膝を必死に押さえつける。
イーターが肩越しに視線を向け、青ざめた仲間の顔に気づいた。彼は歩みを止めず、早口で囁く。
「落ち着け。万が一あいつが目を覚ましてもパニックになるなよ。絶対に散り散りになるんじゃねぇぞ」
小さな一行は、息を殺して抜き足差し足で進んだ。眠りこける巨体の横を通り抜ける際、地面を擦る足音すらほとんど立てない。幸い、ライオンは全く反応しなかった。あの女が調合した麻酔の用量は、完璧に猛獣の意識を封じ込めているようだ。
捕食者の警戒半径から無事に抜け出した直後、タカヒロの頭の中に新たな疑問が組み上がっていた。
「おい……」タカヒロは肩越しに半分だけ振り返り、後ろを歩く女の反応を引き出すように言葉を宙吊りにした。
「カサンドラよ。でも、サンドラって呼んでいいわ」
「サンドラさんよ。一つ聞きたいことがある」
「何?」
「あのライオンを無力化した麻酔、どこで手に入れた?」
サンドラの足取りは揺るがない。だが、その双眸は前のめりに少年の背中をじっと見つめていた。
「自分で調合したのよ」
「へえ、本当か?」
「ええ。この森に入った初日に、まだ元気に育ってる薬草をいくつか見つけたの」
「当ててやろうか。わざわざこんな危険な場所に来たってことは、何かやらなきゃならない『目的』があるんだろ?」
「当たり前でしょ! 仕事じゃなきゃ、誰が好んでこんな所に来るもんですか」
タカヒロの口角がわずかに上がる。彼女が律儀に詳細を語る前に、彼の脳はすでに一つの確信的な結論を導き出していた。
(……これほど整った容姿の女が、明確な任務か、もしくはそれに釣り合うだけの莫大な報酬でもない限り、こんな死の巣窟に足を踏み入れるはずがない)
最前列で会話を盗み聞きしていたイーターが、不意に後ろを振り返り、からかうようなニヤケ面を向けた。
「その度胸には敬服するぜ、クソババア!」イーターはわざとらしく丁寧な口調で言い放つ。
瞬間、サンドラの顔に明確な怒りの青筋が浮かび上がった。
「褒めてくれんのはありがてぇがな、てめぇ、二度とババアって呼ぶんじゃねぇぞ! あーしはまだ26歳、バリバリの独身だ、ぶっ殺すぞコラァ!」
「そりゃいい! じゃあ、今から俺と結婚するか?」
「てめぇみたいな暑苦しい筋肉ダルマと誰が結婚するか、反吐が出るわ!」
そんなくだらない口論を完全に無視し、タカヒロの視線は密かにサンドラの右手へとロックオンされていた。異質な形状をした機械的な物体。なぜか彼の記憶の神経をひどく刺激する、見覚えのあるフォルムだった。
「ところで、サンドラさん。その銃、あんたが自分で作ったのか?」
「これのこと?」サンドラはあっけらかんと答え、その銃口を胸の高さまで持ち上げた。前を歩くタカヒロは、短くコクリと頷きを返す。
「そうよ。身に何か起きた時の護身用に、私が組み上げたの。これの名前はね――」
「麻酔銃だろ」
その単語は、サンドラの言葉をスパンと見事に切断した。ど真ん中の大正解。彼女は一瞬呆然とし、半開きになった唇から紡がれるはずだった残りの言葉は、少年のあまりにも正確な推測によって完全に封じ込められた。
「そして、弾薬として使った植物は『クラーレ』。その草を細かく刻めば、粉末には神経系を麻痺させる化合物が含まれる」
滑らかな第二の分析が続く。サンドラの脳裏に密かな感嘆が這い上がり、タカヒロの鋭い知識に心を奪われそうになる。だが、彼女は慌てて首を振り、その感心に飲み込まれないよう自らの意識を引き戻した。
「ハズレ! 私が使った素材は『灰色のナルキス草』よ。クラーレなんか使ったら、ロックオンした標的に当たる直前に、粉末が風で吹き飛ばされちゃうでしょ」
先ほどから意味不明な会話の波に揺さぶられ続けていたレオが、ついに白旗を上げて口を挟んだ。
「お前ら二人して、さっきから何の話をしてるんだよ?」
イーターが面白そうに鼻を鳴らす。彼もまた、その科学用語の羅列を半分も理解できてはいなかった。
「知識を持たねぇ素人同士……いや、ただの馬鹿同士、ここは大人しく黙ってた方が身のためだぜ」
レオは口を尖らせたが、イーターの言うことが全くの正論であることも自覚していた。泡を吹くまで説明されたところで、自分の脳のキャパシティではタカヒロの意図を消化しきれない。彼は再び口を閉ざしたが、その視線は巨大なクエスチョンマークを浮かべたままイーターの背中に張り付いていた。
「もうすぐ村に到着する。サンドラさん、もし嫌じゃなければ、鉱石たちの村へ少し寄っていってくれ」
「お誘いはありがたいけど、タカヒロ。残念ながら私にはのんびり休んでる時間なんてないの。まだこなさなきゃいけない任務があるから」
「のんびり休むだと?」タカヒロは荒く息を吐き出した。「はぁっ……! 別に無事のお祝いをしようって誘ってるわけじゃねぇよ。てめぇの協力が必要だから誘ってるんだ」
サンドラは目を細めた。頭の中でけたたましく危険信号が鳴り響く。これ以上ないほど露骨に嫌そうな顔を作り、声のトーンを1オクターブ下げて言い放った。
「ふざけんな! てめぇの下で強制労働の奴隷みたいにこき使われるなんて、絶対に御免だね!」
「馬鹿野郎! そんなことのために呼ぶんじゃねぇよ。この分野の作業をこなせるのは、鉱石とてめぇしかいないから言ってるんだ!」
サンドラは眉を寄せ、少し遠回しなその言葉の真意を解きほぐそうとした。
「どういうこと?」
「シンプルに言えばこうだ。てめぇを鉱石の右腕にしてやる。一人で全部やるには、さすがに手が足りねぇんだよ」
サンドラがその突然のスカウトを咀嚼しようとしたまさにその時、先頭を歩いていたイーターが急停止した。
「紳士淑女の皆さん、お話し中のところ申し訳ねぇが……どうやら目的地に到着したようだぜ」
木々の隙間から、村のシルエットがはっきりと形を成し始める。その向こう側では、ウェインのグループがすでに待ち構えていた。当然ながら、彼らの帰還をいち早く察知したのはジフシキだ。鷹のように鋭い彼女の目は、遥か遠くの豆粒のようなシルエットの動きからでも、その正体を正確に特定できるのだ。
ザッ!
タッ!
タカヒロは村の境界線に足を踏み入れた。その左右にはレオとサンドラがピタリと付き従っている。視線を真っ直ぐ前へ向け、ウェインの屈強な体格を通り越した先で――彼の視界の端が『何か』を捉えた。
――いや、正確には『誰か』だ。
ウェインの肩越しからひょっこりと顔を出したその影は、彼に向けて真っ直ぐに、とびきり甘い微笑みを放っていた。そして、タカヒロが再び足を踏み出した瞬間、その人物は弾かれたように彼のもとへ駆け寄り、弾むような声でその言葉を響かせた。
「おかえりなさい、タカヒロくん!」




