2章2話:まさか女だと思いませんでした。
ヴァルジャンは、友のいる国は、少し離れていると言った。
それは、実際には”少し”所では無かった。
ヴァルジャン的には”少し”なのかも知れないが……そこに辿り着くまでに、およそ、三週間ほどの日数を要したのだ。
馬車ですらこれなのだから、徒歩であったなら、もっと時間が掛かるであろうことは用意に想像が出来る。歩いて向かったのなら、恐らく、二か月は掛かったであろう。どこが、”少し”なのか。
目的の国に入り、ヴァルジャンの友が居るという屋敷の前に馬車が止まった時、アルマは少しげっそりしていた。
今となっては、”元”が付いてはしまうが、公爵令嬢であったと言う背景もある。なので、馬車での長期移動は初めてでは無く、むしろ慣れている方……ではあるのだが。
しかし、その慣れと言うのは、造りが良く揺れない専属の馬車と、言わずとも常に乗車人の体調を過度に心配する御者、によって培われたものだ。
今回使用した馬車は普通のものであり、そういった意味では、アルマにとって初めての体験だった。
造りは幾らか簡易で、座り心地も悪く、専属の馬車を使っていた時のように、適切な運行を心掛ける御者もいない。それが原因となってか、馬車は常に揺れ続けていた。
幾度かの乗り換えもあり、二人だけでは無く、大人数の大きな馬車に乗る事もあった。大人数の馬車に乗る時は、他人を気にしなければならないという不慣れな状況にも陥り、これがまたひどく精神的な疲労となった。
悪童と呼ばれただけあって、体力には自信があったのだが、それだけでは乗り越えられず……。
ともあれ、これが三週にも渡ったものだから、だいぶ体調にも影響があった。時おりヴァルジャンが背中をさすってくれなければ、どこかで吐いていたかも知れない。
「……疲れたわ。馬車ってこんなに疲れるものだったかしら」
三週前よりも明らかにこけた頬をさすりながら、アルマが馬車から降りると、ヴァルジャンが御者にお金を払っていた。それを見て、アルマは慌てた。
「ま、待ちなさい。私が払うから」
「え……? いや、いいですよ」
馬車を乗り換える都度、料金を支払うのだが、その度に気づいたらヴァルジャンがいつもお金を払っていた。自分には一応手切れ金があるし、これで払おうと思っていたのだが、気づいたら支払いが既に終わっているのだ。
今回は、その瞬間にこうして立ち会えたから、どうにかして払いたかった。
ティアハーン家にいた頃であれば、仮にこうした馬車を使ったとしても、請求は後で家に寄越してくれと言えたろうが、今は違うのだ。
その後ろ盾は無いのであって、つまり、ヴァルジャンが自腹を切っている事にアルマは気づいていた。
ヴァルジャンからすれば、これもあくまで工面の範疇なのかも知れないが……それに甘んじていては、いずれは愛想を尽かされてしまうかも知れない。
それが嫌だった。
「……お嬢様は、そのお金を大事に持つべきです」
けれどもヴァルジャンは、アルマには、払わせたくないようだった。
と、まぁ、かようにして、勝手に支払い続けて来たのがこのヴァルジャンではあるが、それには、勿論だが理由がある。
手切れ金はアルマにとっての最期の生命線だから、目減りさせたく無かったのだ。お金が全てとは言わないが、持っているかいないかで、心持ちが変わって来る。
特に、お金を稼ぐ手段を未だ持たないアルマにとっては、目減りすれば精神も一緒にすり減る危険性があると考えていたのだ。
ヴァルジャン自身は、多少の損失は痛くない。
稼ごうと思えば、稼げるからである。”特級”魔術士と言う事もあって、それ系の高給な仕事も出来なくもないのだ。
それに、執事をしていた頃の給金も、あまり使わずに取ってあった。
馬車代くらいなら、何らの問題は無いのだ。
そもそも、アルマに関わるお金は、本人が市井の生活に慣れるまでは当面は自分が捻出するつもりと言葉にしていたのであって、それを履行しているに過ぎないし、自らで決めたそれを不満に思う事もまず無い。
だが、ヴァルジャンは、ふと考えた。
与えて貰う事を当たり前と思わないその姿勢は、大切な事だ。
いつでも自分が払い切るのが当然と思われては、それはそれで、教育上よろしくはないかも、と。
そこで、ヴァルジャンはある提案を出した。
「ですが……お嬢様のお気持ちはありがたいものです。では、半分ほど、お支払い頂きましょうか。自分の分、ですね」
「わ、分かったわ。自分の分は自分で払う。……あと、今まで払って貰っていた分も」
「今までの分は別に構いませんよ。宝くじにでも当たったと思えばよろしいかと」
「後で教えなさい。その分も渡すわ」
「そ、そうですか……」
ぷんすか頬を膨らませながら、ごそごそとお金を取り出すアルマを見て、ヴァルジャンは思わず苦笑した。
払えないから怒る、と言うのも中々に人として珍しい。しかし、これならば、市井の生活に慣れるのも、そう時間は掛からないかも知れない。
ヴァルジャンは、そうして安堵すると同時に、けれども、もしもお嬢様が普通の生活に慣れるその時が来たのならば……とも思った。
――あなたはもう必要は無い。仮に、そんな言葉をいつか出されたとしたら。それを考えると、少しだけ寂しい気持ちになる。
お嬢様は、一体いつまで自分を必要としてくれるのだろうか。それは、ヴァルジャンが初めて心中に抱いた、アルマが自分をどう見ているのだろうか、という問いであった。
とはいえ、その時が来て見ないと、どうなるかなんて事は分からないのだ。ヴァルジャンは浅く溜め息を吐いてから、馬車からアルマの箱を降ろし、眼前にある屋敷のドアノッカーを叩いた。
「……どちら様?」
中から、女性の声が聞こえた。若い女の声だ。この声は、ヴァルジャンにとっては懐かしい声だった。
「私ですよ。ヴァルジャンです。……その声、ユキでしょう。私の葉書はご覧に?」
「……ふぅん。本当に来るとは」
扉が開いた。そして、中から出て来たのは、長い黒髪が映える女性だ。180cmあるヴァルジャンより少し背が低いかな、と言ったくらいの、女性としてはかなりの長身。一見しなくても、とてもスタイルの良い女性であった。
ただ、そうしたスラっとした美しさの中に、どこか粗暴さも内包しているような印象がある。それは、この女性が、けだるげな表情でガムを噛んでいるせいだろう。
「……え」
扉から出て来た人物に、アルマが、大きく目を見開いた。一瞬、何かの間違いかと思った。だが、燕尾服を着ている所や、ヴァルジャンの穏やかな表情から言って、この人物がヴァルジャンの言う”友”である事は間違い無い。
アルマの背筋に、雷が落ちたといっても過言ではないほどの、衝撃が走る。
ヴァルジャンにとって――二十年来の旧知で――お互いを子どもの頃から知っている幼馴染で――信頼の出来ると言っていた相手――それが、まさか女だなんて、思いもしていなかったからだ。
それも、少し乱暴そうな……いや、それはアルマも人の事は言えないのだが、とかく、そのような女性と仲が良いとは、という思いもあった。
ヴァルジャンの”友”――ユキは、二人を一瞥した後に、噛んでいたガムを膨らませた。そして、徐々に風船のようになったガムは、やがて、その中身の膨張に耐え切れずに、パァンと弾けた。
「まっ、手紙は一応見たよ。入りな。”元”執事と、”元”お嬢様」
ユキは誰が相手であってもあんまり態度変えない子です。




