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プロローグ:北沢澪

 キー局に就職してもう3年になる。

 希望していた通り報道に携わるようになった時は、自分が少しは社会の中で認められたように錯覚していた。

 そういう思い上がった錯覚は、もう今の私には全く残っていない。

 あるのはどうしようもない消耗感・疲弊感だけだ。


 そんな私の状況とは隔たるばかりの一ノ瀬直也――直也くん。

 最大手の総合商社に就職すると風の便りに聞いてはいた。

 そういう知らせ自体に幾ばくかの痛みを伴っていたように思う。

 でもその時に感じていた “痛み” すら、今となってはウソのように思えるほど、直也くんは本当に “遠い” 存在になってしまった。

 そしてその直也くんをNHKが数日間密着取材して報道番組にするという事で、その予告が流れた時から話題になっていた。


 その番組――NHK『プロフェッショナリズム ― 仕事の流儀:一ノ瀬直也という現象』が終わっても、しばらくテレビの前から動けなかった。

 スタジオの照明の反射がまだ自分の部屋の空気にまで残っている気がした。


『理想や夢を掲げて生きていくためには、それに伴って何かを選択する必要があり、時にはそのために、何かを喪失する事もあります。


――そうした痛みへの覚悟が常に求められてしまうのも、また現実というものでしょうね……。


それでも、その理想や夢を自分なりに掲げて、その実現に少しでも近づくために必死に目の前の現実と対峙し、少しでも前に進もうとする。

そして、そのための手段を持ち、ずっと持ち続けようと努めることが、おそらくプロフェッショナルが本来抱くべき “イズム” なのでしょう。


でも、それを続けるためには、“自分自身のため” だけでは絶対不足する。

きっと、自分以外の “守るべき誰かの笑顔” が必要になるんですよ……。


自分の心の奥底に、その “守るべき誰かの笑顔” を絶やす事なく抱き続けて、必死に自らを鼓舞しながら前に進んでいくしかない。


……まあ、それが、私自身にとっての“プロフェッショナリズム”だと思います。』


 あの声が、耳の奥に焼きついていた。

 たしかに直也くんらしい言葉だった。

 でも、画面の中の彼は、あまりにも整いすぎていた。

 理想や夢を掲げて現実と対峙することが、彼自身の痛みも喪失感も全く伴わない行為のように映されてしまっていた。


 ――違う。こんなのは全然違うよ。


 確かに彼はほとんどの場面で弱音を全く吐かない。

 弱い姿を他人には見せない。

 自分の弱さは罪悪であるかのように必死にしまい込んで隠すのだ。

 隠して誰にも見せずに、少しずつ壊れていってしまう。

 そんな本当の素顔を、私は知っていた。


 リモコンを握ったまま、テーブルの上の書類に視線を落とした。

 通らなかった企画書の束。


「再検討」

「保留」

「次期編成にて協議」――。


 どの付箋も、同じ色をしている。

 ここ数か月、私が作成した企画書は何一つ通らない。

 会議では「もっと話題性を」「もっと数字を」と言われ続けた。

 自分の言葉が、どこか遠くで空回りしている気がしていた。


 そんな時に、画面の中で“彼”が笑っていた。

 八幡平。

 地熱発電。

 AIデータセンター。

 時代の先端を照らすような言葉の羅列。

 でも、私にはその奥にある疲労の色が見えてしまう。

 昔からそうだった。

 彼がいつも無理して強くあろうとする。

 ――本当は全然強くないのに。


 それなのに。

 最近は彼の『強さ』をピックアップするメディア露出だけが目立つ。

 ニューズデイズ。

 Forbes Japan。

 様々なビジネス報道番組。

 そして今回のNHK『プロフェッショナリズム ― 仕事の流儀:一ノ瀬直也という現象』。

 でもそれは彼の表層だけを都合よく切り取って、加工して、作り上げたヒーローのようにして消費しているようにしか見えない。


 特に今回のプロフェッショナリズムは酷かった。

 いや、番組そのものもそうだけれど、そこに映されていた人たちのほとんどが、彼が抱えている、隠している内奥の疲弊感、消耗感、喪失感、痛みを全然見つめようとしていなかった。

 全然見つめないまま、礼賛して消費し続けようとしていた。


 彼がまだ壊れていないのが不思議なくらいだ。

 それはきっとあの義妹さんが辛うじて支えているからなのだと私には分かった。


 これではいつか彼を壊してしまう――。


 ペンを手に取った。

 A4の白紙に、ゆっくりと文字を置く。


 ――『プレイバック 一ノ瀬直也の素顔』。


 タイトルを書き込んだ瞬間、少しだけ躊躇するものがあった。

「……ほんとに、これでいいの?」

 自分自身に問いかけた。


 最近は、通らない企画書を山積してしまっている。

 焦りは、確かに私の中にある。

 ――話題の人を撮れば、数字は取れる。

 そんな計算を、どこかでしていないと言い切れるだろうか。


 自分の行き詰まりを誤魔化そうとしているだけなんじゃないか。

 有名になった元カレを、利用しようとしているだけじゃないのか。


 手が止まった。

 しばらく、文字の上を指でなぞった。


 高校の時の彼の姿が浮かぶ。

 高校一年生の三学期。

 冬の教室。

 窓の外には珍しく雪が降っていた。

 彼は誰よりも数学が出来る人だった。

 でもすぐ次の課題に取りかかっていた。

 その横顔を、何度見てきただろう。

 あの頃から変わっていない。

 彼はいつだって、自分の痛みを歩き出す力に変えてしまう。

 だから、私はもう一度それを描きたい。

 神格化された “現象” なんかじゃなく、ちゃんと “人間” として。


 ペンを握り直す。

 紙の端に、一行だけ書き足した。


 ――「一ノ瀬直也の “痛み” を、もう一度、人の目線で撮ること」。


 それだけ書いて、深く息を吐いた。

 通るかどうかなんて、もうどうでもよかった。

 ただ、これを書かずにいたら、

 本当に何も作れなくなる気がした。


 私は机の上の書類を端に寄せ、

 再び、白紙のWordファイルを開いた。


> 「理想を掲げて現実を変える力。

> それは、どんな痛みを伴いながら生み出されたものなのか。

> その本当の姿を、きちんと映さなければいけない」


 その言葉を下書きの一番上に残して、

 私は新しいページにタイトルを打ち込んだ。


 ――『プレイバック 一ノ瀬直也の素顔』。


 指先が震えていた。


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