第9話 偽りの騎士と放課後の甘い罪
生徒会室での尋問から解放された放課後。
窓の外では、世界を茜色に染め上げる夕陽が沈もうとしていた。
廊下を歩く私の足取りは、不思議なほど軽い。
レオンハルト様との間に決定的な亀裂が入ったというのに胸に広がるのは喪失感ではなく、重い鎖から解き放たれたような安堵だった。
『君を信じてよかった』
あの言葉が、まだ耳の奥で虚しく反響している。
彼は私を見ていなかった。彼が見ていたのは体裁と、自分を納得させるための理屈だけ。
その事実を突きつけられた瞬間、私の中で燻っていた残り火が完全に消えた。
「……お礼、言わなくちゃ」
私は自然と、あの方の元へと足を向けていた。
学園の裏手、静寂に包まれた森の中に佇むコテージ。
そこは今、私にとって世界で唯一、呼吸ができる場所だった。
あの場を救ってくれたのは、シエルお姉様の機転だ。
「従兄のシリウス」という架空の存在をでっち上げ、私の潔白を証明してくれた。
砂利を踏む自分の足音が夕闇に心地よく響く。
森の空気はひんやりとしていて、昼間の喧騒を洗い流してくれるようだった。
コテージの前に辿り着き、私は一呼吸置いてから扉をノックした。
コン、コン。
「お姉様、アルテミスです。……入ってもよろしいですか?」
ガチャリ、と重い音がして、扉が開く。
「――待っていたよ」
そこに立っていたのは夕陽を背負った長身の影。
腹の底に響くような、甘く低い男の声。
見上げれば、目元にかかる銀髪の隙間から、凍てつくようなアイスブルーの瞳が熱っぽく私を射抜いていた。
「……シエル、お姉様?」
そこにいたのはいつものドレス姿の彼女ではなく、先日契約を交わした「魔法の騎士」――シリウス様の姿だった。
彼は無造作にシャツのボタンを開け、腕まくりをしたラフな姿で扉の枠に手をついている。
魔法だと分かっていても、その完成度の高さに思わず息を呑む。
喉仏の隆起、広い肩幅、血管の浮いた腕。
どこからどう見ても、圧倒的な「雄」の肉体だ。
「まだ、そのお姿なのですか?」
「ああ。この姿の方が都合がよくてね」
彼は迷うことなく私の手を取り、中へと引き入れた。
大きな掌だ。私の手など簡単に包み込んでしまうほどのサイズと、火傷しそうなほどの体温。
バタン、と背後で扉が閉まる音がした。
外界と遮断された室内には、暖炉の火がパチリと爆ぜる音だけが響いている。
「あ、あの……お姉様。今日は助けていただいて、本当にありがとうございました」
私は努めて明るく振る舞い、彼に向き直った。
「礼には及ばない。君を守るのが、僕の役目だろう?」
彼は私の頬に落ちた髪を、無骨な指先で掬い上げた。
距離が近い。
吐息がかかるほどの至近距離で、アイスブルーの瞳が私を捕らえて離さない。
そこに迷いや躊躇いは一切なかった。あるのは、獲物を慈しむような濃密な情熱だけ。
「それに、この姿の時は『シリウス』と呼んでくれないか?」
「え……?」
「『お姉様』と呼ばれては調子が狂う。この姿でいる間、僕は君の騎士だ。ただの男として扱ってほしい」
(……そっか。お姉様なりに、この役に入り込んでいるのね)
私は自分を納得させた。
この完璧な「騎士」の姿は、私を守るための仮面なのだから。
「わ、わかりました……シリウス、様」
私が恥ずかしさを堪えてそう呼ぶと、彼は満足げに目を細めた。
そして、掬い上げた私の髪に、恭しく口づけを落とした。
「いい子だ。さあ、こちらへ。温かいものでも淹れよう」
***
湯気を立てるティーカップが、ローテーブルの上に置かれた。
シリウス様が、私のすぐ隣に腰を下ろす。
「ベルガモットの香りだ。落ち着くだろう?」
ソファが沈み込む重み。
視界の端に映るワイシャツの袖口からは、骨ばった手首が見え隠れしている。
その腕が、背もたれに回された。
抱きしめられているわけではないのに、逃げ場を塞がれたような圧迫感。
けれどそれは、不快なものではなく、守られているような心地よい重圧だった。
「……お姉様」
沈黙に耐えかねて、私はいつもの呼び名で縋ろうとした。
「昨夜は……あんな大胆な嘘をつかせてしまって、申し訳ありません。お姉様の清らかな御名に、泥を塗ってしまいました」
「謝る必要はない。むしろ感謝しているくらいだ」
大きな掌が伸びてきて私の強張った手を包み込んだ。
触れ合った皮膚から、火傷しそうなほどの体温が流れ込んでくる。
ザラリとした指の腹が私の手の甲をゆっくりと撫でる。
その感触は、どうしようもなく「男」のものだった。
「『お姉様』という立場では、君に触れることさえ躊躇われる。だが、この姿なら許される」
彼は私の手を引き寄せ、その甲に唇を落とした。
チュッ、という濡れた水音が、静寂な部屋に背徳的に響く。
「……っ! だ、だめです、お姉様……! 中身が女性だと分かっていても、私……」
理性が必死にブレーキをかけようとする。
けれど、彼は私の手を放さなかった。
それどころか、グイと強く引き寄せ、私の顎を指先ですくい上げた。
銀髪の隙間から、冷たく鋭い瞳が至近距離で私を捕らえる。
「今、ここにいるのは誰だい?」
問いかけは、甘く、重い。
鼓膜を直接揺らすような響きに、背筋がゾクリと粟立つ。
彼は待ってくれない。答えを強請るように、顔を寄せてくる。
「……シリウス、様……」
私が震える声で訂正すると、彼は氷が溶けたように甘く目を細めた。
「なら、今は『お姉様』のことは忘れなさい。君の瞳に映していいのは、君の騎士だけだ」
抗えなかった。
彼の腕が私の腰に回り、身体ごと引き寄せられる。
香ってくるのは、あの冷たいインクの匂いではない。
彼自身の雄々しい体臭。それが、凍え切っていた私の心を溶かしていく。
(ああ……この熱が、欲しかった)
誰よりも私を求め、私だけを見てくれる熱。
それが偽りの姿であっても、今の私には何よりも代えがたい救いだった。
「……いいかい?」
吐息が混ざり合う距離で、彼が囁く。
拒絶の言葉は出てこない。
私は震える手で、彼のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。
「……はい、シリウス様」
重なり合った唇は驚くほど柔らかく、そして貪欲だった。
深く、酸素さえ奪い取るような口づけ。
舌先が触れ合うたびに頭の中が真っ白になる。
私はゆっくりと瞼を閉じ、その逞しい腕の中にすべてを委ねる。
***
唇に触れていた熱が、名残惜しそうに離れていく。
「……アルテミス」
名前を呼ばれただけなのに、肺の空気が奪われたかのように息苦しい。
彼の瞳が熱を帯びて潤んでいる。
それは演技ではない、本物の情熱に見えた。
「そんなに怯えなくていい。……嫌だったかい?」
「嫌、では……ありません、けれど……」
消え入るような声で答えるのが精一杯だった。
「お姉様」を慕う敬愛の念とこの「シリウス様」に心臓を掴まれている高鳴り。
その境界線が、どろどろに溶けて混ざり合っていく。
「ふふっ、耳まで真っ赤だよ。今日はこれくらいにしておこうか」
シリウス様は額に軽い口づけを落とすと、ようやく腕を緩めた。
その仕草は獲物をじっくりと味わう捕食者の余裕そのものだった。
「……お紅茶、ごちそうさまでした」
私は逃げるように立ち上がり、扉へと向かった。
これ以上ここにいたら、私は本当に溶けてなくなってしまう。
「ああ。気をつけて帰るんだよ。……私の愛しいアルテミス」
最後にその名を甘く囁かれ、私は返事もできずにコテージを飛び出した。
夕闇が降りた森の小道を私はふらふらとした足取りで戻っていく。
頬を撫でる夜風は冷たいはずなのに、身体の芯だけがいつまでも焼けるように熱かった。
唇に残る微かな痺れと、彼に包まれていた手のひらの熱。
(私……もう、戻れないのかもしれない)
一度知ってしまった本物の熱情。
それが二年後に待つ死の恐怖さえも、今は遠い幻のように塗り潰していた。
私は無意識のうちに唇に指を触れ、あの甘い熱を反芻していた。
誤字のご連絡ありがとうございます、修正しました◎




