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第8話 醜聞の朝と断罪の予兆

小鳥のさえずりが朝の訪れを告げていた。

カーテンの隙間から柔らかな陽光が差し込んでいる。

私は重いまぶたを持ち上げた。

視界に映るのは見慣れた女子寮の天井ではなく、温かみのある木目の天井。

鼻をくすぐるのは焼き立てのパンと、淹れ立てのコーヒーの芳醇な香り。


「……あ」


記憶が、ゆっくりと蘇る。

昨夜の夜会。レオンハルト様との決別。

そして、シエルお姉様の膝の上で、溶けるように眠ってしまったこと。


「おはよう、アルテミス」


キッチンの方から爽やかな声が飛んできた。

振り返ると、エプロン姿のシエルお姉様が銀のトレイを持ってこちらへ歩いてくる。

朝の光を浴びたその姿は絵画のように美しかった。


「よく眠っていたね。……起こすのがもったいないくらいだったよ」

「お、おはようございます……お姉様。私、またご迷惑を……」

「迷惑なものか。さあ、朝食だ。今日は長い一日になるからね。しっかりと食べておきなさい」


完璧な朝食。けれど、彼女の「長い一日になる」という言葉が、小さな棘のように胸に引っかかった。


          ***


学園の正門をくぐった瞬間、異変を感じた。


……シーン。


校庭にいた生徒たちの動きが、ピタリと止まった。

全員が、まるで幽霊でも見るような目でこちらを見つめ、そして気まずそうに目を逸らす。

重苦しい沈黙の中から、遠慮がちなささやき声が漏れ聞こえてくる。


「……本当なのかしら。目撃者がいるって」

「男の人影があったとか……」

「嘘でしょう? あの潔癖なアルテミス様が……」


(――え?)


そこにあるのは、深い「困惑」と「動揺」だった。

私が築き上げてきた「完璧な淑女」としての信頼が、音を立てて崩れかけている。


「……馬鹿げた噂だね」


隣で、シエルお姉様が冷ややかに呟いた。

彼女は私の肩を抱き寄せ、毅然とした態度で周囲を見渡した。


「行こう、アルテミス。堂々としていればいい」


しかし、その決意を試すかのように人垣が割れ、腕章をつけた生徒会役員たちが現れた。


「……アルテミス・フォン・ローゼンバーグ嬢。生徒会長、レオンハルト・ヴァン・アスタリスク様からの呼び出しです。至急、生徒会室へご同行願います」


          ***


生徒会室の重厚な扉が開かれる。

そこはかつて、私が婚約破棄を訴えた場所。そして、彼が背中で私を拒絶した場所。


「……来たか」


部屋の中央、執務机の前にレオンハルト様が立っていた。

対面する彼の顔色は驚くほど悪く、目の下には濃い隈が刻まれている。


「……単刀直入に聞く」


レオンハルト様は私を直視せず、手元の資料に視線を落としたまま口を開いた。


「昨夜、君が学園のコテージに宿泊したという報告がある。……それは事実か?」

「はい、事実です。夜会の後、ひどい目眩に襲われまして……」

「では、そのコテージに……『男性』が出入りしていたという目撃証言については、どう説明するつもりだ?」


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

男性? 何を仰っているの。あそこには、私とお姉様しかいなかったはずなのに。


「……何かの、間違いではございませんか? そのような方は、いらっしゃいませんでした」

「本当か? ……目撃者は複数いるんだ。銀髪の、背の高い男だったと。……シャツの胸元をはだけさせ、深夜、バルコニーから庭を見下ろしていたという証言がある」


レオンハルト様は、喉の奥で血を吐き出すかのように言葉を絞り出した。

その瞳に滲むのは、裏切られた確信と、それでも否定してほしいという無様な渇望だ。


(――銀髪の、男?)


指先から血の気が引いていく。

潔白を証明するためにここへ来たのに、身に覚えのない「男の影」を突きつけられ、喉の奥が砂を噛んだように乾いていく。

けれど、彼の挙げた特徴を反芻した瞬間、脳裏にある光景がフラッシュバックした。


(銀髪……背の高い、男の人……)


それは、図書室で私を追い詰め、その圧倒的な「雄」の気配で私を翻弄した、あのシリウス様の姿。

シエルお姉様が魔法で変身した、あの「騎士」の姿そのものではないか。


(まさか、私が眠っている間にお姉様があの姿で外に出ていたの……!?)


最悪の事態を察し、冷や汗が背中を伝う。

私が絶望的な沈黙に飲み込まれようとした、その時だった。


「――ああ、それは『シリウス』のことだね」


シエルお姉様が、退屈な茶会の世間話でもするかのように、あっけらかんと言った。


「シリウス……?」

「私の従兄(いとこ)だよ。シリウス・フォン・ウィンターフェルド。……たまに遊びに来るんだ」


(従兄!?)


私は驚愕し、隣に座るお姉様を凝視した。

彼女は優雅に微笑んだまま、私にだけ見える角度でいたずらっぽく片目を瞬かせる。

……ああ、そういうこと。

昨夜の姿を目撃されたことを逆手に取って、魔法だとは明かせない代わりに「実在する親戚」という設定を上書きしたのだ。


「い、従兄……ですか?」

「ああ。彼は気まぐれな風来坊でね。昨夜もふらりと立ち寄って、私と少し話をしてすぐに帰ってしまったよ。……まさか、それが不純な噂の種になるとはね」


シエルお姉様の、一点の曇りもない声音。

レオンハルト様は、毒を抜かれた蛇のように呆然として、何度も口を噤んだ。ウィンターフェルド家の人間なら、銀髪であることも、コテージに立ち入る権限があることも、すべてに説明がついてしまう。


「……そうか。従兄殿、か。……すまない、早とちりをしてしまったようだ」


彼は目に見えて安堵し、憑き物が落ちたように椅子に深く身体を預けた。

張り詰めていた空気が緩んでいく。けれど、それと反比例するように、私の心は凍てついていった。


「……よかった」


レオンハルト様が、情けないほど穏やかな笑みを浮かべて私を見た。


「君を信じてよかった、アルテミス」


その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何かが音を立てて崩壊した。


(信じて……よかった?)


いいえ、貴方は私を信じてなどいなかった。

私が「いません」と真実を告げた時は、あんなに疑わしげに私を追い詰めたのに。

シエルお姉様が「従兄だ」という、家柄と体裁の整った「言い訳」を用意してくれた途端、手のひらを返すように安心するなんて。


貴方が安堵したのは、私の潔白ではなく、自分の面目が保たれたからでしょう。


「……レオンハルト様」


私は静かに立ち上がった。視界の彩度が、一気に落ちていくのを感じる。


「私の潔白は証明されました。……もう、退出してもよろしいでしょうか?」


「あ、ああ。もちろんだ。……昨夜のことは悪かった。今度、改めて埋め合わせを……」


「必要ありません」


自分の声が、どこか遠くで響いているような感覚。


「貴方は、私を守るためではなく、ご自身の納得のために私をここに呼んだのですね。……そのことが、痛いほどよくわかりました」


「え……?」


「ごきげんよう、レオンハルト様」


私は人生で最も美しく、そして最も心のこもっていないカーテシーをして、彼に背を向けた。


「行こう、アルテミス」


シエルお姉様が私の肩を優しく抱く。

廊下に出ると窓の外は黒い雲に覆われていた。

遠くで雷鳴が轟く。嵐が来る。


          ***


閉ざされた生徒会室の中。

レオンハルトは、アルテミスが去っていった扉を、亡霊でも見るような目で見つめていた。


「…………」


彼はゆっくりと、力なく椅子に沈み込んだ。

頭の中を回るのは、先ほどの彼女の言葉だ。


『貴方は、私を守るためではなく、ご自身の納得のために私をここに呼んだのですね』


その声は、驚くほど冷たかった。かつて自分に向けられていた、温かい親愛の情は、そこには欠片も残っていなかった。


「……あんな目は、初めてだ」


背筋に、ゾクリとしたものが走る。

誤解は解けたはずだ。それなのに、取り返しのつかないことをしてしまったような喪失感が、胸の奥で黒く渦巻いている。


さらに、彼女の口から出た「従兄」という言葉が、追い打ちをかけるように彼を凍りつかせる。


(……ウィンターフェルド大公家が、組織的に動いているのか?)


シエル・フォン・ウィンターフェルドが彼女を庇うのは、単なる友人としての情だと思っていた。だが、夜間に「従兄」を密会させるほど便宜を図っているとなれば話は別だ。

もし、ウィンターフェルド家がアルテミスを自一族に迎え入れようと画策しているのだとしたら。


「……っ」


レオンハルトの顔から血の気が引いていく。

王家派である自分と同等以上の強大な力が、彼女の味方についた。

書類上の「完璧な計画」など、何の意味もなさない。

彼女の心は今、自分の手の届かない場所――北の凍てつく大公家の影へと、急速に引き寄せられている。


その事実に気づいた瞬間、彼の身体は芯から冷え切っていた。

ただ、得体の知れない焦燥感だけが冷たい水のように足元から浸食し始めていた。

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