第7話 魔力酔いと膝枕
馬車に揺られること数分。
辿り着いたのは学園の敷地内にあるシエルお姉様の私邸だった。
女子寮からは少し離れた、森の中にひっそりと佇む瀟洒な建物。
大公家の令嬢である彼女には寮の自室とは別に、静養用としてこの『離れ』の使用が認められているらしい。
「さあ、着いたよ」
彼女に手を引かれ、エントランスをくぐる。
途端にふわりと温かい空気に包まれた。
暖炉の薪が爆ぜる音。
微かなハーブティーの香り。
先ほどの夜会の喧騒が、まるで遠い異国の出来事のように思える。
けれど、私の身体はまだ小さく震えていた。
緊張の糸が切れた反動だろうか。
それとも、あのホールで浴びた無数の視線の記憶がまだ肌にまとわりついているのか。
足元がおぼつかない。
視界がユラユラと揺れ、天井の照明が二重三重に滲んで見える。
「……っ」
よろめいた瞬間、強い力で肩を抱き留められた。
「おっと、危ない」
頭上から降ってくる心地よい低音。
見上げると、心配そうに眉を寄せたシエルお姉様と目が合った。
その青い瞳はどこまでも深く、澄んでいる。
「顔色が優れないね。……人酔いしたかな?」
「はい……少し、めまいが」
「無理もない。あんな場所で、ずっと気を張っていたんだからね」
彼女は慣れた手つきで私をソファへと導いた。
ふかふかのクッションに身体を沈めると、全身の力が抜けていくようだ。
重たいドレスの締め付けから解放されたわけではないのに、ここだけ重力が軽くなったような錯覚を覚える。
「少し、待っていて」
彼女はキッチンへと姿を消し、すぐに湯気の立つカップを持って戻ってきた。
琥珀色の液体から甘酸っぱい果実の香りが漂う。
「ホット・レモネードだ。蜂蜜をたっぷり入れてある。……飲めるかい?」
差し出されたカップを両手で包み込む。
陶器越しに伝わる熱が、冷え切った指先をじんわりと溶かしていく。
一口含むと、優しい甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
こわばっていた喉の奥がゆっくりと開いていく感覚。
「……おいしい」
「よかった」
彼女は私の隣に腰を下ろし安堵の息をついた。
その距離が少しだけ近い気がする。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ彼女の体温を感じられる距離にいることが今の私には何よりの精神安定剤だった。
「それにしても……」
彼女は私の額に手を当て、少し考え込むように呟いた。
「熱はないようだが、魔力の波長が乱れているね」
「魔力……ですか?」
「ああ。夜会には多くの人間が集まる。特に今夜は、興奮や嫉妬、好奇心といった負の感情も渦巻いていた。君のように繊細な魔力を持つ人間は、そういった『気』に当てられて、魔力酔いを起こしやすいんだ」
言われてみれば、頭の奥がズキズキと痛む。
身体の芯が熱いのに表面は冷たいような奇妙な感覚。
これが「魔力酔い」なのだろうか。
「少し、横になるといい」
シエルお姉様はそう言うと、ポンポンと自分の太ももを叩いた。
「え……?」
「膝枕だ。……少し子供っぽいかな?」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔があまりに無邪気で、美しくて、私は言葉を失う。
公爵令嬢である私が誰かに膝枕をしてもらうなんて、幼い頃の乳母以来だ。
恥ずかしい。
けれど、その誘惑は抗い難いほどに甘美だった。
「……ご迷惑では、ありませんか?」
「迷惑なものか。可愛い妹君の看病をするのは、姉の特権だろう?」
その言葉に背中を押され、私はおずおずと身体を横たえた。
彼女の膝の上に、頭を乗せる。
ドレスの滑らかな感触。
そして、その下にある確かな弾力と温もり。
視界には、彼女の美しい顔が逆さまに映っている。
「いい子だ」
彼女の手が、私の髪を優しく撫でた。
その手のひらの温もりが、冷え切った心にじんわりと染み渡る。
「君は、頑張ったよ」
静かな声が、降り注ぐ。
「あの場所で、誰よりも気高く、美しく立っていた。……私は誇らしいよ、アルテミス」
褒められた。
あんなにも惨めで、逃げ出したいと思っていた私を、彼女は「誇らしい」と言ってくれた。
その一言が、胸の奥に燻っていた自己嫌悪を消し去ってくれる。
ふと、視線を感じて目を開けた。
シエルお姉様が私を見つめている。
その瞳は先ほどまでの「お姉様」の慈愛に満ちたものとは少し違う気がした。
もっと熱く、もっと深く。
まるで私の魂ごと飲み込もうとするような、昏い輝き。
「……お姉様?」
名前を呼ぶと彼女はハッとしたように瞬きをした。
そして、すぐにいつもの優しい微笑みに戻る。
「ごめんよ。……君があまりに可愛い顔で眠りそうだったから、つい見惚れてしまった」
「か、可愛いなんて……」
頬が熱くなる。
彼女はくすりと笑い、私の目元を指先でなぞった。
「眠りなさい。目が覚めるまで、ずっとこうしていてあげるから」
「……はい」
私は素直に目を閉じた。
彼女の膝の温もりと、髪を撫でる優しい手つき。
そして、微かに香るミントと――どこか懐かしい、雨上がりの森のような香り。
それに包まれて、私は深い微睡みへと落ちていった。
意識が途切れる寸前。
髪に、ふわりと柔らかな感触が落ちてきた気がした。
指先とは違う、もっと慈しむような、温かな重み。
けれど、今の私にはそれを確かめる術も拒む理由もなかった。
ただ、絶対的な安心感の中で私は意識を手放した。
***
規則正しい寝息が静かな部屋に響き始めた。
アルテミスの身体から、完全に力が抜けている。
僕は、膝の上にある彼女の寝顔を、飽くことなく見つめ続けた。
長い睫毛が、白い頬に淡い影を落としている。
微かに開いた唇は、熟れた果実のように赤い。
無防備だ。
あまりにも無防備すぎる。
もし僕が「ただの優しい姉」でなかったら今すぐにでもその唇を奪い、全てを貪り尽くしていただろうに。
「……君は本当に、残酷な人だ」
苦笑が漏れる。
けれど、その残酷ささえも愛おしい。
僕は彼女のプラチナブロンドの髪を一房すくい上げ、それに口づけを落とした。
指先から伝わる、絹のような感触。
甘い香り。
その全てが、僕の理性をじりじりと焦がしていく。
今夜の彼女は最高だった。
あの夜会の会場で怯えながらも気高く顔を上げ、僕だけを頼り、僕だけに縋り付いてきた。
レオンハルト・ヴァン・アスタリスク。
あの愚かな男が彼女を放置したおかげで、僕は彼女の「唯一の騎士」になることができた。
(……感謝するよ、元・婚約者殿)
胸の奥で、黒い優越感がとぐろを巻く。
君が書類の山に埋もれて「愛など後回しでいい」と慢心している間に、僕は着実に外堀を埋めさせてもらった。
彼女の信頼も、笑顔も、安らぐ場所も。
すべて僕が奪った。
彼女はまだ、僕の正体を知らない。
僕が「北の大公家」の嫡男であり、この学園で最も恐れられる魔法使いの一人であることを。
そして、この「シエルお姉様」という姿が、彼女に近づくためだけに作り上げた、精巧な虚像であることも。
「……騙してごめんよ」
僕は、彼女の頬を指の背で優しく撫でた。
「でも、こうするしかなかったんだ。……君を孤独から救い出すには」
彼女は時折、ひどく何かに怯えていることがある。
まるで、見えない断頭台がその首元に迫っているかのように。
あるいは、この身が凍りつくような極寒の地獄が待っているとでもいうように。
僕には彼女が何を見ているのかはわからない。
けれど、彼女が震えているのなら、その原因が何であろうと関係ない。
「……君が何を恐れているのか、僕には想像することしかできないけれど」
ふと、アルテミスが身じろぎをし、僕の太ももに顔を擦り付けた。
無意識の甘え。
その愛らしさに、胸が締め付けられるように痛む。
もし彼女が恐れているのが「寒さ」だというのなら、皮肉な話だ。
「冬」の名を冠する僕が、彼女を一番温められるというのに。
(……愛している)
言葉にすれば陳腐なほどに、どうしようもなく。
初めて会ったあの日から僕の世界は君を中心に回っている。
窓の外では、風が強まり始めていた。
嵐の予感がする。
明日になれば今夜の出来事は社交界中の噂となり、公爵家や、あるいはあの鈍感な生徒会長も動き出すだろう。
障害は多い。
彼女の父であるローゼンバーグ公爵も、簡単には首を縦に振らないかもしれない。
けれど、構わない。
「……誰にも、渡さない」
僕は腹の底に響くような低い声で囁いた。
それは「シエル」の声ではない。
「シリウス」としての、魂の叫びだ。
「君が望むなら、僕は『お姉様』であり続けよう。……けれど、君を守るためなら、僕は喜んで悪魔にでも、修羅にでもなる」
再び、彼女の髪にキスを落とす。
今度は長く、深く。
所有の証を刻み込むように。
「おやすみ、僕の愛しいアルテミス。……良い夢を」
暖炉の火が、パチリと爆ぜた。
その炎の赤よりもなお熱く、昏い情熱を瞳に宿し、僕は彼女の寝顔を見つめ続けた。
けれど――。
そうして彼女の無防備な温もりに触れ続けていることは、今の僕にとって、あまりに甘美で、理性を揺さぶる毒だった。
胸の奥で燻る「男」の本能が、暴れ出しそうになる。
「……これはいけないな」
僕は苦笑し、名残惜しさを振り切るようにして、そっと彼女の頭をクッションへと移した。
頭を冷やさなければ。
今の僕は、彼女を守る盾だ。彼女の安眠を妨げる狼になってはいけない。
僕は立ち上がり、窓際のバルコニーへと向かった。
ガラス戸を開けると、冷涼な夜気が頬を叩く。
肺いっぱいに冷たい空気を吸い込み、僕は小さく息を吐いた。
「……術式、解除」
指を鳴らす。
瞬間、身体を包んでいた光の粒子が霧散した。
骨格がきしみ、視界が高くなる。
柔らかな曲線を描いていた肢体は、本来の筋肉質で硬質なものへと戻った。
喉元に喉仏が戻り、肩幅が広がる。
「……ふぅ」
本来の「シリウス・フォン・ウィンターフェルド」の姿に戻り、僕はようやく深く呼吸をした。
夜風が、火照った肌を冷ましていく。
手すりに肘をつき、眼下に広がる闇を見下ろす。
風が木々を揺らし、ザワザワと騒めいている。
嵐が来る。
その時だった。
庭園の植え込みの奥に、違和感を覚えた。
ほんの僅かな、息を殺したような気配。
小動物ではない。
明らかに、こちらの様子を窺う「人間」の気配だ。
夜会の騒ぎを聞きつけた野次馬か、あるいは公爵家の手の者か。
目を凝らすと闇の中で一瞬、何かがキラリと光った。
あれは――生徒会の紋章が入ったバッジか?
(……なるほど。飼い犬を放ったか、レオンハルト)
普段なら、すぐに気配を消してやり過ごすところだ。
愛しい彼女との隠れ家を、嗅ぎ回られるのは不愉快極まりない。
けれど。
(……いや、コソコソ隠れる必要などない)
僕は逃げも隠れもせず、あえて一歩前に出た。
月明かりの下、堂々とその身を晒す。
銀色の短髪。
凍てつくような鋭い眼光。
そして、無防備に開襟したシャツの胸元。
どこからどう見ても、深窓の令嬢の部屋から出てくるには不似合いな、雄々しい「男」の姿。
僕は、闇の奥に潜む視線に向かって、静かに睨みを利かせた。
『……彼女は、僕のものだ』
声には出さない。
けれど、全身から放つ威圧だけで十分だった。
ここから先へは通さない。
彼女を傷つける者は、誰であろうと僕が排除する。
その明確な殺気を感じ取ったのだろう。
「……ッ!?」
闇の奥で誰かが息を呑む音がした。
恐怖と、驚愕。
気配は弾かれたように背を向け、慌てて森の奥へと走り去っていった。
明日になれば、学園中に広まるだろう。
「ローゼンバーグ公爵令嬢が匿われているコテージに、謎の美青年がいた」と。
「やはり噂の愛人は実在したのだ」と。
そしてその報告は、間違いなく生徒会長の耳にも入る。
けれど、それでいい。
噂が真実味を帯びれば、公爵家も、あのレオンハルトも動かざるを得ない。
望むところだ。
彼女を縛り付ける鎖を断ち切るには、いずれ正面からぶつかる必要がある。
「……受けて立つよ」
僕は夜空に向かって、不敵に微笑んだ。
退路なら、僕が断つ。
彼女が安心して帰れる場所は、もう僕の腕の中にしかないのだと、世界中に知らしめるまでだ。
僕は窓を閉め、カーテンを引くと、再び愛しい眠り姫の元へと戻っていった。
ただひたすらに、その幸福な夢を守り抜くために。




