第6話 星降る夜の守護騎士
「星降る夜会で、決着をつける」
シエルお姉様がそう宣言したあの夜から、三ヶ月が過ぎた。
肌にまとわりつくような初夏の湿気はいつしか消え去り、鮮やかな紅葉を経て、今は枯れ葉が舞う晩秋の冷気が学園を包み込んでいる。
この数ヶ月間は私にとって甘く、そして背徳的な夢のような日々だった。
放課後の図書室や木陰では「シリウス様」が求婚者として熱烈なアプローチを繰り返す。
影を使った口づけの真似事や耳元で囁かれる愛の言葉。
彼の「雄」の匂いと体温に触れるたび、私の淑女としての壁は少しずつ、けれど確実に削り取られていった。
そして、夜になれば女子寮で「シエルお姉様」が、疲れた私の心を優しく解きほぐしてくれる。
『君は愛されているよ』『もう我慢しなくていい』
その甘い洗脳めいた慰めが、私を彼女への依存へと誘い込む。
昼は騎士の情熱に焦がされ、夜は女神の慈愛に溺れる。
この完璧な包囲網の中で私の心はレオンハルト様から――そして「死の運命」の恐怖から、隔離されていた。
一方で、レオンハルト様は日に日に憔悴していった。
社交界でまことしやかに囁かれる「公爵令嬢のロマンス」。
その噂は、彼のプライドを内側から蝕んでいるようだった。
遠目に見る彼は以前よりも顔色が悪く、目の下には濃い隈が刻まれている。
それでも彼は、私を問い詰めることはしなかった。
ただ、書類の山に埋もれ、何かから逃げるように仕事に没頭している。
その姿を見るたび胸が痛んだ。
けれど、もう引き返せない。
カレンダーの日付は、無情にも進んでいく。
そして、ついにその夜が訪れた。
***
夜気の冷たさが、ドレスの薄い生地をすり抜けて肌を刺す。
吐く息が白い。
見上げれば頭上には凍てつくような満天の星空。
今夜は、学園主催の「星降る夜会」。
馬車の車輪が枯れ葉を踏み砕き、乾いた音を立てる。
蹄の音。
華やかなドレスを纏った令嬢たちの、さざめくような笑い声。
それらが混じり合い、深く冷たい夜の帳に吸い込まれていく。
私の指先は、氷のように冷え切っていた。
心臓が、嫌なリズムで警鐘を鳴らしている。
この場から背を向けて、人気のない森の奥へと走り去ってしまいたい衝動を、必死に理性で押さえつける。
(……大丈夫。私には、味方がいる)
震える手で胸元のブローチを握りしめる。
それは昨夜、シエルお姉様が「お守り」と言って渡してくれたものだ。
深く、澄んだ青色の宝石。
彼女の瞳と同じ色。
その硬質な感触だけが今の私の唯一の支えだった。
エントランスの巨大な扉が開く。
溢れ出す光と熱気。
シャンデリアの煌めきが、視界を白く染める。
むせ返るような香水の匂い。
百合、薔薇、ムスク。
無数の欲望と好奇心が入り混じった社交界特有の濃密な空気。
私は一歩足を踏み入れた。
ザッ、と衣擦れの音が凪ぐ。
私が姿を現した瞬間、エントランス付近の空気が変わった。
向けられるのは数多の視線。
けれど、そこに悪意はない。
あるのは「公爵令嬢」に対する畏敬と、遠巻きな称賛。
そして――「噂の渦中にあるヒロイン」への、無遠慮な好奇心。
「……ごきげんよう、ローゼンバーグ様」
「今夜も素敵ですわ」
すれ違う令嬢たちが、扇子を畳んで恭しく礼をする。
私も完璧なカーテシーで返す。
けれど、誰も私に近寄ろうとはしない。
私が纏う「完璧な淑女」の鎧が他者を寄せ付けないのか。
それとも――私の隣にあるべき「空白」が、彼女たちを躊躇わせているのか。
(……痛い)
丁重に扱われれば扱われるほど、胸の奥が軋む。
誰もが気づいているのだ。
私の隣に婚約者の姿がないことに。
けれど、誰もそのことに触れない。
その「優しさ」と「配慮」が、今の私には鋭利な刃物のように感じられた。
沈黙が、何よりも雄弁に私の孤独を物語っている。
私は唇を噛み締めた。
背筋を伸ばす。
顎を引く。
公爵令嬢としての矜持だけで、どうにか身体を支える。
けれど、ドレスの下の膝は笑っていた。
視線を巡らせる。
会場の奥、一段高くなったバルコニー。
そこに、彼の姿があった。
レオンハルト・ヴァン・アスタリスク。
私の婚約者。
今夜の主役の一人でありながら、彼は運営側の席に座り、書類の束にペンを走らせている。
紺碧の瞳は、紙面の上を滑るだけ。
時折、部下の生徒会役員に冷淡な指示を出す。
その横顔は、彫像のように美しい。
そして、この数ヶ月でさらに痩せ、痛々しいほどに鋭利になっていた。
(……やっぱり、見てくれない)
胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
わかっていたことだ。
彼は忙しい。
私のことなど、気にかける暇もないほどに。
それでも、ほんの一瞬でいい。
目が合えばそれだけで救われる気がしたのに。
彼の視線は、ただの一度もこちらを向かなかった。
孤立無援。
広大なホールの中で、私だけが世界から切り離されたようにポツンと立っている。
寄せては返す人波が、私を避けていく。
まるで、聖域に安置された孤独な石像のように。
寒気がした。
暖炉の火が燃え盛る室内だというのに、ここだけ極寒の雪原のようだ。
視界が滲む。
呼吸が浅くなる。
「凍死」する未来の幻影が、足元から這い上がってくる。
その時だった。
カツ、カツ、カツ。
凛とした足音が、静寂を切り裂いた。
不思議なほどによく通る、確かなリズム。
人々のさざめきが、波が引くように静まり返る。
「……お待たせ、アルテミス」
秋風のような涼やかな声が、鼓膜を震わせた。
ハッとして振り返る。
そこに、その人が立っていた。
「シエル……お姉様……」
息を呑む。
今夜のシエルお姉様は、言葉を失うほどに美しかった。
身に纏っているのは、夜空を切り取ったようなミッドナイトブルーのドレス。
装飾は最低限。
けれど、そのシンプルさが、彼女の完璧なプロポーションを際立たせている。
銀青色の髪は高く結い上げられ、うなじの白さが艶めかしい。
氷のような青い瞳が、シャンデリアの光を吸い込んで、宝石のように輝いている。
彼女は、ゆっくりと私に近づいてきた。
その堂々たる歩み。
背筋を伸ばし、周囲の視線を悠然と受け流す姿は、まさに「女王」。
いいえ、今の私には――最強の「騎士」に見えた。
彼女が歩くたびに、人垣が割れる。
誰もが息を詰め、その美貌に見惚れている。
彼女は私の目の前で足を止めるとふわりと優雅に微笑んだ。
その笑顔のなんと頼もしいことか。
「迎えに来たよ、私の可愛い妹君」
彼女は恭しく右手を差し出した。
白い手袋に包まれた長く美しい指。
男性の求愛のような、けれど、もっと神聖で、もっと絶対的な救いの手。
「今夜の君は、誰よりも美しい。……さあ、顔を上げて」
その声に、呪縛が解ける。
強張っていた肩の力が抜けていく。
私は震える手を彼女の手のひらに重ねた。
「……はい、お姉様」
ぎゅっ、と握り返される。
強い力。
熱い体温。
手袋越しに伝わるその熱が、凍えかけていた私の血液を再び巡らせる。
温かい。
この手だけが、今の私を繋ぎ止める命綱だ。
シエルお姉様は、私の手を引いて歩き出した。
私の腰に彼女の左手が添えられる。
守るように。
支えるように。
「堂々としていればいい。君の隣には、私がいる」
耳元で囁かれる甘い声。
私は小さく頷き、彼女に寄り添った。
周囲の視線が変わる。
先ほどまでの畏敬や遠巻きな同情は消え失せ、代わりに溜息と羨望が満ちていく。
麗しい姉妹愛。
互いを慈しみ合う、美しい絵画のような光景。
誰もがそう信じている。
私もまた、彼女の体温に守られていた。
腰に回された手のひらは強く、熱く、私を冷たい外気から完全に遮断してくれる。
絶対的な安心感。
お姉様がいる限り、もう誰も私を傷つけることはできない。
そう信じられる強さがそこにはあった。
ふと、視線を感じた。
バルコニーの上。
先ほどまで書類に没頭していたはずのレオンハルト様がペンを止め、こちらを見下ろしている。
遠目にもわかる。
彼は信じられないものを見るように、動きを止めていた。
シエルお姉様もまた、彼に気づいたようだ。
彼女は歩みを緩めることなくバルコニーの彼へ向かって、ほんの少しだけ顎を上げた。
優雅でそれでいてどこか挑戦的な笑み。
まるで大切な宝物を自慢する子供のような、無邪気で残酷な美しさ。
けれど、彼女はすぐに視線を戻すと私だけを見て優しく目を細めた。
「行こうか、アルテミス。今夜の主役は君だ」
彼女のエスコートで、私はホールの中央へと踏み出した。
その横顔はどこまでも気高く、そして眩暈がするほどに美しかった。
***
音楽が止まる。
最後の余韻がホールの高い天井へと吸い込まれ、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
私の唇から熱い吐息がこぼれ落ちる。
緊張と高揚で指先まで痺れていた。
シエルお姉様は優雅にカーテシーをして拍手に応えると、私の肩を抱くようにして顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい? 顔色が少し赤いよ」
「はい……少し、目が回ってしまって」
「無理もない。少し風に当たろうか」
彼女の優しい気遣いに、張り詰めていた心が解けていく。
夢のような時間だった。
このまま彼女にエスコートされてテラスへ向かおうとした、その時。
「――アルテミス」
背後から、呼び止められた。
決して大きな声ではない。けれど、その声は雑踏の中でもはっきりと私の耳に届いた。
背筋が粟立つ。
振り返ると、人垣の切れ間からレオンハルト様がこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
彼はいつもの冷静な生徒会長の顔をしていた。
けれど、その紺碧の瞳だけが酷く暗く焦燥に揺れている。
周囲の令嬢たちが、遠巻きに道を空ける。
「婚約者同士の会話」を邪魔してはいけないという、貴族特有の配慮だ。
「……レオンハルト、様」
私はドレスの裾を強く握りしめた。
喉が干上がる。
逃げたい。けれど、公衆の面前で婚約者を無視して逃げ出せば、明日には「ローゼンバーグ家の令嬢は礼儀知らずだ」という噂が立つだろう。
私は必死に笑顔を作ろうとして、頬を引きつらせた。
彼は私の目の前で足を止め、困ったように視線を彷徨わせた。
何か言わなければ。
そう思っているのが痛いほど伝わってくる。
「……少し、いいだろうか」
彼は、努めて平静を装った声で言った。
「君に話がある。運営の合間を縫って来たんだ。少しだけでいい、時間をくれないか」
その言葉に、胸の奥がズキリと痛む。
(運営の合間……)
ああ、貴方にとって私は、またしても「仕事のついで」で処理すべき案件なのですね。
誕生日あの日と同じ。
優先順位は、いつだって私が一番最後。
「私は……」
断らなければ。
けれど、言葉が出てこない。
彼の背後に見える「生徒会」という権力と、長年染み付いた「従順な婚約者」としての習性が私の足を縫い止めてしまう。
その時、ふわりと香水の香りが漂った。
「おやおや、生徒会長殿」
シエルお姉様が滑るように私の前に立った。
私を背に隠し、けれど決して敵対的な態度ではなく、あくまで社交辞令の美しい笑みを浮かべて。
「今夜の夜会は素晴らしい出来栄えだね。進行もスムーズで、装飾も洗練されている。さすがはアスタリスク公爵令息だ」
「……シエル嬢」
レオンハルト様は、出鼻をくじかれたように口ごもった。
褒め言葉を投げかけられては、無碍にすることもできない。
「恐縮だが、今は取り込み中だ。彼女と話を……」
「おや、見ていないのかい?」
シエルお姉様は、大袈裟に驚いてみせた。
そして、困った子供を見るような目で、背後の私を振り返る。
「可哀想に。アルテミスは踊り疲れて、こんなに顔色が悪いじゃないか。立っているのもやっとの状態だよ」
嘘ではない。
今の私は、緊張と恐怖で血の気が引いているはずだ。
「彼女は繊細なんだ。君ならよく知っているだろう? ……今は、静かな場所で休ませてあげるのが、紳士の務めというものではないかな」
正論だった。
そして「婚約者なら彼女の体調不良くらい気づくべきだ」という痛烈な皮肉でもあった。
レオンハルト様の表情が強張る。
彼は何かを言い返そうとして、唇を動かし、そして閉じた。
周囲の目がある。
ここで無理に連れ出せば、「体調不良の婚約者を強引に連れ回す配慮のない男」というレッテルを貼られることになる。
「……わかった」
彼は苦渋の決断で一歩下がった。
その手は、行き場をなくしたように宙を彷徨い、力なく下ろされる。
「アルテミス。……また、後で」
「ええ、機会があれば」
シエルお姉様が、私の代わりに涼やかに答えた。
そして、優雅に会釈をする。
「では、失礼するよ。お忙しい会長殿の邪魔をしてはいけないからね。……行こう、アルテミス」
促され、私は歩き出した。
すれ違いざま、レオンハルト様の匂いがした。
インクと微かな珈琲の香り。
かつては、それが安心できる香りだと思っていた。
けれど今は、ただ胸が苦しいだけ。
私たちは一度も振り返ることなく、ざわめくホールを後にした。
背中に突き刺さる彼の視線を感じながら。
けれど、不思議と怖くはなかった。
私の手は、しっかりとシエルお姉様に握られていたから。
***
夜風が火照った頬を撫でる。
バルコニーに出ると喧騒が嘘のように遠のいた。
頭上には、こぼれ落ちそうな満天の星空。
シエルお姉様は手すりに寄りかかり、夜空を仰いで目を細めた。
月明かりに照らされたその横顔は、悪戯が成功した子供のように楽しげだ。
「まったく、野暮な男だね。せっかくのダンスの余韻が台無しだ」
「あ……あの、お姉様」
私は、震える声で切り出した。
「ありがとうございました。助けていただいて……」
「お礼なんていらないよ」
彼女は振り返り、私の髪を優しく梳いた。
冷たい風の中でその指先だけが熱を帯びている。
「言っただろう? 『隣には私がいる』って。……君が望まないなら、誰にも邪魔はさせない。それがたとえ、誰であろうとね」
その言葉のなんと頼もしいことか。
私は、堪えきれずに瞳を潤ませた。
こんなにも、私の気持ちを汲んでくれる人がいる。
言葉にしなくても、私の「嫌だ」という感情を守ってくれる人がいる。
「……はい、お姉様」
私は、彼女の胸に額を預けた。
トクトクと、規則正しい心臓の音が聞こえる。
温かい。
この温もりに包まれている限り、私はもう、あの凍えるような孤独に怯えなくて済むのだ。
この腕の中こそが、世界で一番安全な場所だと、本能が理解していた。
「さあ、帰ろうか。今夜はもう十分だ」
「はい……」
シエルお姉様のエスコートで、私は闇夜に溶けていく。
その背中は、どんな物語の王子様よりも大きく、輝いて見えた。
だから、私は気づかなかった。
去り際、彼女がもう一度だけバルコニーを振り返り、誰もいない星空へ向かって静かに微笑んだことを。
それは大切な宝物を胸に抱いた騎士が、神に感謝を捧げるような、どこまでも優しく、切実な祈りの表情だった。
(……ようやく、この腕の中に届いた)
誰にも聞こえない声が、夜風に溶ける。
(もう二度と、君を凍えさせたりはしない。……私の全てを懸けて、君を守り抜いてみせる)
その誓いは星々だけが知る秘密。
美しく残酷なほどに純粋な愛が静かに、けれど確かに燃え上がっていた。




