第5話 嫉妬の炎と氷の微笑
翌日。
学園の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。
廊下を歩くだけで、視線が突き刺さる。
それは、いつもの「未来の公爵夫人」へ向けられる羨望や畏敬ではない。
もっと下世話で、好奇心に満ちた、ねっとりとした視線。
「……見た? あの噂」
「アルテミス様が、図書室で……」
「謎の美青年と……壁ドンって本当?」
すれ違いざまに囁かれる言葉の断片。
私の心臓が、嫌なリズムで跳ねる。
「謎の美青年」ことシリウス様(シエルお姉様)の計算通り、噂は山火事のように広がっていた。
しかも、尾ひれがついて。
『アルテミス様には、公爵家も黙認する秘密の愛人がいるらしい』
『いや、あまりに情熱的に迫られて、断りきれなかったそうだ』
『可哀想に……レオンハルト様に放置されて、寂しかったのでしょう』
私の名誉は守られている。
「不貞を働いた悪女」ではなく「情熱的な求愛に翻弄される悲劇のヒロイン」として。
けれど、その「悲劇」の演出が完璧であればあるほど、私の胸の奥には重たい鉛が沈んでいくようだった。
(……ごめんなさい、レオンハルト様)
教科書を抱きしめ、私は俯いて歩いた。
いくら彼が私に無関心でも婚約者である以上、この噂は彼の顔に泥を塗る行為だ。
「子供の戯言」と一蹴された復讐にしては、あまりにも劇薬すぎる。
「アルテミス」
不意に目の前に影が落ちた。
聞き慣れた、けれどいつもより数段低い声。
ハッとして顔を上げると、そこにはレオンハルト様が立っていた。
太陽のような金髪が、今日に限っては逆光で陰って見える。
その表情は、いつもの能面のような無表情ではない。
眉間に深い皺が刻まれ、紺碧の瞳には隠しきれない焦燥と――怒りの炎が揺らめいていた。
「……レオンハルト様」
「少し、顔を貸せ」
有無を言わさぬ口調。
彼は私の返事を待たず、強引に私の手首を掴んだ。
痛い。
その握力は、余裕を失った彼のエゴそのものだった。
周囲の生徒たちが息を呑み、道を開ける。
私たちは無言のまま、人のいない中庭へと連れ出された。
ガゼボの陰に入ると彼は乱暴に私の手を離した。
私はよろめき、柱に背を預ける。
「……噂は、本当か」
単刀直入な問い。
彼の声が、微かに震えているのを聞き逃さなかった。
「……噂、とは何のことでしょう」
私は震える声で必死にしらばっくれた。
ここで認めるわけにはいかない。
シリウス様との約束だ。「怯える被害者」を演じなければ。
「とぼけるな!」
ダンッ!
彼が柱を拳で殴りつけた。
その音に私は悲鳴を上げて身を縮める。
こんなに感情を露わにする彼を、初めて見た。
「図書室だ! どこの馬の骨とも知れぬ男と、密会していたというのは本当か!」
「み、密会など……! 一方的に、迫られただけで……」
「迫られただと? なら、なぜ拒絶しなかった! なぜ、すぐに私のところへ来なかった!」
彼の剣幕に言葉が詰まる。
拒絶しなかった?
違う。できなかったのだ。
それはシリウス様の策略であり、何より――貴方が、私の話を聞いてくれなかったから。
「……貴方様は、おっしゃいました」
私は、絞り出すように言った。
「私の言葉は『子供の戯言』だと。……忙しいから、時間を奪うなと」
「っ……」
「相談など、できるはずがありません。……私は、貴方にとって邪魔な存在なのですから」
私の言葉が、彼の急所を突いたようだった。
レオンハルト様の表情が歪む。
怒りではなく、痛みに耐えるような顔。
彼は口を開きかけ、そして閉じた。
何かを言おうとして言葉が見つからない様子だった。
沈黙が落ちる。
中庭の噴水の音だけが虚しく響く。
「……邪魔などと、思ったことはない」
長い沈黙の末、彼が呟いた声は驚くほど弱々しかった。
「私は、ただ……君に、相応しい男になろうと……完璧な環境を整えるために……」
彼の言葉は、途切れ途切れで要領を得ない。
何を言っているの?
完璧な環境?
領地の整備や、派閥争いの話だろうか。
結局、彼は仕事の話をしている。
私のことなど二の次で、自分の実績や公爵家としての体面ばかりを気にしているのだ。
虚しさがこみ上げる。
私たちはどこまで行っても平行線だ。
彼は「公爵家」を見ていて、私は「死の運命」に怯えている。
交わるはずがない。
「……もう、いいです」
私は首を振った。
これ以上、彼の公務の自慢話や、義務論を聞くのは辛い。
「失礼いたします。……次の授業がありますので」
私は彼に背を向け、逃げるように走り出した。
背後で、彼が何かを叫ぼうとした気配がしたけれど、私は振り返らなかった。
涙がこぼれそうになる。
なぜだろう。
復讐は成功しているはずなのに。
彼を動揺させ、嫉妬させることには成功したはずなのに。
私の心はちっとも晴れない。
むしろ、傷ついた彼を見るたびに、自分の心が引き裂かれるようだ。
「……アルテミス?」
校舎の角を曲がったところで、ふわりと温かい腕に受け止められた。
ミントの香り。
顔を上げると、シエルお姉様が心配そうに私を見下ろしていた。
「泣いているのかい? ……あいつに、何かされた?」
その声は優しく、甘い。
けれどそのアイスブルーの瞳の奥で、冷徹な計算の光が一瞬だけ瞬いたのを私は涙で見落としていた。
***
「……よしよし。怖かったね、アルテミス」
人気のない校舎裏の木陰。
木漏れ日が揺れる中、シエルお姉様は震える私の背中を一定のリズムでさすり続けてくれた。
ミントの清涼な香り。
その香りが、レオンハルト様の怒声で乱された私の呼吸を整えていく。
「……レオンハルト様が、あんなに怒るなんて……初めて見ました」
私はお姉様の制服の胸元に顔を埋めたまま、掠れた声で言った。
あの能面のような鉄仮面が砕け散り、露わになった激情。
それは私にとって恐怖であり――同時に、奇妙な違和感でもあった。
「あの方……最後は、泣きそうな顔をしていました。まるで、私が彼を傷つけたかのような……」
胸の奥がチクリと痛む。
私は本当に正しいことをしているのだろうか。
「子供の戯言」だと切り捨てられた復讐にしては、彼の反応はあまりにも必死だった。
もし、彼が本当に私を――。
「アルテミス」
私の迷いを断ち切るように、シエルお姉様が私の肩をそっと、けれど強く掴んだ。
顔を上げると、アイスブルーの瞳が静かに私を見据えていた。
そこにあるのは、私を案じる深い慈愛の色だけだった。
「……忘れてしまったのかい? 君が一番、望んでいたことを」
「え……?」
「君は、自由になりたいんじゃなかったのかい?」
彼女の声は、優しく、甘く、私の心の柔らかい部分に沁み込んでくる。
「婚約を破棄して、鳥籠から出たい。……そのために、私の手を取ったんだろう?」
「……はい。そうです」
「なら、同情してはいけないよ。……ここで情けをかければ、君はまたあの冷たい執務室に逆戻りだ。一生、あの男の顔色を窺って、心まで凍らせて生きることになる」
心まで、凍らせて生きる。
その言葉が、私の胸に重く響いた。
そうだ。私には時間がない。
彼の「泣きそうな顔」に絆されて戻ったとしても、待っているのは冷たい雪の中での「死」だ。
お姉様の言葉は、私の心の奥底にある恐怖を、鋭く言い当てていた。
「……君は悪くない。自由になるためには、多少の痛みは伴うものさ」
シエルお姉様の指が、私の涙を拭う。
ひんやりとした指先なのに、火傷しそうなほど優しい。
私はその感触に縋り付くように頷いた。
「……はい。お姉様」
「いい子だね」
彼女は満足げに微笑むと、私の乱れた前髪を整えた。
「さて、アルテミス。……仕上げといこうか」
「仕上げ?」
「焦ることはない。……季節が巡り、秋になれば、学園最大の舞踏会『星降る夜会』が開かれる」
「星降る夜会……。新入生歓迎を兼ねた、伝統あるパーティーですね」
「そこで、決着をつけるよ」
シエルお姉様の瞳が、強い意志の光を宿した。
「その夜会までの数ヶ月、彼をじっくりと追い詰めるんだ。君は『シリウス』に愛されることに慣れ、彼は届かない君を見て焦燥を募らせる……。そして満を持して、衆人環視の夜会で、私が君をダンスに誘う」
「えっ? お姉様と……ですか?」
私は目を丸くした。
ダンスパーティーは男女ペアで踊るのが通例だ。
もちろん女性同士が踊ることが禁じられているわけではないけれど、それはあくまで「余興」や「親愛」の証であって、婚約者のいる身ですることではない。
「そう。公衆の面前で、堂々と君をエスコートする」
彼女は私の手を取り、指を絡めた。
「レオンハルトは生徒会長。主催者側として会場の運営に回るから、彼自身はダンスの輪には加われない」
「あ……そうですわね。彼は、踊りたくても踊れない」
「ご名答。彼は会場の隅で、指をくわえて見ているしかない」
シエルお姉様は、楽しそうに口角を上げた。
「想像してごらん。自分が踊れないのをいいことに、婚約者を他の人間に奪われ、ただ立ち尽くす完璧な生徒会長の姿を。……それこそが、彼への最大の復讐であり、君が『誰の所有物でもない』という証明になる」
お姉様の提案に、私の胸が高鳴った。
「不貞」の噂(シリウス様)ではなく、「親愛」の光(シエルお姉様)の中でなら、私は胸を張れる。
しかも、レオンハルト様は手出しができない。
これ以上ない、完璧な逃げ道だ。
「わかりました。……私、お姉様と踊りたいです」
「ああ。私に任せておくれ。……誰よりも美しく、君を輝かせてみせるから」
シエルお姉様が私を強く抱きしめた。
その腕の中で私は目を閉じる。
彼女の心臓の音がトクトクと力強く響いている。
それは、私を導く頼もしい姉の鼓動。
「……もう二度と、誰にも渡さない」
「え?」
耳元で、風のような呟きが聞こえた気がした。
私が顔を上げようとするとお姉様はさらに強く、けれど優しく私をその胸に抱き寄せた。
「……なんでもないよ。さあ、行こうか」
彼女が身体を離し、私に微笑みかける。
その笑顔は初夏の日差しのように眩しく、私の不安をすべて溶かしてくれるようだった。
この人がいてくれればきっと大丈夫。
私は確かな安堵と共に、彼女の差し出した手を取った。
風が吹き抜け、校庭の木々がざわめく。
まるで孤独だった二人の魂が寄り添い合い、新しい運命へ歩き出すのを祝福するように、青々とした葉を揺らしていた。




