第4話 共犯者の誕生
初夏の陽気が、学園を包み込んでいた。
窓から差し込む日差しは春の柔らかさを脱ぎ捨て、肌をじりじりと焼くような強さを帯び始めている。
衣替えを済ませた生徒たちの制服は、軽やかな夏仕様に変わっていた。
私の腕を包む生地も薄くなり、風が通るたびに涼やかさを感じるはずなのだが……今の私の心拍数はそれを許してくれそうにない。
「……おはよう、アルテミス」
待ち合わせの女子寮のエントランス。
そこに立っていたのは、いつもの優美な「シエルお姉様」だった。
銀青色の髪を涼しげにまとめ上げ、透き通るような白い肌が眩しい。
あの日――雨の夜に契約を交わしてから、もう三ヶ月が経とうとしている。
私たちの「共犯関係」は水面下で静かにけれど着実に進行していた。
「おはようございます、お姉様」
私が駆け寄ると、シエルお姉様は自然な動作で私の鞄を受け取った。
ふわりと香る、ミントの清涼な香り。
それは蒸し暑くなり始めたこの季節に、一服の清涼剤のように私の心を落ち着かせてくれる。
「顔色が少し赤いね。……暑さにやられたかい?」
「はい、少し。……最近、視線が痛くて」
私は声を潜めた。
ここ数週間、学園内で私を見る目が変わってきている。
以前のような「完璧な公爵令息の婚約者」への羨望ではない。
もっと好奇に満ちた、スキャンダルを期待するような視線。
「ふふ、順調だね」
シエルお姉様は悪戯っぽく微笑み、私の耳元で囁いた。
「『謎の求婚者』の噂が、ようやく定着してきたようだ」
そう。
この三ヶ月間、私たちは放課後の図書室や人気の少ない中庭で「密会」を重ねてきた。
もちろん、お姉様は「シリウス」の姿で。
遠目に見れば、私が正体不明の美青年と親密にしているように見えるだろう。
「レオンハルト様の耳にも、届いているでしょうか」
「届いているとも。……ほら、噂をすれば」
彼女が視線で示した先。
校舎の入り口付近に人だかりができていた。
その中心にいるのは太陽のような金髪を輝かせる生徒会長、レオンハルト様だ。
彼は数人の役員に指示を出していたが、ふと顔を上げ、こちらを見た。
心臓が跳ねる。
その紺碧の瞳は、以前のような「無関心」ではない。
明確な「苛立ち」と探るような鋭い光を宿して、私とお姉様を交互に見ている。
「……行くよ、アルテミス」
シエルお姉様は私の腕を強く引き寄せた。
挑発するように堂々と彼の視線を受け止める。
その横顔は優美な「お姉様」の仮面を被りながらも、どこか獰猛な「雄」の気配を滲ませていた。
すれ違いざま、レオンハルト様の舌打ちが聞こえた気がした。
けれど彼は声をかけてこなかった。
プライドが邪魔をしているのか、それとも「確証」がないから動けないのか。
私たちは、一度も振り返ることなくその場を後にした。
背中に突き刺さる彼の焦燥感を、心地よい痛みとして感じながら。
***
放課後の図書室は熱気が籠もっていた。
西日が差し込む閲覧室の奥。
古い紙の匂いと微かな埃の匂いが充満している。
私は一番奥の席で一冊の本を広げていた。
けれど、文字は一向に頭に入ってこない。
蒸し暑さのせいだけではない。
これから始まる「演技」への緊張で、掌が汗ばんでいるのだ。
コツ、コツ、コツ。
重たい足音が響いた。
ヒールの音ではない。
もっと硬く、力強い、革靴の音。
ハッとして顔を上げると書架の影から一人の騎士が現れた。
逆光を背負い、長い影を落とす長身の青年。
鋭角的な顎のライン。
たった一つの宝物を探し求めるようなアイスブルーの瞳。
シリウス様だ。
もう変身している。
「……待たせたね、アルテミス」
腹の底に落ちるような重く甘い低音。
耳の奥が甘く痺れるのと同時に、身体の芯が熱く共鳴する。
お姉様の時とは違う、圧倒的な存在感と「雄」の匂いに私は息を呑んだ。
「シリウス……様」
「誰も見ていないよ。……さあ、始めようか」
彼は私の隣の椅子を引き寄せ、流れるような動作で腰を下ろした。
近い。
肩と肩が触れ合う距離。
夏の制服越しに伝わる彼自身の高い体温と、それに炙られて立ち昇るような清潔な気配が、私の思考を甘く鈍らせる。
「今日は、少し大胆にいこう」
彼の手が伸びてくる。
私の頬に触れ、指先が唇へと滑る。
冗談ではない。本気で奪おうとする瞳だった。
「っ……!」
私は反射的に顔を背け、彼の手を振り払った。
椅子がガタリと音を立てる。
「無理です……!」
息が上がった。
心臓がうるさいほど脈打っている。
「いくらフリでも……人目のある場所で、そんな……できません!」
淑女としての矜持以前に、本能が警鐘を鳴らしている。
相手がお姉様だと分かっていても、この圧倒的な「雄」の気配を前にして平然となんてしていられない。
シリウス様は振り払われた自分の手を見つめ、ふっと目を細めた。
怒っているのか。
私が身構えた瞬間、彼は口角を吊り上げた。
それは私の逃げ場を塞ぎ、完全に自分だけのものにしようとするような甘く独占欲に満ちた笑みだった。
「……なるほど。君は本当に潔癖だ」
「か、からかわないでください」
「いいや、褒めているんだ。……なら、こうしよう」
彼は椅子ごと私に近づいた。
逃げようとする私の背もたれに手を回し、退路を断つ。
「じっとしていて」
「え……?」
「触れなければいいんだろう?」
言うが早いか、彼は私の顔の横に手をついた。
いわゆる「壁ドン」の体勢。
けれど、彼の身体は私に触れていない。
わずか数センチの隙間を残して、覆いかぶさるように静止している。
「……っ」
悲鳴を上げる暇もなかった。
視界がいっぱいになり、彼の顔が近づいてくる。
近い。
睫毛の一本一本まで見える距離。
彼の熱い吐息が、私の頬にかかる。
「シ、シリウスさ……」
「シーッ」
彼の人差し指が、私の唇の寸前で止まった。
触れていない。
けれど、そこにある熱量だけで、唇が火傷しそうだ。
「この角度だ」
吐息だけの声で、彼が囁く。
「書架の向こうから見れば、僕の背中が君を隠す。……実際には指一本触れていなくても、影が重なれば『無理やり奪われている』ように見える」
なるほど。
遠近法と死角を利用したトリック。
これなら、私の身体は守られる。
けれど――精神的には、抱きすくめられているのと変わりない。
むしろ、触れられない焦燥感が余計に私の肌を粟立たせる。
「だから、君はただ……怯えて、僕の瞳を見ていればいい」
彼はそう言って、ゆっくりと顔を傾けた。
キスをする角度。
けれど、その顔は私の耳元へ逃げる。
ガタンッ!
その時、書架の向こうで何かが落ちる音がした。
誰かが見ている。
心臓が口から飛び出しそうだ。
私が動揺して視線を泳がせようとすると、シリウス様が低い声で制した。
「動くな」
彼は私の髪に顔を埋めるようにして、囁き続けた。
「今、見られている。……『抵抗できない可哀想な令嬢』を演じるんだ」
言われるがまま、私は視線を落とし、両手で口元を覆った。
彼の匂いが全身を包んでいる。
熱い。
本当に触れ合っていないのだろうか。
感覚が麻痺して、境界線がわからなくなる。
書架の影から、パタパタと走り去る足音が聞こえた。
目撃者は、完全に誤解したまま去っていったようだ。
「……行ったよ」
シリウス様が身体を離した。
新鮮な空気が入り込み、私はようやく息を吸った。
顔が熱い。
鏡を見なくても、真っ赤になっているのがわかる。
「完璧だ、アルテミス」
彼は満足げに微笑み、私の乱れた髪を――今度は本当に指先で、丁寧に直した。
その仕草は演技の続きなどではない。
壊れ物を扱うような、痛いほどに優しい手つきだった。
「……心臓に、悪いです」
私が恨めしげに睨むと、彼は困ったように、けれど嬉しそうに眉を下げた。
「すまない。……でも、これくらいしないと、あの鈍感な彼には届かないからね」
夕陽に照らされた彼の横顔は悪魔的に美しかったけれど、その瞳に宿っていたのは獲物を狙う欲ではない。
ただひたすらに私の幸せを願う、切実な祈りの色だった。
「さあ、帰ろう。……送っていくよ」
彼が差し出した手。
私は震える鼓動を抑えながら、その手を取った。
このドキドキは夏の暑さのせいだけではないのかもしれない。
彼の手のひらが私の冷えた指先を溶かすように温かく、そして泣きたくなるほど頼もしかったから。




