第3話 悪魔の契約と甘い罠
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
白い光の粒子が、部屋の中を舞う埃をキラキラと照らしていた。
目が覚めると私はシエル様のベッドにいた。
ふわりと香る、ミントと残り香。
上質なシーツの滑らかな感触が、昨夜の出来事が夢ではなかったことを教えてくれる。
「……おはよう、眠り姫」
頭上から、ハスキーな声が降ってきた。
見上げると、ベッドの縁に腰掛けたシエル様が、私を見下ろして微笑んでいる。
朝日を背負ったその姿は神々しいほどに美しい。
銀青色の髪が光の輪を作り、陶磁器のような肌が透き通るようだ。
「シエル……お姉様……」
私は慌てて上半身を起こした。
記憶が蘇る。
昨日、私はレオンハルト様に拒絶され、雨の中を泣きながらこの部屋に逃げ込んだのだ。
そして、シエル様に慰められ、そのまま眠ってしまったらしい。
恥ずかしさで頬が熱くなる。
「ご、ごめんなさい! 私、勝手に寝てしまって……」
「謝ることはないよ。君は限界だったんだ」
シエル様の手が伸びてきて私の乱れた前髪を整えた。
その指先が耳に触れると、心臓がトクリと跳ねる。
昨夜の甘い言葉が、脳裏にリフレインする。
『私が君を守る』という、あの力強い誓い。
「顔色が少し戻ったね。安心したよ」
彼女は目を細め、満足そうに頷いた。
その仕草は優雅でそれでいてどこか――待ち焦がれた宝物をようやく見つけたような、熱を帯びた鋭い光を含んでいる気がした。
「さて、アルテミス。昨夜の話の続きをしようか」
シエル様の声色が不意に変わった。
甘さを残しつつも、真剣な響きが混じる。
「君はレオンハルトとの婚約を破棄したい。……そうだね?」
「……はい」
私はシーツを握りしめながら答えた。
あの絶望的な執務室の光景。冷たい拒絶。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
「でも、彼は取り合ってくれませんでした。契約書の効力も無視されて……」
「正面からぶつかっても無駄だ。相手はあの堅物のレオンハルトだ。理屈や感情論では動かない」
シエル様は立ち上がり、窓際へと歩いた。
腕を組み、外の雨上がりの庭を見下ろす背中。
「なら、どうすれば……」
「彼が『婚約破棄せざるを得ない状況』を作ればいい。……彼に『失格の烙印』を押すんだ」
「失格……?」
「そう。彼は君を放置し、心を殺そうとしている。その事実を、社交界という公衆の面前で突きつける」
シエル様が振り返った。逆光の中で、アイスブルーの瞳が妖しく光る。
「君には、強力な『味方』が必要だ。レオンハルトよりも君を大切にし、君の価値を理解する……そんな『理想の騎士』が」
「き、騎士……?」
「そう。もし、そんな男が君の隣に現れたらどうなると思う? 周囲は比較するはずだ。『なぜレオンハルト様は、あんなに素晴らしい婚約者を放置しているのか』『彼には公爵家当主としての器量がないのではないか』とね」
「で、でも! 私にはそんな殿方はいません!」
「だから、私が……いいや、僕がなるのさ」
シエル様が私の目の前で立ち止まった。
そして、私の顎をくい、と持ち上げる。
「僕が、その『理想の騎士』になってあげる」
「え……?」
思考が停止した。
シエル様が? でも、シエル様は女性だ。
女性が騎士役をやったところで、それは「麗しい友情」止まりで、レオンハルト様の評価を下げることにはならないのでは?
私の疑問を読み取ったのか、シエル様は口角を上げた。
それは悪戯っ子のような、それでいてひどく挑発的な笑みだった。
「忘れたのかい? 僕は大公家の人間だ。……変装魔法くらい、朝飯前だよ」
彼女が指をパチンと鳴らす。
その瞬間、部屋の空気が微かに震えた。
光の粒子が彼女の全身を包み込む。
まばゆい輝きに私は思わず目を細めた。
光が収まった時――そこにいたのは「シエルお姉様」ではなかった。
「……っ!」
私は息を呑んだ。
視線が高い。
首が太くなり、肩幅が広がり、すらりと伸びた手足は完全に男性のバランスへと作り変えられていた。
ドレスではなく、洗練された騎士服を纏った、長身の美青年。
どこかシエルお姉様の面影を残しながらも、圧倒的に「男」だった。
「どうかな? これなら、レオンハルトのライバルとして不足はないだろう?」
声が変わっている。
いつもの中性的な声ではない。
腹の底に響くような、甘く低い声。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、私の背筋にゾクリとした電流が走った。
「シエル……様……?」
「ああ。この姿の時は『シエル』ではなく、別の名で呼んでくれないか」
彼はベッドに手をつき、私を壁際に追い詰めるように顔を寄せた。
逃げ場はない。
彼の吐息が、私の唇にかかる。
「『シリウス』……。それが、君だけの騎士の名前だ」
シリウス。
夜空で最も明るく輝く星の名。
その星の光に射抜かれたように、私は動けなくなった。
これは魔法だ。変装だ。
頭では分かっているのに、目の前の彼が放つ圧倒的な存在感と美貌に、心臓がうるさいほど脈打っている。
「……シリウス……様?」
恐る恐る名を呼ぶと彼は満足げに目を細めた。
その表情はゾクリとするほど艶やかで、危険な香りを放っている。
「君が自由になるために、僕が君の『求婚者』役を演じる。……あくまで『演技』だよ。中身は君の友人のシエルだ」
「で、ですが……婚約者がいるのに、他の殿方と親しくするなんて……それでは私が『不貞な女』だと思われてしまいませんか?」
私が一番恐れていることを口にすると、彼は優しく首を横に振った。
「いいや、逆だ。君は『被害者』になるんだ」
彼の手が伸びてきて、私の強張った頬を指の背で撫でた。
ザラリとした感触。
女性の指にはない、微かな無骨さが、私の肌を粟立たせる。
「君は何も悪いことはしていない。ただ、僕のエスコートを受け入れればいい。そうすれば、世間は勝手に噂する。『あまりに不憫なアルテミス様を見かねて、高貴な騎士が救いの手を差し伸べた』とね」
「……レオンハルト様が悪者になる、ということですか?」
「そう。公爵家も、次期当主の悪評は看過できない。外聞を気にする彼らは、傷の浅いうちに婚約を見直そうとするはずだ」
彼の理屈は、悪魔的なまでに完璧だった。
私の名誉は守られ、レオンハルト様には罰が下る。
けれど、本能的なブレーキがかかる。
「でも……もしレオンハルト様が、世間体を気にして、私に優しくし始めたら……?」
「その時は君が拒絶すればいい。『今さら遅いです』と冷たく突き放すんだ。……君には、僕という盾がいる。僕の後ろに隠れていれば、誰も君を傷つけられない」
彼は一歩、私に近づいた。
圧倒的な体格差。
見上げると彼は楽しそうに笑っていた。
「それでも、君は嫌かな? ……僕と一緒に、あの堅物をギャフンと言わせるのは」
その言葉に心が揺れる。
レオンハルト様の、あの凍りついた視線。2年後に待つ死の運命。
それらを回避できるなら、私は悪魔とだって契約したい。
それに「中身はお姉様」なら過ちが起きることもないはずだ。
「……お願いします。シリウス……様」
「いい子だ」
彼の手が、私の腰に回る。
グイ、と引き寄せられる。
身体が密着する。
魔法で作られた身体のはずなのに、伝わってくる体温は熱く、筋肉は硬い。
先ほどまでのお姉様のしなやかな抱擁とは、何もかもが違う。
「契約成立だ」
彼が顔を上げる。
その瞳には隠しきれない歓喜と、暗い独占欲が渦巻いている。
「さあ、まずは『シエル』に戻るよ。この姿は、ここぞという時までの切り札だ」
彼が再び指を鳴らすと、光と共にいつもの美しい「お姉様」の姿が戻ってきた。
けれど、私は知ってしまった。
この可憐な笑顔の下に、あんなにも魅力的な男性の姿を隠し持っていることを。
「……これだけは信じて。私は、君を傷つけるものすべてから、君を守り抜く」
「お姉様……」
「さあ、行こう。美味しい紅茶を淹れるよ」
彼女はいつもの優しい笑顔に戻り、私をエスコートして歩き出した。
繋がれた手から伝わる熱。
それは、私を甘い沼へ引きずり込むものではなく、凍てつく運命から私を連れ出してくれる、力強い灯火の熱さだった。
こうして、私たちの秘密の共犯関係が始まった。
それが私の心を――そして運命を、大きく狂わせていくことになるとも知らずに。




