第2話 お姉様の甘い手ほどき
激しい雨音が世界の全てを塗り潰していく。
窓ガラスを叩くのは、春の嵐だ。
季節外れの冷たい雨が、容赦なく夜の学園を打ち据えている。
私の心象風景そのままに、視界は灰色に沈んでいた。
足が重い。
一歩踏み出すたびに濡れた靴が嫌な音を立て、鉛のような疲労感が全身にのしかかる。
先ほどのレオンハルト様の言葉が呪詛のように耳の奥で反響する。
『君は、少し疲れているようだ』
あの事務的な声。
私に向けられた温度のない眼差し。
あそこには一片の慈悲も、理解も存在しなかった。
あるのは絶対的な「拒絶」のみ。
(……寒い)
廊下の石畳から這い上がる冷気が、薄いドレスを通して肌を刺す。
指先の感覚はとうに麻痺している。
吐く息が白い。
視界が滲む。
涙を堪えようと唇を噛み締めるほど、嗚咽が喉の奥からせり上がってくる。
無人の回廊。
ただ私の頼りない足音と、窓を叩く雨音だけが虚しく響き渡る。
このまま誰の目にも触れず、寮のベッドに潜り込みたい。
毛布を頭から被り、朝が来るまで世界のすべてを遮断してしまいたい。
その時だった。
「……おや、ずぶ濡れの子猫が迷い込んだようだね」
凛とした声が、湿った空気を震わせた。
ハッとして顔を上げる。
廊下の曲がり角、カンテラの淡い光の中に一人の人物が立っていた。
窓から差し込む稲妻の閃光を背負い、その人は佇んでいる。
銀青色の長い髪が、濡れたように艶やかに肩から背中へと流れ落ちている。
陶磁器のように滑らかな白い肌。
そして、雨夜の月を思わせる静謐なアイスブルーの瞳。
シエル様。
この学園の三年生であり、誰もが憧れる「氷の女王」。
大公家のご令嬢であり、その美貌と聡明さで学園中の尊敬を集める高嶺の花。
「シエル……お姉様……」
私の口から安堵の吐息が漏れた。
彼女こそ、私にとって唯一の「理解者」。
厳しい淑女教育に心が折れそうになった時も、理不尽な貴族社会のしがらみに疲れた時も、彼女だけは常に私の味方でいてくれた。
シエル様が優雅な動作でこちらへ歩み寄ってくる。
カツ、カツ、カツ。
その足音は私のそれとは違い、確固たる自信と落ち着きに満ちている。
ふわり。
鼻腔をくすぐる、清涼な香り。
それが近づくにつれて、私の張り詰めていた緊張が少しずつ解けていく。
「どうしたんだい、アルテミス。こんなに震えて」
彼女の長い指が私の頬に触れた。
ひんやりとした雨の気配とは裏腹に、その指先は温かい。
柔らかな体温が、冷え切った私の肌に染み込んでくる。
その指が、私の目尻に溜まっていた雫を、そっと拭い去る。
「……レオンハルト、か?」
問いかけは短く、けれど的確だった。
私が何も言わずとも彼女はすべてを察している。
そのアイスブルーの瞳が、剣呑な光を帯びて細められた。
そこには、私を気遣う優しさと、それ以上に――もっと深く、激情に近い何かが渦巻いている。
「……はい」
私が小さく頷くとシエル様は深く息を吐いた。
呆れたような、けれどどこか慈愛に満ちた溜息。
「あの堅物は、宝石の磨き方も知らないと見える」
彼女の手が私の肩を抱き寄せた。
背が高い彼女の胸元に私の顔が埋まる。
女性らしい柔らかな曲線の向こうから、心臓の鼓動がトクトクと力強く響いているのが伝わってくる。
「可哀想に。こんなに冷えてしまって」
耳元で囁かれる声。
低く、甘く、鼓膜を痺れさせるような響き。
背筋がゾクリとする。
それは恐怖ではなく、何かに絡め取られるような抗いがたい快感に近い感覚。
まるで、雨宿りに入った洞窟で美しい女神に捕らえられたかのような。
「私の部屋へいらっしゃい。温かいお茶とお菓子を用意してある」
「で、でも……こんな夜更けに、ご迷惑では……」
「迷惑なものか。君のためなら、私は城門だってこじ開けるよ」
彼女の腕に力がこもる。
逃がさない、とでも言うように。
その拘束は強引で、けれど今の私にはその強さこそが何よりも心地よかった。
「さあ、行こう。ここじゃ風邪を引く」
シエル様が歩き出す。
私の肩を抱いたまま、迷うことなく。
その歩幅は広く、私は彼女に身を委ねて必死についていくしかなかった。
廊下の突き当たり。
彼女の個室へと続く重厚な扉が見えてくる。
そこは男子禁制の女子寮の中でも、特権階級の生徒だけに許された特別区域。
静寂と、二人だけの時間が約束された場所。
私は彼女の甘いミントの香りに包まれながら、ぼんやりと思った。
レオンハルト様のあの冷たい執務室とは違う。
ここには、私を求めてくれる人がいる。
私を温めてくれる場所がある。
ーーーけれど、私は気づいていなかった。
その温もりが冷え切った身体を溶かすだけでなく、私の心の深い部分まで侵食しようとしていることに。
そして、この美しい「お姉様」の仮面の下に私を貪欲に求める情熱が隠されていることに。
扉が開く。
暖炉の赤い光が、闇に濡れた私たちを優しく迎え入れた。
***
「……少しは落ち着いたかい?」
頭上から降ってくる声はどこまでも甘く、そして深い。
私はマグカップの湯気越しに、小さく頷いた。
シエル様の部屋は、外の嵐が嘘のように静かだ。
暖炉の薪が爆ぜる音が、私の乱れた呼吸のリズムを整えてくれる。
革張りのソファ。
隣に座るシエル様との距離は拳一つ分。
けれど、そのわずかな隙間から伝わってくる体温が凍りついた私の芯をゆっくりと溶かしていく。
「聞いていただいても、よろしいでしょうか」
ぽつりと、私は口を開いた。
一度決壊したダムのように、言葉はもう止まらなかった。
「5歳でした。私がレオンハルト様の婚約者として選ばれたのは」
記憶の蓋が開く。
鮮やかなドレスや宝石の輝きではない。
私の脳裏に浮かぶのは重たい歴史書と、姿勢矯正のためのコルセットが肋骨を締め上げる痛みだ。
「それからの10年間、私は『未来の公爵夫人』になるためだけに生きてきました。遊びたい盛りに刺繍針を持ち、友人が恋の話に花を咲かせている間に、領地経営の帳簿や派閥の力関係を暗記して……」
指先が震える。
カップの中のココアが、小さな波紋を描く。
「辛かった。……ええ、本当は、ずっと辛かったのです」
「お守り」があったから耐えられた。
婚約を結んだ日に交わした古い契約書。
『互いに愛がなければ、この婚約は白紙に戻せる』という一文。
それが私の唯一の逃げ道であり、希望だった。
もし、彼に愛されなくても。
もし、私が彼を愛せなくても。
この鳥籠には鍵がかかっていないのだと、そう信じることで厳しい教育にも耐えてきた。
けれど今日。
その扉は最初から壁だったかのように、びくともしなかった。
私の訴えは、雨音にかき消される羽虫の音のように無視された。
「……私の10年は、何だったのでしょう」
涙が、一雫こぼれ落ちてココアに混ざる。
「レオンハルト様は、私を見てくださいません。……いいえ、きっと他に見ている方がいらっしゃるのです」
私は、潤んだ瞳で隣のシエル様を見上げた。
暖炉の光を浴びて輝く、銀青色の髪。
陶磁器のような肌。
そして、何よりも聡明で、凛とした佇まい。
この世界が乙女ゲームなら、彼女こそが「真のヒロイン」だ。
完璧超人のレオンハルト様と並び立って絵になるのは未熟な私ではなく、学園のカリスマである「氷の女王」しかいない。
「私、思うのです。レオンハルト様がお好きなのは、シエルお姉様のような……自立した、美しい女性なのだと」
私の言葉を聞いた瞬間、シエル様の瞳が静かに、けれど熱く揺れた。
それは私を傷つけた者への義憤と私自身への深い慈愛に満ちていた。
「……馬鹿なことを言う」
シエル様が、カップを持つ私の手にご自分の手を重ねてきた。
その手は大きく、私の手をすっぽりと包み込む。
しなやかで温かいその感触に私はなぜか不思議な充足感を覚える。
「あんな目の節穴な男に、君の価値がわかってたまるものか」
低い声。
けれど、そこには確かな熱が宿っていた。
「君はよく頑張ったよ、アルテミス。5歳という幼い頃から、ずっと一人で耐えてきたんだね」
「シエル……お姉様……」
「もう、頑張らなくていい。あの男のために心をすり減らす必要なんて、どこにもないんだ」
彼女の言葉が私の心の古傷を優しく撫でる。
私が一番、言って欲しかった言葉。
誰にも認めてもらえなかった10年間を、彼女だけが肯定してくれた。
シエル様が、そっと身を寄せてくる。
肩が触れ合う。
ミントと雨の匂いが、より濃く、深く、私を包み込む。
「これからは、私がお守りになるよ」
耳元で囁かれる甘い誓い。
「契約書なんて紙切れはいらない。私が君を守る。……君が望む自由も、安らぎも、すべて私が与えてみせる」
彼女の指が、私の頬を伝う涙を拭った。
その指先はまるで壊れ物を扱うように丁寧で、優しい。
私は、彼女の瞳から目が離せなくなる。
そこにあるのは、姉妹のような親愛だけではない気がした。
もっと熱く、切実で、すべてを捧げるような深い感情。
けれど、弱りきった今の私には、その正体を突き止める気力など残っていない。
ただ、差し出された救いの手に縋り付きたかった。
「……はい。シエルお姉様……」
私は彼女の肩に頭を預けた。
華奢な肩の感触が、今は何よりも頼もしい。
窓の外では、依然として春の嵐が荒れ狂っている。
けれど、この腕の中だけは安全だ。
私は気づかない。
私が「ヒロイン」だと信じているこの美しい人が、ようやく見つけた宝物を抱きしめるような顔で、安堵の息を吐いていることに。
そして、その腕が、私を二度と冷たい雨の中へは返さないという誓いのように、強く、優しく回されていることに。




