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番外編4話 完璧な結界(下)

【――決別の翌朝】


静寂に包まれた特別区画の寝室に穏やかな朝の気配が訪れ始めた。


分厚い遮光カーテンの隙間から青白い夜明けの光が一本の線となって差し込んでいる。

その光の先、最高級のシルクで設えられたキングサイズのベッドの中央で彼女はひどく小さく丸まって眠っていた。


(……アルテミス)


ベッドの縁に腰掛けたまま、僕は一睡もすることなくその寝顔を見つめ続けている。

昨夜、僕の腕の中で泣き疲れた彼女が深い眠りに落ちたのを見届けてから僕は「シエル」を形作っていた魔法のヴェールを脱ぎ捨てた。


僕の骨張った大きな手が彼女のプラチナブロンドの髪をそっと撫でる。

ひんやりとした絹糸のような感触が指の間に絡みつき、甘く清らかな香りが鼻腔をくすぐった。


昨夜、泥と冷たい雨に濡れそぼっていた彼女の身体はすべて僕の魔法によって綺麗に清められている。

凍え切っていた細い手足を時間をかけて温め、ひどく冷たくなっていた肌には最高級の香油をたっぷりと擦り込んだ。

そうして彼女を慈しみながら、僕はその無防備な首筋に何度も牙を立てたくなる衝動と戦い続けていたのだ。


今は僕が用意した少し大きめのネグリジェに包まれ、彼女は規則正しい寝息を立てている。

柔らかな生地の隙間から覗く、華奢な鎖骨と透き通るような肌。

昨夜の慟哭が嘘のように穏やかな表情は五年前、初めて夜会のバルコニーで出会った時のあどけない少女のままだった。


髪を梳く僕の指先に彼女の微かな体温がじんわりと伝わってくる。


すぐ手の届く距離に、僕が五年間ずっと渇望し続けてきた存在がいる。


その事実だけで下腹部に重たく熱い鉛のような欲望が溜まり、喉がカラカラに渇いていく。

今すぐこの腕で抱きしめ、僕の痕跡を全身に深く刻み付けてしまいたい。

彼女のすべてを僕の熱で染め上げ、二度と他の男の影が入り込めないように完全に塞いでしまいたい。


だが、暴れ出そうになる「雄」の衝動を、僕は奥歯を軋ませて必死に押さえ込んだ。


まだだ。

昨夜、彼女はあの傲慢な男――レオンハルトとの決別を選び、僕の胸で泣き崩れた。

あの男との繋がりは根底から断ち切られたと確信している。

けれど、それは彼女の心が「シエルお姉様」という安息の場所に逃げ込んだというだけに過ぎない。


ここで僕が不用意に『男』としての熱をぶつければ、男性という存在そのものに深い絶望を抱いている彼女は今度こそ完全に壊れてしまうだろう。


思い出すだけであの男への冷たい怒りが胸の奥で静かにとぐろを巻く。


あの地獄のような十一年間、彼女はどれほどのプレッシャーに晒されてきたことか。

愛のない結婚という義務。周囲の大人たちからの冷ややかな視線。

それでも彼女は誇り高くあろうと、たった一人で耐え抜いてきた。

そのひたむきな姿を僕は影からずっと見つめてきたのだ。

僕の愛しい小鳥をあんなにもボロボロになるまで追い詰めた男を、決して許すつもりはない。

彼女を傷つけた代償はいずれ彼自身のすべてを失うという形で完膚なきまでに支払わせる。

僕から奪おうとした傲慢さの報いを骨の髄まで味わわせてやる。


だが、今は復讐よりも優先すべきことがある。

彼女を公爵家の重圧から解放し、レオンハルトの執着から完全に守り抜くための完璧な盾を用意することだ。


僕はベッドからゆっくりと立ち上がり、素足のまま分厚い絨毯を踏みしめて窓際へと歩み寄った。

冷たいガラスに額を押し当て、微かな朝の冷気を肌で感じた。

朝霧に煙る学園の森を見下ろしながら、僕の頭脳は大公家次期当主としての冷徹な計算を高速で弾き出していた。


ローゼンバーグ公爵家の厳格な父親は彼女の婚約破棄など絶対に認めないだろう。


王家の承認を得た婚約を白紙に戻すには、単なる感情論では太刀打ちできない。

あの愚鈍なレオンハルトでさえ、自身の面目を保つため、あるいは歪んだ所有欲から強引な手段に打って出る可能性は十分に考えられる。

力で彼女を縛り付けようとする者たちから彼女を隔離するには、生半可な権力では意味をなさない。


ならば、誰にも文句を言わせない大義名分が必要だ。


『偽りの求婚者・シリウス』


それが、僕が彼女に提示する極上の甘い罠。

生真面目で誇り高い彼女が婚約者がいる身でありながら自ら「不貞」を働くような提案に同意するはずがない。

だから僕は一方的に熱烈な求婚者を演じ、彼女を『強引なアプローチに戸惑う不憫な被害者』に仕立て上げる。

「シエルお姉様が魔法で作り出した男性」という絶対的に安心できる前提を利用し、ただ僕のエスコートを「受け入れさせる」だけだ。


世間には「婚約者に放置される令嬢を救う高貴な騎士」として映り、彼女自身には「あくまでお姉様の助け」だと思い込ませる。

彼女が僕の隣で庇護されればされるほどレオンハルトは「婚約者を蔑ろにした冷酷な男」として世間から糾弾される。

そして僕は、彼女の罪悪感と男性への警戒心を「中身はお姉様だから」という言い訳で徹底的に取り除きながら、少しずつ、男としての僕の体温と匂いに慣れさせていくのだ。


そうして彼女の外堀を完全に埋め尽くし、気づいた時には僕なしでは呼吸すらできないほどに依存させる。

彼女の視界を僕で満たし彼女の思考を僕で染め上げる。


狡猾だと謗られようが構わない。

僕は彼女を安全な場所へ隔離して満足するような、温い男ではない。

彼女の折れた羽を甘く癒し、己のすべてを懸けて共に広い空へと飛び立つためにはこれくらい強固で逃げ場のない「共犯関係」が必要なのだ。


ベッドの方から、微かにシーツが擦れる音がした。


「……ん……」


小さな寝返りを打つ声。

極限まで張り詰めていた彼女の疲労も僕の用意したこの安全な部屋でようやく癒やされ、意識が浮上してくる頃合いだ。


僕はガラス窓から離れ、深く息を吸い込んだ。

体内の魔力回路を再起動し変身術式を展開する。

途端に淡い光の粒子が僕の身体をふわりと包み込んだ。

魔法のヴェールが北の厳冬を思わせる冷たく硬質な肉体を滑らかに覆い隠し、瞬く間に白磁のような女性の曲線へと偽装していく。

魔力によって緻密に再構築された骨格と筋肉。

喉仏は隠蔽され、低い声帯は繊細な楽器のように細く張り詰められる。

無造作に跳ねていた短い髪が空気を編むように長く伸び、瞬く間に艶やかな銀青色となって背中を覆い隠していく。


わずか数秒の内に冷徹な大公家の嫡男の顔は、完璧な淑女の仮面の下に完全に隠蔽された。

壁の姿見に映るのは氷のように美しい「シエル・フォン・ウィンターフェルド」だ。


足音を殺して再びベッドサイドへと戻る。

彼女の長い睫毛が微かに震え、まぶたの裏で瞳が動いているのが分かった。

もうすぐ、あのルビーのように美しい瞳が僕を映す。


サイドテーブルに置かれた銀の水差しからクリスタルのグラスに冷たい水を注ぐ。

目覚めたばかりの彼女の渇いた喉を潤すための、完璧な温度。

室内の温度も彼女がベッドから出た時に寒さを感じないよう魔導具で微調整を施した。

何一つ、彼女に不快な思いはさせない。


「……う、ん……」


ゆっくりと、彼女のまぶたが開かれる。

ぼんやりとした視線が天井を彷徨い、やがてベッドの縁に腰掛ける僕を捉えた。


僕は氷のように冷徹な計算と狂気的なまでの独占欲をすべて心の奥底に隠し込んだ。

そして、この世で最も慈愛に満ちた完璧な「お姉様」の微笑みを浮かべる。


さあ、始めよう。

君を永遠に僕の運命へと縛り付けるための、甘く、抗えない共犯者の契約を。


「……おはよう、眠り姫」


僕の甘く心地よい声が朝の静寂に溶け込む。


その声に弾かれたようにアルテミスはパチリと大きく目を見開いた。

寝起きのぼんやりとした瞳が瞬きを繰り返し、やがてここが自分の部屋ではなく僕の部屋であることに気づく。

昨夜、冷たい雨に打たれ、絶望の底で僕の胸に泣き崩れた記憶が鮮明に蘇ったのだろう。

透き通るような白い頬が一瞬にして朱に染まり、彼女は慌ててシーツを握りしめながら上半身を起こした。


「ご、ごめんなさい!私、勝手に寝てしまって……」


恥ずかしさに身を縮める彼女の姿は、ひどく愛らしくて庇護欲をそそる。

そのまま腕の中に閉じ込めて頭のてっぺんから爪先まで甘く食い尽くしてしまいたい衝動を、僕は完璧な淑女の微笑みの奥底に沈み込ませた。


「謝ることはないよ。君は限界だったんだ」


僕はベッドの縁からゆっくりと手を伸ばし、彼女の乱れたプラチナブロンドの前髪を指先でそっと整えた。

僕の指が微かに耳殻に触れると彼女の小さな肩がビクンと跳ね、心臓がトクリと脈打つ音が聞こえた気がした。

僕の魔力で編み上げられた「シエル」の滑らかな指先であっても彼女は僕の熱に確かに反応している。


「顔色が少し戻ったね。安心したよ」


あえて目を細め、僕は満足そうに頷いてみせた。

これから彼女に仕掛けるのは僕の腕の中から二度と逃れられなくするための過保護で甘い囲い込み。

愛しい人をようやく我が物にできる雄としての悦びが、どうしても瞳の奥に滲んでしまうのを止められない。


「さて、アルテミス。昨夜の話の続きをしようか」


僕は意識的に声のトーンを落とし、甘さを残しつつも真剣な響きを混ぜ込んだ。

これからの会話は「優しいお姉様」ではなく彼女の運命を左右する「共犯者」としてのものだ。


「君はレオンハルトとの婚約を破棄したい。……そうだね?」

「……はい」


彼女はシーツを固く握りしめた。

あの冷酷な男に叩きつけられた拒絶の記憶が、再び彼女を恐怖で縛り付けようとしている。


「でも、彼は取り合ってくれませんでした。契約書の効力も無視されて……」

「正面からぶつかっても無駄だ。相手はあの堅物のレオンハルトだ。理屈や感情論では動かない」


僕はベッドから立ち上がり、あえて彼女から視線を外して窓際へと歩いた。

腕を組み、雨上がりの庭を見下ろす背中を見せることで、彼女に「僕が真剣に策を練っている」と思わせるためだ。


「なら、どうすれば……」

「彼が『婚約破棄せざるを得ない状況』を作ればいい。……彼に『失格の烙印』を押すんだ」

「失格……?」

「そう。彼は君を放置し、心を殺そうとしている。その事実を、社交界という公衆の面前で突きつける」


僕はゆっくりと振り返った。


「君には、強力な『味方』が必要だ。レオンハルトよりも君を大切にし、君の価値を理解する……そんな『理想の騎士』が」

「き、騎士……?」

「そう。もし、そんな男が君の隣に現れたらどうなると思う?周囲は比較するはずだ。『なぜレオンハルト様は、あんなに素晴らしい婚約者を放置しているのか』『彼には公爵家当主としての器量がないのではないか』とね」


理路整然と語る僕の言葉に彼女は狼狽したように視線を泳がせた。


「で、でも!私にはそんな殿方はいません!」

「だから、私が……いいや、僕がなるのさ」


僕は彼女の目の前まで歩み寄り、立ち止まった。

戸惑う彼女の顎を指先でくいと持ち上げ、逃げ場のない距離でそのルビーの瞳を真っ直ぐに射抜く。


「僕が、その『理想の騎士』になってあげる」

「え……?」


思考が停止したように、彼女が固まる。

無理もない。今の僕は、どこからどう見ても完璧な「女性」なのだから。

彼女の疑問を先回りして読み取り、僕は挑発的な笑みを口角に浮かべた。


「忘れたのかい? 僕は大公家の人間だ。……変装魔法くらい、朝飯前だよ」


「……術式、解除(リリース)


張り詰めていた魔力の枷を外す。

瞬間、偽りの姿を形作っていた光が霧散し、圧縮されていた肉体が反動で一気に膨張した。関節が鈍い音を立て、視界がぐんと跳ね上がる。

白磁の令嬢は消え失せ、本来の暴力的なまでの重さを持った身体がそこにあった。


「……っ!」


ベッドの上で、彼女が息を呑む音が聞こえた。

魔法でドレスから洗練された騎士服へと衣を替え、本来の肉体を取り戻した僕は圧倒的な「雄」としての威圧感を放っているはずだ。


「どうかな?これなら、レオンハルトのライバルとして不足はないだろう?」


僕は、腹の底から響くような本来の低い声――甘く、掠れた男の声で囁いた。

その低い声が耳の奥を震わせた瞬間、彼女の背筋にゾクリとした戦慄が走るのがはっきりと見て取れた。


「シエル……様……?」


「ああ。この姿の時は『シエル』ではなく、別の名で呼んでくれないか」


僕はベッドに手をつき、彼女を壁際へと追い詰めるように顔を寄せた。

僕の熱い吐息が彼女の震える桜色の唇にかかる。

その無防備な唇を今すぐ塞いでしまいたい衝動を、限界まで張り詰めた理性で押さえつける。


「『シリウス』……。それが、君だけの騎士の名前だ」


僕が名を告げると彼女は魔法にかけられたように動けなくなった。

圧倒的な体格差と、逃げ場のない男の匂い。

彼女の心臓が未知の熱に浮かされて、うるさいほど脈打っているのが伝わってくる。


「……シリウス……様?」


恐る恐る僕の名を呼ぶ、その甘い響き。

僕はたまらず目を細め隠しきれない独占欲と艶やかな笑みを浮かべた。


「君が自由になるために、僕が君の『求婚者』役を演じる。……あくまで『演技』だよ。中身は君の友人のシエルだ」


さあ、僕という絶対的な逃げ場所の扉は開いた。あとは君が自ら足を踏み入れるだけだ。


「で、ですが……婚約者がいるのに、他の殿方と親しくするなんて……それでは私が『不貞な女』だと思われてしまいませんか?」


生真面目で誇り高い、僕の愛しい小鳥。

予想通りの模範的な返答に、僕は優しく首を横に振った。


「いいや、逆だ。君は『被害者』になるんだ」


僕は手を伸ばし、彼女の強張った頬を本来の大きな手の指の背で撫でた。

微かな無骨さを残したその感触に、彼女の肌が粟立つのがわかる。


「君は何も悪いことはしていない。ただ、僕のエスコートを受け入れればいい。そうすれば、世間は勝手に噂する。『あまりに不憫なアルテミス様を見かねて、高貴な騎士が救いの手を差し伸べた』とね」

「……レオンハルト様が悪者になる、ということですか?」

「そう。公爵家も、次期当主の悪評は看過できない。外聞を気にする彼らは、傷の浅いうちに婚約を見直そうとするはずだ」


悪魔的なまでに完璧な理屈。

僕の提案は、彼女の罪悪感を「被害者」という大義名分で完全に消し去る。


「でも……もしレオンハルト様が、世間体を気にして、私に優しくし始めたら……?」


「その時は君が拒絶すればいい。『今さら遅いです』と冷たく突き放すんだ。……君には、僕という盾がいる。僕の後ろに隠れていれば、誰も君を傷つけられない」


僕はさらに一歩近づき、彼女を見下ろして楽しそうに笑ってみせた。


「それでも、君は嫌かな?……僕と一緒に、あの堅物をギャフンと言わせるのは」


この言葉は、ただの意趣返しを装った殺し文句だ。

彼女の奥底にある「自由になりたい」という切実な渇望と「中身はお姉様だから」という甘い免罪符。

その二つが完全に噛み合った瞬間、彼女はゆっくりと、けれど確かな決意を持って頷いた。


「……お願いします。シリウス……様」

「いい子だ」


僕の手が、ごく自然に彼女の腰に回る。

グイと引き寄せ、僕の硬い筋肉と熱い体温に彼女を密着させる。


「契約成立だ」


顔を上げた僕の瞳には狂気的なまでの歓喜と暗い独占欲が渦巻いていたはずだ。

だが、今の彼女は「中身はお姉様だから」という思い込みによってその危険な匂いに気づかないふりをしている。


「さあ、まずは『シエル』に戻るよ。この姿は、ここぞという時までの切り札だ」


僕は再び指を鳴らし魔法のヴェールを纏い直した。

あっという間に、いつもの「シエルお姉様」の姿が戻る。


「……これだけは信じて。私は、君を傷つけるものすべてから、君を守り抜く」

「お姉様……」

「さあ、行こう。美味しい紅茶を淹れるよ」


僕はいつもの優しい笑顔を作り、彼女の手を引いて歩き出した。

繋いだ手から伝わる彼女の熱が僕の血管をどろどろに溶かしていく。


これで、君は完全に僕のものだ。


「偽りの共犯関係」という名の、誰にも解けない呪いの鎖。


いずれ僕が本当の「シリウス」として君を完全に組み敷くその日まで、君はずっと「中身はお姉様だから」と自分に言い訳をしながら自ら僕の腕の中へと深く、深く沈んでくるのだ。

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