第14話 氷解の夜と契約の終わり
馬車の扉が閉ざされた瞬間、世界から音が消えたようだった。
遠ざかるパーティー会場の喧騒。
石畳を蹴る蹄の音と、車輪の回転音だけが、心地よいリズムで夜の静寂を刻んでいる。
「……寒くはないかい?」
肩を抱く腕の太さも、伝わってくる体温の高さも、すべてが彼――シリウス・フォン・ウィンターフェルドのものだ。
「はい……。不思議です。あんなに怖かったのに、今はとても温かいです」
私は彼の肩に頭を預け、小さく息を吐いた。
卒業パーティー。
私の前世の記憶が告げていた「断罪」の舞台は、本来なら2年後に訪れるはずだった。
けれど、運命は歪み、早められた結婚という名の「鳥籠」となって私に襲いかかってきた。
もし今日逃げ出せなければ、私は心を殺され、一生飼い殺しにされていたかもしれない。
けれど今、私はこうして生きている。
温かい毛布のような彼の愛に包まれて。
「……全て、終わった」
シリウス様が私の髪を大きな手で梳きながら、静かに、けれど力強く告げた。
その言葉には一切の揺らぎがない。
私の不安を根本から断ち切るような絶対的な響きだった。
「……不愉快だったよ」
彼が、低く唸るように漏らす。
その瞳の奥には冷たい怒りの残り火が燻っていた。
「……レオンハルトが君の名を呼び、縋り付こうとした瞬間、理性が飛びそうだった。……その場で氷漬けにして、粉々に砕いてやればよかった」
「ふふ、それは困りますわ。……でも、ありがとうございます。私を守ってくださって」
馬車がゆっくりと停止する。
窓の外には、私たちだけの隠れ家――あの森のコテージがひっそりと佇んでいた。
***
暖炉の火だけが灯る、薄暗いリビング。
シリウス様は上着を脱ぎ捨てると、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
『愛がなければ、この婚約は白紙に戻せる』
かつて私たちが交わした、あの「共犯者」の契約書だ。
これが私の心の支えであり、同時に彼との間に引かれた「一線」でもあった。
「……もう、こんな紙切れは必要ない」
彼は私の目の前で、それを無造作に二つに引き裂いた。
ビリリ、という乾いた音が、あまりにあっけなく響く。
紙片は暖炉の中に投げ込まれ、一瞬で炎に包まれて灰になった。
「契約終了だ。……これでもう、君に逃げ道はないよ」
彼は振り返り、獲物を追い詰めるような鋭い瞳で私を射抜いた。
その瞳の奥にはドロドロとした独占欲と、焦がれるような情熱が渦巻いている。
けれど、もう怖くはなかった。
その熱こそが私が求めていたものだと知っているから。
「逃げるつもりなんて、ありません」
私は一歩、彼に近づいた。
これまで私を守ってくれた「シエルお姉様」への感謝を込めて、そしてこれからは「シリウス様」という一人の男性を愛するために。
「私は……貴方のものです。シリウス様」
その言葉が引き金だった。
彼は堪えきれないように私を強く抱き寄せた。
肋骨がきしむほどの強さ。
男性特有の匂いが鼻腔を満たす。
「……愛している。アルテミス」
耳元で囁かれる愛の言葉は魔法の呪文よりも甘く、私の理性を溶かしていく。
彼の手が私の顎をすくい上げ、唇が重なった。
今までのような「お芝居」のキスじゃない。
呼吸さえ奪うような、深く、貪るような口づけ。
身体が熱い。
彼に触れられている場所すべてが、火傷しそうなほど脈打っている。
不安も、恐怖も、すべてが彼への愛おしさに塗り替えられていく。
「……寝室へ行こう」
熱っぽい瞳で見つめられ、私は無言で頷いた。
彼に抱き上げられ、視界がふわりと揺れる。
暖炉の爆ぜる音だけが遠くで聞こえていた。
***
小鳥のさえずりが、意識の水面を揺らした。
カーテンの隙間から差し込む光が、瞼を柔らかく叩いている。
(……朝?)
恐る恐る目を開ける。
視界に飛び込んできたのは冷たい牢獄の石壁でも、護送馬車の粗末な天井でもない。
温かみのある木の天井と、窓の外で揺れる柔らかな木漏れ日だった。
(……温かい)
シーツの感触と隣から伝わる確かな体温。
本来なら破滅の未来に怯え、冷たいベッドで震えているはずだった。
けれど、現実は違う。
最悪のシナリオは回避され、私は今、穏やかな朝を迎えている。
(……もう、大丈夫なんだ)
「……ん……。おはよう、アルテミス」
隣から、彼の声が聞こえた。
ビクリとして振り返ると、そこには無防備な姿でまどろむシリウス様がいた。
銀色の髪が枕に散らばり、長い睫毛が震えている。
その顔は私が憧れていた「氷の女王」シエルお姉様ではなく、間違いなく一人の男性のものだった。
「……おはようございます、シリウス様」
私の声を聞くと彼はゆっくりと目を開け、安心したように微笑んだ。
その笑顔は、どんな朝日よりも眩しく、私の胸をいっぱいに満たした。
「よく眠れたかい?」
「はい……。こんなに安心して眠ったのは、生まれて初めてかもしれません」
嘘ではなかった。
常に「いつか来る破滅」の恐怖と隣り合わせだった私の人生。
その重たい鎖はもう、どこにもない。
シリウス様が身を起こし、私の髪を優しく撫でた。
その手つきは、壊れ物を扱うように繊細で、温かい。
「見てごらん」
彼が顎で窓の外を示した。
私はベッドから抜け出し、窓辺へと歩み寄る。
ガラス戸を開け放つとまだ少し冷たいけれど、春の匂いを含んだ風が吹き込んできた。
庭の木々には、小さな若芽が芽吹き始めている。
遠くに見える学園の尖塔も、どこか晴れやかに見えた。
「冬は終わったよ」
背後から、シリウス様が私をすっぽりと包み込むように抱きしめた。
広い胸板の感触と、首筋にかかる彼の体温。
「これからは、誰にも邪魔はさせない。……君はただ、僕の隣で笑っていればいい」
「……はい」
私は彼の腕に自分の手を重ね、強く頷いた。
もう怯えることはない。
私の隣には、最強の騎士(共犯者)がいるのだから。
「さあ、準備はいいかい? ……僕たちの領地へ帰ろう」
シリウス様が私の左手を取り、甲に口づけを落とす。
そこには見えないけれど、確かに永遠の誓いが刻まれていた。
私は涙をこらえ、満面の笑みで答えた。
「はい、シリウス様!」
風が吹き抜け、カーテンが高らかに舞い上がる。
私たちの前には、どこまでも続く青空と新しい旅路が広がっていた。
誤字報告ありがとうございます、誤字修正行いました。
もし面白いと思っていただけたら、下の評価で応援いただけると嬉しいです。
次回作も準備中ですので、またお会いできれば幸いです。




