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第12話 野獣の理性と甘い焦らし

コテージに戻った頃には、夜は更けていた。

いつもなら、この音を聞くと心が安らぐはずなのに、今夜は心臓が早鐘を打って落ち着かない。


「……座りなよ」


シリウス様が、革張りのソファを顎で示した。

彼は上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを二つほど寛げている。

その無造作な仕草から覗く鎖骨や、腕まくりをした前腕に浮き出る血管。

それらすべてが彼が「男性」であることを嫌というほど私に意識させた。


「は、はい……」


私は借りてきた猫のように、ソファの端にちょこんと座った。

隣に座る彼との距離は、拳一つ分。

けれど、そこから伝わってくる熱気は以前「お姉様」として寄り添っていた時とは明らかに異質だった。

重く、熱く、そしてどこか危険な香りがする。


「……怒っているかい?」


彼が、ブランデーグラスを揺らしながら尋ねた。


「え?」


「騙していたことだよ。……5年間も」


「い、いいえ! 怒ってなどいません。むしろ……」


私は首を横に振った。

怒る? とんでもない。

私のために、命がけの秘密を共有してくれていたのだ。

それに、もし彼が「シエルお姉様」になってくれなければ、私はきっと孤独に押しつぶされていただろう。


「感謝しています。……あなたがいてくれて、本当によかった」


私は正直な気持ちを伝えた。

すると彼はふっと目を細め、グラスをテーブルに置いた。

そして私の手をそっと取る。


「……君は本当に、いい子だね」


その声は甘く、とろけるようだった。

かつての「お姉様」の優しさに、男性特有の低音と色気が混ざった、抗えない響き。

彼が私の指先に口づけを落とす。

熱い唇の感触に背筋がゾクゾクと震えた。


「で、でも……その……」


私は、一番気になっていたことを恐る恐る口にした。


「これからは……どうなるのですか?」


「どうなる、とは?」


「その……父も公認の仲になりましたし、あなたは『男として愛する』と仰いましたし……」


言葉にするのが恥ずかしくて、顔が熱くなる。

つまり、その……「そういうこと」をするのかと聞きたかったのだ。

だって、彼は肉食獣のような瞳で私を見ているし、私も……嫌じゃない。

むしろ、彼になら何をされてもいいとさえ思っている自分がいる。


私の期待と少しの不安を読み取ったのか、シリウス様はニヤリと口角を上げた。

そして、私の腰に手を回し、強引に引き寄せる。


「……きゃっ!」


私の身体は彼の逞しい胸に収まった。

近い。

鼻先が触れ合いそうな距離で、青い瞳が私を射抜く。


「期待している顔だね、アルテミス」


「ち、違いますわ……!」


「嘘をお言い。……心臓が、こんなにうるさいよ」


彼の手が私の胸元に触れる。

トク、トク、トク。

私の鼓動は、彼の手のひらを通じて筒抜けだった。


「……でも、残念ながら」


彼は私の耳元に唇を寄せ、意地悪く囁いた。


「今夜は、何もしないよ」


「……え?」


私は拍子抜けして、間の抜けた声を出してしまった。

何もしない?

こんなに密着しているのに?

あんなに情熱的に求婚宣言をしたのに?


彼はクスクスと笑い、私の拘束を解いてソファの背もたれに寄りかかった。


「誤解しないでくれ。……君を抱きたくないわけじゃない。むしろ、今すぐにでも食べてしまいたいくらいだ」


彼の視線が私の唇から首筋、そして胸元へと這うように動く。

その熱視線だけで、服を脱がされたような気分になる。


「だが……まだ早い」


「早い……ですか?」


「ああ。君はまだ、僕を『シエルお姉様』の延長で見ている」


図星だった。

私は息を呑んだ。

確かに、私はまだ彼の中に「優しいお姉様」の面影を探している。

甘やかしてほしい。守ってほしい。全肯定してほしい。

それは対等な男女の愛というよりは、庇護者への依存に近いのかもしれない。


「僕はね、アルテミス。……君に『男』として愛されたいんだ」


彼は真剣な眼差しで私を見つめた。


「『お姉様の正体だから』ではなく『シリウス』という一人の男として、君が僕を欲情し、僕を求め、僕がいなければ生きていけない……そうなるまで、手は出さない。……それに」


彼は青い瞳を細め、窓の外の闇を見つめた。


「決戦は、来月だ」


「来月……」


「そう。卒業パーティーの翌日に結婚式を挙げると、レオンハルトは言ったね? ……なら、僕たちはその前夜――パーティーの最中に全てを引っくり返す」


彼は私の手を取り、指先に誓いのキスを落とした。


「それまでの1ヶ月間。……覚悟しておいてくれ。最後の一線は越えない。けれど……君が僕の腕の中でしか眠れなくなるくらい、徹底的に甘やかしてあげるから」


「……っ」


「知っているだろう? 僕は欲しいものは徹底的に手に入れる主義だ」


彼は悪戯っぽく笑い、私を軽々と抱き上げて寝室へと運んだ。

その夜、私たちはただ寄り添って眠った。

硬い腕の感触と、雄の体温。

それは「初夜」のお預けであると同時に、これから始まる1ヶ月間の、甘く苦しい「焦らし」の始まりでもあった。


          ***


それからの1ヶ月は、嵐のような、けれど夢のように甘い日々だった。


レオンハルト様からは、毎日のように山のような手紙や贈り物が届いた。

『君のために』『愛している』。

以前なら嬉しかったかもしれないその言葉も、今の私には空虚な響きしか持たない。


「……シリウス様。まだ、レオンハルト様には伝わっていないのですか? 私たちの婚約のこと」


ある夜、彼の腕の中で私は尋ねた。

父が内諾したのなら、普通はすぐに先方へ伝わるはずだ。

なのにレオンハルト様の様子は相変わらずで、何も知らないようだった。


「ああ。僕が公爵(きみのおとうさん)に口止めしたんだ」


シリウス様は、私の髪を梳きながら真剣な眼差しで答えた。


「『当日まで伏せておけ』とな。……今伝えて、彼が君を隠してしまったら厄介だ」


「隠す、ですか?」


「彼は今、理性を失いかけている。もし君が離れると知れば、権力を使って君を屋敷に幽閉しかねない。……僕は、君を危険に晒したくないんだ」


彼は私の頬に触れ、愛おしげに目を細めた。


「だから、衆人環視のパーティーで決着をつける。王家や貴族たちの前で、彼が二度と君に手出しできないよう、完膚なきまでに叩き潰す。……それが、君を最も安全に、確実に僕のものにする方法だ」


その言葉に、私は胸が熱くなった。

彼はどこまでも私を守ろうとしてくれている。

ただの意趣返しではなく、私の安全と未来を第一に考えてくれているのだ。


そうして私は毎晩のようにコテージへ通い、彼からの甘い「教育」を受け続けた。

触れるだけのキス。

服の上から身体を愛撫される感触。

「まだダメだ」と焦らされるたびに私の理性は溶かされ、彼への渇望だけが募っていった。


          ***


そして、迎えた運命の朝。

小鳥のさえずりと共に目を覚ますと枕元には一枚のメモと、真紅の薔薇が一輪置かれていた。


『準備は整った。迎えに行くよ』


流れるような筆跡。

私は薔薇を手に取り、そのベルベットのような花弁に唇を寄せた。

いよいよ、今日だ。

鏡を覗き込むと、そこには恐怖に震える「悪役令嬢」の顔はなかった。

愛される喜びに瞳を潤ませ、戦う覚悟を決めた、一人の「恋する女性」がいただけだった。


「……おはようございます、お嬢様」


ドアがノックされ、侍女たちがドレスを持って入ってくる。

それは、シリウス様が用意してくれた、瞳と同じ深い赤色のドレス。

私の覚悟の色だ。


その時だった。

再びコンコンと、控えめなノック音が響いた。

侍女の一人が、困惑した顔で銀の盆を差し出す。


「お嬢様……。その、アスタリスク公爵家から、早馬で手紙が」


「……あの方から?」


盆の上には、仰々しい封蝋がされた手紙が一通。

私はそれを手に取り、ペーパーナイフで無造作に封を切った。

中から出てきたのは、レオンハルト様の几帳面な筆跡だった。


『愛するアルテミスへ。

昨日はすれ違ってしまったが、今日のパーティーで全てが解決する。

君のために最高の舞台を用意した。

今日こそ、君を世界一幸せな花嫁にしてみせる。

愛を込めて。レオンハルト』


「……ッ」


読み終えた瞬間、喉の奥から乾いた笑いが込み上げてきた。

解決? 最高の舞台? 幸せな花嫁?

彼は何もわかっていない。

私が何に傷つき、何を望んでいたのか。

そして今、誰の愛に包まれているのか。


「……滑稽ですわ」


私は手紙をくしゃりと握りつぶし、燃え盛る暖炉の中へと投げ捨てた。

紙片は一瞬で炎に包まれ、灰へと変わっていく。

それは、私の初恋が完全に燃え尽きた瞬間だった。


「着替えさせて。……最高の『赤』を纏うわ」


私は侍女たちに命じた。

戦支度は整った。

彼に、現実(おわり)を教えるために。

いざ、運命のパーティーへ。

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