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第11話 氷の公爵と愛を乞う娘

ガタゴト、と馬車の車輪が凍てついた石畳を噛む音が響く。

窓の外を流れる景色は徐々に馴染み深い、けれど胃の腑が縮み上がるような重苦しい街並みへと変わっていた。


私の実家、ローゼンバーグ公爵邸。


「……っ」


膝の上で握りしめた手が、小刻みに震える。

隣に座る「彼」――シリウス様が心配そうに私を見つめている。


「大丈夫だ。僕に任せておけばいい」


「でも……お父様は怖いです。それに『シエル様の従兄』という設定で、どこまで話を聞いてくれるか……」


そう、私たちの作戦はこうだ。

『ウィンターフェルド大公家の親族』として彼が介入し、父に「強引な結婚はウィンターフェルド家との心証を悪くする」と圧力をかける。

あくまで「交渉」だ。


「心配ない。……とっておきの切り札があるからね」


彼は不敵に笑い私の冷たい手を包み込んだ。

その手は大きく、骨張っていて、とても女性のものとは思えない。

(本当にすごい……。まるで本物の男性に守られているみたい)

私はその温もりに縋るように、強く握り返した。


          ***


公爵邸の応接室は、針が落ちる音さえ聞こえそうな静寂に包まれていた。

磨き上げられた床。

壁一面に飾られた歴代当主の肖像画。

その威圧感だけで、私の心は萎縮してしまう。


「……それで?」


部屋の空気を震わせたのは、父――ローゼンバーグ公爵の声だった。

革張りのソファに深く腰掛け、鋭い眼光で私を射抜いていた。


「急に帰ってきたかと思えば、何の騒ぎだアルテミス。……来月の結婚式に向けて、花嫁修業に専念すべき時期だろう」


父の言葉に、私は息を呑んだ。

やはり、知っていたのだ。


「お父様……! 正気なのですか!? 私はまだ1年生です。卒業まであと2年もあるのに、来月結婚だなんて……!」


「レオンハルト殿からの強い要望だ」


父は冷淡に切り捨てた。


「『一刻も早く彼女を迎え入れたい』とな。……お前、彼に何か吹き込んだな? 婚約解消を匂わせでもしたか?」


「っ……」


「彼を不安にさせたお前の責任だ。向こうが『今すぐ結婚したい』と言っているのを、断る理由など我が家にはない。アスタリスク公爵家との縁を盤石にする絶好の機会だ」


「私が……まだ未成年でも、ですか?」


「貴族の婚姻に年齢など些末な問題だ。……それに、その男は?」


父の視線が、興味なさげに、けれど刃物のように鋭く私の隣へ向けられる。

私はゴクリと唾を飲み込んだ。


「……お父様。紹介させてください」


震える足をドレスの中で踏ん張り、私は口を開いた。


「この方は、シリウス・フォン・ウィンターフェルド様。……私が学園で孤立していた時、救いの手を差し伸べてくださった恩人です」


「ウィンターフェルド? 北の大公家の?」


父の眉がピクリと動く。

やはり、家名の効果は絶大だ。


「単刀直入に申し上げます、お父様。……レオンハルト様との結婚を、白紙に戻していただきたいのです」


「……何を言うかと思えば」


父は鼻で笑い、手元の冷めた紅茶に視線を落とした。


「子供の戯言だ。王家の承認も得た結婚だぞ? お前の『嫌だ』という感情だけで覆せるものではない。……国益を考えろ、国益を」


「ですが! 愛のない結婚は……!」


「愛? 貴族にそんなものは必要ない」


冷たく切り捨てられる言葉。

やっぱり、ダメだ。

この人にとって私はアスタリスク家と繋がるための「パイプ」でしかない。

絶望で目の前が暗くなりかけた、その時だった。


「――随分と、時代錯誤なことを仰る」


凛とした声が、部屋の空気を切り裂いた。

父の手が止まる。

隣に座っていたシリウス様が、ゆっくりと立ち上がったのだ。


「……貴様。大公家の親族とはいえ、部外者が口を挟むな」


「部外者、ですか」


シリウス様は、父の威圧感にも怯むことなく、むしろそれを上回る覇気を纏って一歩踏み出した。


「公爵。貴殿が『国益』と『家格』を重んじる方でよかった。……ならば、話は早い」


彼は私の肩をぐい、と抱き寄せた。

驚いて見上げると、彼は父を真っ直ぐに見据え、信じられないことを口にした。


「アルテミス嬢を、私にください。……レオンハルト殿ではなく、私が彼女を(めと)ります」


「……は?」


私の喉から間の抜けた声が出た。

め、娶る? 結婚?

待って、シエルお姉様、何を言っているの!?

いくら変身しているからって女性同士で結婚なんてできるわけがない。お父様に正体がバレたら、大問題になる!


私は真っ青になって彼の袖を引いた。

「ちょ、ちょっと! 設定が違いますわ!?」


けれど彼は私の制止を無視して、懐から一つの「紋章」を取り出し、テーブルの上に叩きつけた。

ガォン、と重い音が響く。

それは雪の結晶と狼を象った、純銀の印章。


「これは……大公家の『嫡男』の証!?」


父が目を見開き、身を乗り出した。

嫡男?

大公家には娘しかいないはず……。


「自己紹介が遅れました」


シリウス様は胸に手を当てて優雅に一礼した。

その瞬間、彼が纏っていた空気が――変わった。


魔法ではない。

喉仏の輪郭がより明確になり、肩幅がわずかに広がるように見える。


「私の名は、シリウス・フォン・ウィンターフェルド。……大公家の『長男』です」


低い、あまりにも自然な男の声。

あんなにも一緒にいたのに、それが魔法による合成音声ではないことに今更になって気付く。


(うそ、まさか……最初から、魔法なんて使っていなかったの……?)


「病弱ゆえに存在を隠されておりましたが……今はもう、この通り」


彼は不敵に笑い、父を見下ろした。


「家格においても、権力においても、アスタリスク公爵家に引けを取るつもりはありません。……どうでしょう、公爵。嫌がる娘を無理やり次男坊に嫁がせるより、私の妻にした方が、よほど『国益』になるのでは?」


父は絶句していた。

視線がシリウス様の顔とテーブルの上の紋章を行き来する。

やがて、父の中で計算機が弾き出された音が聞こえた気がした。


「……大公家の、隠し玉か」


父が、呻くように言った。


「娘が連れてきたのが、ただの『間男』なら斬り捨てるところだったが……。まさか、これほどの優良物件を釣り上げてくるとはな」


父の視線が、私に向けられた。

そこにはいつもの冷徹さと、どこか感心したような評価を改める色が浮かんでいた。


「アルテミス。……お前、知っていたのか? 彼が、大公家の跡取りだと」


「え、あ、いえ、その……ッ」


知らなかった。

お姉様だと思っていた。

女性だと思っていた。

だって……あんなに優しくて、いい匂いで、一緒にお風呂に入ったり、着替えたり、キスしたり……。


過去の記憶が走馬灯のように駆け巡り、顔から火が出るどころか爆発しそうになる。

男性?

この人が?

ずっと?


私がパニックで固まっていると、シリウス様――いいえ、正真正銘の男性である彼が、私の腰に回した手に力を込めた。


「彼女は、私のすべてを知った上で、私を選んでくれました」


彼は涼しい顔で嘘をついた。

そして私を覗き込み、とろけるような甘い微笑みを向けた。


「そうだろう? ……僕の可愛いアルテミス」


その瞳は語っていた。

『今は話を合わせろ』と。

そして『後でたっぷりと教えてあげるよ』という、背筋がゾクゾクするような色気を孕んで。


私は、コクコクと壊れた人形のように頷くしかなかった。

父は深々と溜息をつき、背もたれに身体を預けた。


「……いいだろう。娘がそこまで惚れ込み、相手がそれだけの力を持っているなら、親として止める理由はない」


父は認めた。

私の「恋」ではなく、彼という「力」を。

けれど、結果として私は自由を手に入れた。


……いいえ。

隣で勝ち誇ったように笑う、美しい「野獣」の腕の中に、自ら飛び込んでしまったのかもしれない。


          ***


「……というわけで、父上の内諾は得た」


公爵邸を辞し、帰りの馬車の中でシリウス様はそう言って小さく息を吐いた。

ガタゴトと揺れる馬車の中は、さながら二人きりの世界のようだった。

ただし、私の隣に座っているのはもう「お姉様」ではない。

足を崩し、私の肩に自然と腕を回しているのは、正真正銘の「男性」である彼だ。


「えっと……あの、シリウス、様?」


私は恐る恐る彼の名を呼んだ。

まだ、混乱していた。

シエルお姉様だと思っていた人が、本当は男性で、しかも大公家の嫡男。

父の前であんなにも堂々と求婚宣言をし、私を「妻にする」と言い切ったあの瞬間が、まだ鮮明に脳裏に焼き付いている。


「呼び捨てでいいよ、アルテミス。……それとも、まだ『お姉様』と呼ぶかい?」


彼は低い声で囁き、私の頬に手を添えた。

その指先が耳元を掠めると、背筋に電流が走るようなゾクゾクした感覚が襲ってくる。

男性の手。

大きくて、骨ばっていて、熱い。

これが、今までずっと「お姉様の手」だと思っていたものの正体。


「ど、どうして……今まで隠していたのですか? 大公家の嫡男なら、あんな変装をしなくても……」


私は震える声で問いかけた。

すると、彼は少しだけ表情を曇らせ、窓の外へと視線を投げた。

その横顔には、大貴族ゆえの冷徹さと、私が知らない苦悩の色が滲んでいた。


「……生きるためさ」


「生きるため、ですか?」


「ああ。ウィンターフェルド家は、血で血を洗う権力争いの渦中にあった。父の側室や分家筋が、常に嫡男の座を狙っている……そんな場所だ。もし私が『健康な男児』として生まれていれば、幼いうちに毒を盛られていただろう」


彼は淡々と語った。

それは、あまりに重い告白だった。

華やかに見えた「氷の女王」シエルの仮面の下には、常に死と隣り合わせの少年がいたのだ。


「だから、私は存在を消した。『病弱で療養中の長男』ということにし、表向きは『娘のシエル』として振る舞うことで、敵の目を欺いてきたんだ」


「そう、だったのですね……」


私は胸が締め付けられる思いだった。

彼が時折見せていた、あの氷のような冷たい眼差し。

それは、自分を守るために磨き上げられた刃だったのだ。


「だが――」


彼は視線を戻し私を真っ直ぐに見つめた。

その瞳の温度が一瞬で変わる。

氷が溶け、その奥にある灼熱のマグマが顔を覗かせたような、熱っぽい瞳。


「その呪われた運命にも、一つだけ感謝していることがある」


「感謝……?」


「この姿のおかげで、君の『懐』に入り込む口実ができたことだ」


彼は私の髪を一房すくい上げ、愛おしそうに口づけを落とした。


「君には、レオンハルトという婚約者がいただろう? 鉄壁の『公爵令息の婚約者』だ。……まともな男として近づけば、君は警戒して距離を置いただろうし、周囲も許さなかったはずだ」


確かにそうだ。

私が男性と二人きりになるなんて、絶対にあり得ない。

けれど「同性の先輩」であるシエルお姉様なら、お茶をするのも、相談に乗ってもらうのも、肌を寄せ合うことさえ許された。


「5年前……君が11歳の時。王宮の夜会で、君は一人で泣いていたね。レオンハルトに置いて行かれ、周囲の冷たい視線に耐えながら」


「……えっ?」


「あの日、私は君に恋をした。……健気で、誰よりも気高い君に」


彼の声が熱を帯びる。


「悔しかったよ。私なら、君を一人になんてしない。私なら、君を世界で一番の幸福な女性にできる。……なのに、私は『女』のふりを続けなければならなかった」


彼は私の手を強く握りしめた。

痛いほどに。

その痛みは、彼が抱え続けてきた5年間の鬱屈そのものだった。


「だから、利用させてもらったよ。この『シエル』という安全な立場を。……君が泣いている時、一番近くで涙を拭い、君の心が婚約者から離れていくのを、誰よりも近くで待ち構えていた」


ぞくり、と背筋が震えた。

彼は、見ていたのだ。

私が苦しんでいる時も、寂しさに耐えている時も。

生きるための変装が、いつしか私への執着を満たすための手段に変わっていた。

その蜘蛛の巣のような忍耐強さと、深い愛に、恐怖よりも先に胸が高鳴ってしまう。


「……ずるい方です」


「否定はしない。……欲しいものを手に入れるためなら、私はどんな手でも使う」


彼は私の腰を引き寄せ、耳元で低く囁いた。

その吐息が、鼓膜を直接震わせる。


「もう家督争いは終わった。邪魔者は排除し、地盤は固めた。……だから、もう隠れる必要はない」


彼の腕に力がこもる。


「覚悟してくれ、アルテミス。……これからは、遠慮なく『男』として愛させてもらう」


「ぁ……」


その宣言は、甘美な呪いのように私を縛り付けた。

レオンハルト様との冷たい鳥籠からは抜け出せた。

けれどその代わりに私は、もっと深く、もっと甘い、底なしの沼に囚われてしまったのかもしれない。

ずっと私を見つめ、私を待ち続けていた、この美しい獣の腕の中に。


馬車は夕闇の中を走り続ける。

窓の外には、粉雪が舞い始めていた。

恐怖も、倫理も、すべてはこの腕の中の熱に溶かされ、私はただ甘い眩暈(めまい)に溺れていた。


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